おおば比呂司先生との出会いは1982年、北海道新聞の日曜版「おらんだサンデー通信」でした。それまでは漫画家「おおば比呂司」として知っている程度でしたが、そこに描かれた臨場感あふれるイラストと洒脱なエッセイからは、移住先であるオランダでの暮らしを楽しんでいる様子が生き生きと伝わり、コラムを読み終えたあと私の心はほのぼのとした幸福感に包まれていたのです。
その時の感動が、ぜひおおば先生にお会いしたいという気持ちに変わり、移住生活を終えて帰国した先生がオランダで描き溜めた作品集を出版、銀座の和光で個展を開くという情報を得ると、すぐに東京まで飛んでいきました。そして、会場で作品を観ているうちに改めて画家おおば比呂司の魅力にとりつかれてしまったのです。
そのうちにご紹介くださる方がいて、先生と直接お話をする機会を得、そのやさしさ、大らかさ、また繊細な心に触れ、ますます先生の魅力に惹かれていきました。
先生とそのご家族との楽しい交流も始まり、札幌での個展の開催や地方への講演などたびたびマネージャー役として同行し、来道される際にはお仲間とのゴルフや会食にも同行させていただくようになりました。
そんな中でいかにも先生らしいエピソードがあります。札幌で開催する個展会場は必ず丸井今井で~との指定があり、なぜかと思い理由を尋ねてみると、プロとして上京する前に仲間と作品展示会場を探していたところ快く会場を提供していただきとても有難かったので、その時の恩返しのためというお話でした。さらに故郷を愛し道産子が自慢だった先生は、「これからは北海道の時代だ。」と、北海道に係わる仕事は後先を考えずに引き受け、多忙なスケジュールの合間に東京―北海道各地を何度も行き来されていました。そんな先生のお人柄に、私はいつも深く感銘を受けました。
1985年、まだバブル絶頂期で道内でも博覧会ブームが興り、札幌、函館などに計画が持ち上がりました。今考えると予算も莫大な額で、行政も民間もこのチャンスに沸き返っていましたが、そんな時代に十勝の小さなまち広尾町で海の博覧会計画が持ち上がり、縁あって弊社が運営やステージイベントのディレクションを引きうけることになりました。しかし予算も少なく話題になるような派手なイベントもできず、当然マスコミの取材を受けることもない中、PRやチケット販売は自分たちで一軒一軒訪問してお願いしなければなりませんでした。
そんな状況下で、おおば先生が快くイベントを引き受けて下さり、お仲間の漫画家の方々を大勢連れてきてくださいました。子どもたちは大喜び、会場も大賑わいでした。その結果、人口約1万人の町に40万人ものお客様が足を運んでくださり、他の博覧会が大赤字であったのに対し、この博覧会は近隣地域に大きな経済効果をもたらし、成功をおさめたのです。
しかし、この博覧会開催期間中の8月17日、突然、先生は逝ってしまわれました。
それから20年~。今もおおば先生のやさしい笑顔と色褪せることのないあたたかな作品に逢うために、私は「おおば比呂司記念室」へ足を運んでいます。北海道をこよなく愛し、北海道のために役に立ちたいと言い続けていた先生の意志を大切に守り育んでいくことが、せめてもの恩返しになると信じて。
皆さんも心が疲れたと感じたときは、ぜひ「おおば比呂司記念室」に立ち寄ってみてください。ほっとしてやさしく穏やかな気持ちになることでしょう。