JRで東室蘭駅から室蘭に向かい最初の駅が輪西です。駅前は細い道路が交差して碁盤の目のようになっており、商店や民家が混在した昔ながらの街を形づくっています。ボルタ工房はそんな街の一角にあります。建物は元家具店だったそうで、外見は、正面ガラスに「ボルタ工房」と書かれているほかは何も見あたらない簡素なつくりです。
中に入ると、奥でボルタを製作している様子をガラス越しに見ることができます。そして壁には01から100までのナンバーを付けたボルタがずらり。01考えるボルタ、02サックスを吹くボルタ、03ペットに挑戦のボルタ、04ドラムをたたくボルタ、05はしゃぐボルタ、06ベースにうっとりのボルタ、07フラフープでノリノリのボルタ…。体高は5センチほどで、ビス(小ねじ)、ボルト、ナット、ワッシャなどを巧みに組み合わせ、ハンダで接合されています。
大きめのナットに座って「考える人」のポーズをとる「考えるボルタ」、長いビスを曲げてつくったサクソフォーンを持った「サックスを吹くボルタ」。ワイヤーが縄跳びの縄、発光ダイオードが花になったりもします。
一番のポイントは目。プラスドライバー用のビスを使っていて、「++」であったり「××」であったり「+×」だったり。体のポーズと合わせて、それぞれが愛嬌ある表情をつくり上げており、パソコンや携帯電話の顔文字のような雰囲気があります。
ボルタは合計100種類。最後の100は01番に戻ったような「また考えるボルタ」です。ほかに通常のボルタより3倍ほど大きいボルタや、洞爺湖サミットにちなんだ8人のボルタが円卓を囲むセット、室蘭名物のカレーラーメンののぼりを持ち上げているボルタなどが展示されています。
このボルタ工房を運営しているのが「てつのまちぷろじぇくと」、略称「テツプロ」(川原隆幸代表=36=)です。2004年5月に結成されました。輪西町にはもともと輪西青年経営研究会という団体があり、そのうちの若手有志がテツプロの中心メンバーとなります。代表の川原さんは家具店、ほかに書店、電気店などの後継者でした。また輪西以外からも大学講師や学生、市役所職員、新聞記者などが加わり、高桑勝利さん(38)が事務局長となりました。
テツプロのホームページには、その趣旨が次のように書かれています。「昔から、室蘭は『鉄の街』として知られ、そして栄えてきました。鉄は重厚で長大な産業として室蘭を支えてきたわけですが、鉄が街に寄与するのはそれだけでしょうか。『鉄』を愛でること、触れること、加工すること、あるいはそれを食べることなど、もっと鉄と人との身近な関係があるはずです。私たち『てつのまちぷろじぇくと』通称『テツプロ』は、このような人と『鉄』の身近な関係に焦点をあて、それらをうまく用いながら、室蘭の街を新たに盛り上げようと集まった団体です」
テツプロが誕生した2004年の9月には日本古来の砂鉄と木炭を使った製鉄法である「たたら」の全国的なイベント第5回全国たたらサミットが室蘭で開催される予定で、テツプロの最初の事業はそれに合わせた「アイアンフェスタ」の開催でした。
輪西駅前は碁盤の目状の市街地ですが、JRの線路とそれに並行して走る自動車専用道路の室蘭新道をはさんだ反対側は、新日本製鐵室蘭製鐵所とその関連企業の工場が建ち並ぶ広大な臨海工業地となっています。輪西町は新日鐵室蘭の企業城下町なのです。
かつてここは労働者の街として活気に満ちていました。新日鐵(1970年まで富士製鐵)の社宅があり、朝は工場に向かう道が労働者であふれ、夕方には工場の通用門からどっとはき出されました。室蘭を代表する食べものとして全国的に有名になった豚肉を使うやきとりは、働く人びとの楽しみであり明日の活力にもなっていました。市内でもっとも古いやきとり屋さんが残っているのもこの街です。
しかし工場の合理化によって人員は減少し、「鉄冷え」といった鉄鋼産業の低迷もありました。社宅が減少し、住宅地が東室蘭方面に移動して街の活気は徐々に失われていきます。近年は高品質な鉄鋼製品の生産で新日鐵室蘭などの工業生産額は過去最高の水準にまで達していますが、いったん失われた街の活気は戻りません。そんな中で開かれたのがたたらサミットでありアイアンフェスタだったのです。
