同協会は社団法人で、会員数約3700人。家族もあわせると1万2千人余りを擁する北海道に在住するアイヌ民族の団体です。国際部会、農林漁業部会、商工労働部会、青年女性部会、教育文化部会などがあり、アイヌ民族の社会的地位の向上、民族文化の保存・伝承、職業確立や教育振興、諸民族との交流、会員への各種資金の貸し付け業務などを行っています。また道内の48市町村に支部が置かれ、それぞれの地域活動を行っています。
協会事務所(本部)は道庁に近い道民活動センタービル(通称かでる2・7)7階にあります。2009年4月1日の朝、事務所前の廊下には新聞・テレビなどの報道陣がおおぜい詰めかけていました。ドアには「社団法人 北海道ウタリ協会」というプレートがまだ掲げられたままです。午前10時半、事務所から出てきた加藤忠理事長(70)がマグネット式のプレートを外し、代わりに「社団法人 北海道アイヌ協会」という新たなプレートを貼り付けました。
報道関係者を前にして加藤理事長が簡単なコメントを述べました。
「アイヌからウタリ、そしてまたアイヌと。半世紀かかりました。長い間翻弄されたゆえに、(この変更には)思いがたくさん詰まっています。これからはアイヌという言葉に誇りを持って進んでいきたい」
戦後間もない1946年(昭和21)、静内町で社団法人北海道アイヌ協会は結成されます。翌年に札幌で大会を開きますが、その後の活動は途切れ、再建総会が1960年(昭和35)に札幌で開かれて協会は復活するのです。そして翌61年に北海道ウタリ協会へと改称されました。
アイヌ民族は日本の先住民族であり、少数民族であり、そしていわゆる和人(多数の日本人)との外見上の違いが比較的はっきりしています。アイヌの人々の多くは、学校で、職場で、一般社会で、少数者としての尊重ではなく、偏見をうけ、差別されてきました。そこで会員勧誘や入会時の心理的抵抗を軽減させるために、協会は48年前にアイヌではなくウタリを選択したのです。以来、今年3月までその名称で活動を続けてきました。
過去にもアイヌ協会への名称変更の話は何度かあったといいます。しかし実現しませんでした。今度の変更は昨年(2008年)5月の総会で決議されましたが、すんなり事が運んだわけではありません。アンケート調査をしても、白老町や平取町など、会員数の多い支部で多数の反対意見がありました。時代を経るに従ってアイヌ民族に対する偏見や差別は薄れつつあるように思われがちですが、地域の現実としてはいまなお根強いことをアンケート調査は物語っています。
ある支部の役員は、まだ「アイヌ」への変更にはわだかまりがあるといいます。特に書類が協会から送られてきたときなど、封筒に印刷された「ウタリ」に対する周囲の目がどうしても気になったというのです。これは差別される側の人間にしか解らない心理でしょう。これからは協会からの郵便物も「アイヌ」になるのです。でも支部役員でもあり、決まった以上は「アイヌ」で行くしかないと腹をくくりました。
協会の名を「アイヌ」に戻す大きな理由の1つが少数民族や先住民族をめぐる国際情勢です。付け替えられた協会のプレートですが、それまでの「北海道ウタリ協会」という文字の下に書かれていた英字は「Ainu Association of Hokkaido」(アイヌ アソシエーション オブ ホッカイドウ)。訳せば「北海道のアイヌ協会」で、国外ではすでにアイヌ協会として活動していました。
ウタリ協会を名乗ってきた約半世紀はアイヌ民族にとって、そのときどきの国際情勢と国内情勢が絡み合い、大海に漕ぎ出しては大波にもてあそばれる、まさに翻弄の半世紀だったといえるでしょう。
約60年前の1948年(昭和23)、第3回国際連合の総会で「世界人権宣言」が採択されました。その中にあるのが『すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる』という条文でした。
1966年には世界人権宣言をもとに条約化した「国際人権規約」が国連総会で採択されます。これは1976年に発効し、日本は1979年(昭和54)に批准しました。ところが翌80年に日本が国連に提出した報告は「本規約に規定する意味での少数民族はわが国に存在しない」というものだったのです。
1986年(昭和61)には当時の中曽根康弘首相が、アメリカにはいろいろな民族がいて知的水準が低いと発言して猛反発を食らったため、国会で「権利を否定・制限された少数民族はわが国に存在しない」と発言、そのあと釈明に追われます。日本政府がようやくアイヌ民族を少数民族と認めた報告書を国連に提出したのは、それからさらに5年が過ぎた1991年でした。
1992年(平成4)12月、当時の北海道ウタリ協会理事長だった故・野村義一さんが国連の国際先住民年開幕式典で歴史的な演説を行います。
「ほんの6年前の1986年まで、日本政府は私たちの存在そのものを否定し、日本は世界に類例を見ない『単一民族国家』であることを誇示してきましたが、ここに、こうして国連によって、私たちの存在がはっきりと認知されたということであります。もし、数年前に、この様な式典が開かれていたとすれば、私は、アイヌ民族の代表としてこの演説をすることはできなかったことでしょう。私たちアイヌ民族は、日本政府の目には決して存在してはならない民族だったのです。しかし、ご心配には及びません。私は決して幽霊ではありません。皆さんの前にしっかりと立っております」
