「桃太郎」や「かぐや姫」のお話を、いつ誰から聴いたか記憶している人が、いったい何人いるでしょう。少なくとも私は覚えていません。祖母、母、あるいは保育園の保母さんが語ってくれたのかもしれませんが、いつのまにか身の内に染み込んでいたように感じます。民族の文化とはそういうものなのでしょう。私も含め、日本のマジョリティーである和人の多くは、日本語を「国語」として学び、ドラマやクイズ番組など様々な機会に和人の文化や歴史を学習しています。自覚がないだけで、実はシャワーを浴びるように「民族教育」を受けて育ってきたのです。
一方、アイヌの子どもたちに「アイヌのお話、知ってる?」と訊いたら…おそらくほとんど全員が首を横に振るでしょう。親がよほど意識的な家庭であるか、子ども自身がアイヌ語教室に通うなど特別な環境で育たなければ、一編の物語すら思い浮かべることができないというのが、現在のアイヌの人びとの状況なのです。
物語に限ったことではありません。私は1983年に、当時の二風谷アイヌ文化資料館館長・萱野茂氏(1926~2006)のアシスタントとして平取町二風谷に移り住み、2000年までアイヌ語教室子どもの部の講師を務めていましたが、例年、夏休みの合宿では、テーマを決めて作文を書くことにしていました。ある年、ちょっと目先を変えて「アイヌの歴史について思うこと」というテーマを出してみたところ、皆が皆、なにも書けずに固まっていました。唯一書けた中学生ですら、たった一言「シャクシャイン」。ただし、いつ頃の人物かもわかっていません。これが日本史ならどんなに歴史嫌いな中学生でも、聖徳太子や徳川家康など、何人もの人物名を挙げることができるでしょう。
子どもたちは物語の一つ、歴史の大枠すら教えられないまま、ましてや本来母語であるはずのアイヌ語などまったく理解できないまま、アイヌとしてのアイデンティティーの確立のみを求められています。
今年6月、日本政府はアイヌ民族を日本の先住民族であると認めました。今後様々な権利保障が進んでいくことでしょう。それに対し、「どうしてアイヌばかり優遇されるのか。和人にも生活に困っている者はたくさんいるし、アイヌにも大金持ちはいる」という声を聞きます。けれども、和人は、富者も貧者も「桃太郎」を知っているのです。
たとえ少数でも、民族教育を願うアイヌの親子がいるならば、そのための学校教育システムを準備する必要があると私は考えます。現状では、そのための道のりは果てしないように思えますが、先住民族が居住する多くの国では、すでに当たり前に行われていることなのです。
民族教育のシャワーは、万人が浴びる権利を持っているはずです。