たたらサミットは輪西町にある室蘭市民会館や輪西公園などで3日間にわたって開催されました。たたら製鉄についての講演のほか、室蘭市内では新日鐵と並ぶ基幹企業の日本製鋼所室蘭製作所内にある瑞泉(ずいせん)鍛刀所の刀匠の講演なども行われ、たたら炉体験、全国各地のたたら炉が集っての競技会も開かれました。また同時開催のアイアンフェスタでは鉄製のオブジェを並べたギャラリーや蹄鉄投げのゲーム、スズで鋳物のキーホルダーをつくるコーナーなどが開設され、輪西の街は3日の期間中、鉄一色に染まりました。
翌2005年9月、第2回アイアンフェスタが3日間開かれます。鉄の芸術家による作品づくりとその体験、たたら製鉄の実演などのほか、レストランが考案した赤サビのような色で成分も鉄分たっぷりのスープが販売されるなど、1年前と同様、鉄一色の街となりました。
この数日後、イベントの打ち上げでメンバーが飲食店に集った際、テツプロのあり方が議論になります。年に1回のイベントを開くだけで鉄によるマチおこしが本当にできるのかという疑問の声が出たのです。
「アイアンフェスタ以外の活動がまったくできなかったという反省がありました。イベント以外に何かしなければならないと。イベントでつくった鉄の人形の評判が良くて、いくらで売っているんだ、という声がどんどん届いていました。これを商品にしたらけっこう売れるのではないかという話になったのです」とテツプロ代表の川原さんは振り返ります。
「市民が喜んでいるといっても、お金をかけたお祭りで喜ぶのはあたりまえです。もっとマチに残るようなことをしなければ、という話になりました」と室蘭工業大学講師でテツプロ結成当初から参加していた真境名(まじきな)達哉さん(39)も言います。その席で、鉄の人形づくりの具体的な方針が決まったのも、テツプロが若手の自由闊達な集団だったゆえでしょう。
まず製作しやすく売りやすいように人形は小さなものにし、接合も溶接ではなく、メンバーが自宅でできるハンダ付けとなりました。デザインは室工大の学生が担当、月に5種類ずつ考案し、100種類まで続けることにしました。
2ヶ月ほどで最初の5種類ができあがり、さっそくメンバーが製作にとりかかります。しかしいくら鉄のマチで生まれたからといって、鉄の加工は素人です。みんな悪戦苦闘だったようですが、まったく予期していなかった問題も発生しました。
「自宅の居間で人形を20体ほどつくったんですが、部屋中がひどい匂いになって、翌日は気分が悪くなってやめました。健康への影響なんて考えずに始めたので、いま考えれば危ないところだったと思います」(川原さん)
ハンダ付けするときには、その接合部分にフラックスという酸性の強い融剤をつけて皮膜を除去します。それがハンダの熱で蒸発し、部屋中に立ちこめたのです。話は飛びますが、のちにテツプロではボルタ製作のためのボルタ工房を設置、それから現在のボルタ工房に移ります。最初の工房では10人以上が作業し、まず手が荒れ始めました。1ヶ月ほど過ぎると喉と目に異常を訴える人が多くなりました。そのため手袋やマスクを付け、換気に気をつけたり、製作工程を変えるなどの対策を行いました。現在の工房は換気システムにも気を配った設計になっています。
メンバーが手づくりした小さな人形は「ムロランワニシ ボルトマン」として12月に市内で開催された2つのイベント会場で販売され、ほぼ完売しました。翌2006年2月には丸井今井デパート室蘭店で開催された「第16回手わざ展・第2回ものづくり公募展」に出品。ところがイベントの初日の30分ほどですべて売り尽くしてしまい、期間中にもかかわらずお客さんは見ることもできない状態です。主催者から大目玉を食らいました。
人形づくりは市内の授産施設や電気店などに依頼され、徐々に生産量が増えていきます。種類も予定どおり月に5つずつ増えていきました。またボルトマンと呼ばれていた名称が、ほかでも使われていることが判明し、新たな名称をつけるために公募を行い、登別の小学4年生が考えた「ボルタ」と命名されました。この人形はその後輪西町から巣立って日本全国に羽ばたいていきますが、このかわいらしい名前が大きな役割を担ったことはまちがいありません。
