世界中ほとんどの人が「戦争は良くない」と言うのに、なぜ戦争はなくならないのか?おそらくそれは「無知、無関心、無力感」が圧倒的マジョリティー(多数派)だからであろう。私の場合、9.11でこの「無の3大要素」と向き合うことになった。その時味わった衝撃と苦痛は今も覚えている。
事実を知らなければ、当事者意識、ましてや加害者意識など持てるはずもない。しかし、テレビだけを頼りにしていては、この距離感は埋められない。ニュース映像は短くカットされ、戦争の本質である死体にはモザイクがかかる。どんなに時間を割いても、1秒ごとに起きる戦場の事実には遠く及ばない。
特に日本は報道番組が少なく、国際情勢の分量はさらに減る。その結果、国内問題と国際問題の接点が見えにくくなってしまう。
だとしても、メディアの責任は半分だと私は思う。大半のメディアは、視聴者や読者によって番組を構成しているからだ。視聴率で動くメディアと、メディアで動く世論。定まらないアイデンティティーで立ち位置さえわからなくなった。今こそ、メディアリテラシー(情報読解力)、つまりメディアを一度疑ってみることが必要だ。
無知を脱して、他者への思いも高まって、微力を発揮しようと努力するも、「焼け石に水」と思うこともしばしばで、その無力感は時に凄まじい。世界各国で数千万人が参加したイラク戦争反対のデモに、私も東京で参加した。こんなにたくさんの人が反対しているなら止められるかもしれないと本気で思っていたが、戦場のイラクには届いていなかった。やはり、「無の3大要素」が圧倒的マジョリティーだったのだと思う。
「無の3大要素」は「無=ゼロ」ではない。それらは一塊となって巨大な負のパワーを放出している。戦争をしているつもりはまったくないのに、それらは戦争を後押しする。ただ存在していただけなのに、私はこれまでにいくつもの戦争を後押ししてきたのだ。
「無の3大要素」が圧倒的多数のままであれば、少数派が必死に「戦争は最大の環境破壊だ」と訴えても、戦争ビジネス派が「それなら環境にやさしい戦争を開発しよう」と言い出してしまったら、その流れを無意識に後押ししてしまうかもしれない。ソーラー爆撃機を開発して、「今回の戦争は二酸化炭素の排出が少なかったエコな戦争」などということにもなり得る。
私たちは無力ではない。私たちには微力がある。この微力を負と使うか、正と使うか。未来は私たちの手にかかっている。