中学の時に演劇に興味をもち、演劇部がなかったので放送部に所属していました。高校生で念願の演劇部に入部し、2年生の時には役者として、高文連の地区大会で札幌市民会館の舞台に立ったこともありました。今思えば冷汗3斗です。
その傍らでは生徒会活動という二足のわらじを履きながら、なんとか大学に入学できました。さっそく演劇研究会に加入し、教室にいるより部室にいる時間のほうが長いという学生生活を送り出しました。
その演劇研究会が市内のアマチュア劇団と合同公演を実施することになり、私は先輩の下で照明担当となりました。そのときに現在の会社の前社長の武内昭二と知り合ったのが、今の私につながっています。公演終了後に時間のあるときにアルバイトに来ないかと言われ、元々好きな道でしたので、なんとなく手伝うようになったのが運の尽きで、ずるずると裏方稼業に引きずり込まれてゆきました。
だんだん仕事の量が増え、授業に出る暇がなくなってしまい、2年の時には単位不足でついに留年という羽目になってしまいました。次の1年間は足りない単位分はちゃんと履修し、とりあえず学部には行ったのですが、また夏休みに呼び出され、手伝っているうちに、本当に授業に出ることができなくなってしまいました。さぼり癖がついてしまったのかもしれませんね。
両親をかなり苦しませることになりましたが退学し、本格的に裏方修行を始めました。当時は当社の前身がまだ同人組織のような状態で、正式社員はゼロ。仕事のたびに演劇に興味のある人間や劇団員などのアルバイトを集めてなんとかこなしていた状態で、私が正式入社第1号となりました。今思えば隔世の感があります。
1972(昭和47)年、札幌オリンピックが終わった後に、武内が会社組織にすることを決断してくれ、5月に株式会社として発足いたしました。一番うれしかったのは、社会保険が適用になることでした。社会保険事務所に申請に行ったところ、こんな職種は聞いたことがない、とりあえず1年間営業できたら受け付けてやると言われてしまい、やっと1年後に申請を受け付けてもらえたという経緯もなつかしい思い出です。
それからもう35年もたってしまいました。この業界も当時とはずいぶん変わってきています。就業人口も格段に増えました。アナログがデジタルに変わり、照明の世界ではコンサート・テレビの歌番組などでよく見かけられるムービングライト全盛の時代となってきています。変化(私たちはキューといいます)の数もほぼ無限大に可能となってきました。舞台設備・音響設備もコンピュータができなければ操作できない仕組みになってきています。いろいろな機材が使用できるようになったことで、デザインの幅も広がりました。
それでも、デザインはあくまでも人間の仕事であり、機材の取り付けはいまだに人力作戦です。実際に操作するのも人間です。仕組みが複雑になった分、人間力がますます必要になるのです。便利になった環境に振り回されず、ツールとして上手に使って演出効果を高めていくことが求められています。
一つの仕事が終わったときにお客様から「ありがとう」と言ってもらえる、誠にこちらこそありがたいお仕事です。当社の経営理念の第1番目に「私たちはお客様の喜びを自分たちの喜びとします」とあります。ここで言うお客様には3つの意味があります。一つは仕事を依頼してくれる方、二つ目は出演者、そして三つ目は劇場に足を運んでくれる観客です。そのお客様たちと共に、一緒に仕事をしてくれるスタッフの笑顔を見ることがわたしの最高の喜びです。その笑顔に会いに今日も劇場に向かいます。