4月には輪西町の地元の複合施設「ぷらっと・てついち」と白鳥大橋のたもとにある道の駅「みたら」での販売を開始、毎月1日から販売されましたが、月600個を製造しているにもかかわらず即日完売が続きました。その人気ぶりを東京のテレビ局が報じて人気に拍車がかかります。
室工大の真境名さんはその人気ぶりを「みたら」に見に行ったことがあるそうです。その光景は真境名さんにとってちょっと異様なものでした。
「東京のテレビ局が取材に来た日で、開店前に30人くらいが並んでいて、それがいいおじいちゃんやおばあちゃんたちなんです。買いたい番号を紙に書いて渡す。ボルタは番号別にバケツに入っていて、売り場の人は紙を見てバケツから出して袋につめて。その次はキャッシャーがいてと、流れ作業でさばいていく。それが妙にシステマティックで、だれも大きな声を上げたりせずに黙々と買っていく。それはすごかったですね」
東京のテレビ局が取り上げたことでボルタ人気は全国区となります。そこで前述しましたが、7月にはボルタ製作専用のボルタ工房を時計店2階の1部屋に開設、10人以上での製作が始まり、月産2千個以上となりました。
2006年9月には2日間の第3回アイアンフェスタを開催、ボルタの種類は最終目標の100のちょうど半分の50種類となります。それらはみな室工大の1人の学生(大学院生)が担当しました。また授産施設などでの指導もその学生が行いました。
「内田君という学生が担当したのですが、彼の話といえば全部苦労話になってしまいます。デザインの考案も大変ですが、つくるのも簡単ではありません。いま工房におられる方は元歯科技工士さんとか、企業の退職者とか、細かい手先の仕事ができる人たちです。ですが当初は市民に手分けして作ってもらおうと募集したら、30分か1時間ほどでボルタをつくって、ああおもしろかったとみんな帰ってしまったり。我慢強い内田君でしたが、とうとう音を上げてしまいました」(真境名さん)
こうしている間にも人気はどんどん広がっていきます。11月には楽団とサッカーのそれぞれ5体をセットにした郵便局の「ふるさと小包」を始めました。地元の人は生産量に限界があることを知っていて、市内で販売する場合は数量限定でも理解してもらえました。ところがふるさと小包はまったなしです。
「注文のお金はどんどん振り込まれるのに、ぜんぜん生産が間に合わなくて、つくってはすぐ箱詰めする状態でした」とテツプロ事務局長の高桑さんは言います。沖縄を除く全国から注文が舞い込み、すぐには送れないというお詫びの電話を入れなくてはなりませんでした。このふるさと小包は、翌2007年10月の郵政民営化で食べ物以外は扱わなくなったことから廃止され、現在の通信販売は楽団5体とポストカードのセットを電話注文で受けるだけになっています。
2007年6月、ボルタ工房は現在の場所に移転し、広さが約3倍となります。製作現場が見学でき、ボルタ製作の体験ができるスペースと設備を備えました。移転の理由は換気設備の充実などさまざまですが、大きな要因の1つは、じつは風の影響だったそうです。
「時計店の2階では、電気を使いすぎてブレーカーが落ちたことがありました。同じ階に建設会社の事務所が入っていて、そこも電気が消えてコンピューターのデータが消えてしまった。あのときは迷惑をかけました。現在のところに移ったきっかけは、2階だったので風が強い日に揺れたことです。細かい作業なので、生産に影響が出るほどでした」(川原さん)
こうして生産力はさらに増強され、月産4千体近くまでなりました。7月には4回目となるアイアンフェスタが、21回を数える輪西商店街振興組合主催のワニ祭りと同じ日程で2日間開かれ、たたら製鉄の実演のほか、鉄の燻製器でつくった燻製の販売や大型ボルタの製作体験などが行われました。9月にはボルタの種類が100番に到達、そこに至までに最初の内田さんを含めて室工大学生3人がデザイン開発にたずさわりました。
2008年7月にはミュージシャンでSTVラジオパーソナリティの中嶋シゲキさんが企画し作詞した「ボルタのラブソング」というCDが発売され、ボルタ工房では「告白再びのボルタ」とポストカードを合わせたセット販売を始めています。また室蘭カレーラーメンの会の依頼を受け、約30センチもあるラーメンののぼりを懸命に支えるボルタを製作、各店舗に飾られています。
9月23日には近代製鉄発祥150年を記念した新日鐵や日鋼での見学会が行われ、同日アイアンフェスタも開催され、ボルタづくり体験のほか、地元飲食店による割引サービスなどが行われました。またボルタの新しい仲間として女の子のボルタが考案され、その名前が公募されて全道からたくさんのハガキが寄せられています。
2008年の夏すぎになって一時期のような爆発的なボルタの売れ行きは止まりましたが、販売先は市内のほか登別や洞爺湖、虎杖浜温泉、新千歳空港、札幌の東急ハンズ、丸善などとなり、生産量と販売量が釣り合う程度となっています。
こうしたテツプロの活動は、内閣府地域再生事業推進室の地域雇用創出のための調査対象(平成18年度=2006年度)になり、報告書が作成されています。それによるとボルタのコストは人件費175円、販売費100円、材料費75円、包装費などの雑費50円の計400円に上っています。原価率が高く、500円で販売すると利益は100円。その100円は新デザインの開発・試作費やテツプロの運営費に充てられています。
メンバーの報酬はまったくなく、製作している人も時給ではなく有償ボランティアとして1体175円の出来高制です。調査時から材料費の高騰などがあって収支は悪化し、1体600円に値上げされました。それでもボルタ工房の家賃は輪西商店街振興組合から半額助成してもらい、駐車場も新日鐵室蘭から借り受けた同組合から無料で使わせてもらっているのが現状です。
そんな中でも鉄によるマチおこしという初心に立ち返り、ボルタとは別な新たな活動が2007年から始まっています。それが溶接などの本格的な加工ができる「輪西スタジオ」の開設。鉄の作家が常駐し、作家の創造の場になるとともに、一般の人の見学、そして加工体験も可能で、特別な注文が来ればその製作の場にもなる本格的な工房です。
スタジオはボルタ工房から200mほど離れた川原家具店(川原さんの店)に隣接する倉庫内につくられました。作家は1年契約で利用でき、販売目的の小品や注文された製品をつくって収入を得ることもできます。また契約の延長も可能です。
すでに坂本正太郎さんという室蘭生まれの若い鉄の彫刻家がこのスタジオを利用し、約1年間、創作活動を行いました。2008年9月には新たに2代目となる女性作家、登尾(のぼりお)真帆さん(23)が北広島市から移り住み活動を始めています。
「じつはテツプロの活動はまったく知らなかったのですが、3月に卒業した大学の先生から、こういうのがあるよと知らされて応募しました」(登尾さん)
神奈川県にある女子美術大で金属作品を専門に取り組み、木を模したり、マグロの尻尾をリアルに表現するなど、見る人が触れてみたくなるような作品をつくってきました。
「登尾さんは将来独立すると思いますが、ここを出て行くときにはちゃんと食べられるようになってほしい。自分の創作活動に支障のない範囲で、注文された作品をつくったりしながら、いろいろ試していただきたいと思います。またこの活動が注目され、登尾さんにとってもテツプロにとっても活動が広がって行ければとも思っています」(川原さん)
川原さんたちの将来構想は、あちこちから鉄を加工する音が聞こえるような鉄の風景がとけ込んだ輪西の街をつくること。その第1歩が毎年開催されるアイアンフェスタ、第2歩が女の子のキャラクターも加わったボルタ、そして第3歩は輪西スタジオの開設といえるでしょう。「室蘭といえば鉄というイメージが全国的に定着しています。その強烈なイメージを地域ブランドとして生かしていかなくては」と室工大の真境名さん。鉄鋼労働者の街ではあったけれども、鉄の風景がとぼしかったこの街は、少しずつ、そして確実に鉄のマチにと変貌しています。