こうしてアイヌを少数民族と認めた日本政府ですが、先住民族との判断はかたくなに拒んだままでした。
先住民族について国連が動き出したのは1971年(昭和46)のことです。「差別防止及び少数者保護に関する小委員会」で、先住民に対する差別問題について調査することが提案され、その報告書が81年から84年にかけて提出されました。またほぼ同時進行で1973年に「人種差別と闘う行動の10年」を定め、83年まで活動します。
そうした中で1982年に生まれたのが国連経済社会理事会による「先住民に関する作業部会」でした。この作業部会はすべての先住民族とそれを支援する組織や専門家たちに門戸を開いたことから「国連先住民会議」とも呼ばれ、300~400の代表たちが集いました。日本のアイヌ民族は中曽根発言が問題となった翌年の1987年(昭和62)から参加しました。
国連では1983年からを「第2次人種差別と闘う行動の10年」とし、その最終年度の1993年を「世界の先住民族の国際年」(国際先住民年)としました。そして翌94年からの10年を新たに「世界の先住民の国際10年」と定め、先住民族のためのさまざまな取り組みを始めたのです。
一方国内ではそれまでの北海道旧土人保護法などに代わる新たな法律(アイヌ新法)を求める活動が始まり、1984年(昭和59)に北海道ウタリ協会が「アイヌ民族に関する法律(案)」を道庁や国会に提出、10数年後の1997年(平成9)になってそれが「アイヌ文化振興法」の成立という形になって結実しました。それには1994年に参議院議員に繰り上げ当選した故・萱野茂さんの尽力がありました。
この法律は日本政府や地方自治体がアイヌ民族のための施策を行っていくための明確な法的根拠となり、財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構が設立されました。だだし目的はあくまでアイヌ文化の振興や知識の普及・啓発をしていくことで、アイヌを先住民族として認めたものではありませんでした。
先住民の国際10年を終えた国連では2004年からの10年を「第2次世界の先住民の国際10年」と定め、先住民族の復権のための活動を強化します。そして2007年(平成19)9月13日、国連総会において「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が、賛成144、反対4、棄権11、欠席33で採択されるのです。この宣言には人権や文化のほかに土地や資源の権利など網羅的に盛り込まれ、日本は賛成しましたが、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドという先住民の多い国が反対しました。ただしこの4カ国は、国内法との整合性がないという理由で反対し、先住民族に対する施策は日本とは比べものにならないほど先行しているのが現実でした。
翌年に北海道洞爺湖サミットをひかえていた日本国内も大きく変わりつつありました。先住民族の復権という国連宣言をうけて、北海道ウタリ協会は動きを活発化させます。冊子をつくってアイヌ民族の歴史や現実を明らかにし、先住民族として認めるよう国会議員に訴えかけたのです。
「東京に何度も足を運び、国会議員であれば、だれかれとなく訪ねました。ある北海道選出の議員さんのところは4回通いましたよ。あるところで議員さんがこう言っていました。(アイヌ民族には)悪いことをしてきたんだなぁと。50人以上は訪ねました」
2008年5月22日には北海道や全国のアイヌ250人がデモ行進を行いました。民族衣装を着て日比谷公園から国会議事堂までの1キロ余りを汗だくになりながら歩いたのです。北海道ウタリ協会として東京でデモ行進をするのは16年ぶりのことでした。
そして2008年6月6日、衆議院と参議院の両院で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」を全会一致で可決します。北海道洞爺湖サミットの1ヶ月前のことでした。理事長の加藤さんはこのときの感激を次のように語っています(北海道新聞『私の中の歴史』より)。
イヤイライケレ、イヤイライケレ(ありがとう)-。胸に込み上げたのは、仲間たちや祖先、国会議員をはじめ力を貸してくれた皆さんへの感謝でした。
6月6日、アイヌ民族を先住民族と認めるよう日本政府に求める国会決議が衆参両院本会議で可決されました。日本史の1ページに刻まれる歴史的なできごとです。
国会議事堂の傍聴席でこの瞬間に立ち会った私は、北海道ウタリ協会の阿部一司副理事長や新ひだか支部の大川勝支部長をはじめ一緒にいた仲間と何度も握手を交わしました。目頭をハンカチでそっと押さえる女性もいました。
議員の皆さんも、民族衣装姿の私たちに向かって温かな拍手を送ってくれるではないですか。(明治維新以降)140年間の苦難の歴史にようやく光が差したのだと思うと、喜びと安堵(あんど)で目がつい潤みました。
この国会議決を踏まえ、町村信孝官房長官が談話を発表、アイヌ民族は先住民族という認識を示しました。ついに日本の政府が認めたのです。そして具体的政策を検討する有識者懇談会を首相官邸に設けることを表明しました。
1ヶ月後に開催された北海道洞爺湖サミットの配偶者プログラムでは、福田康夫首相夫人を含めた4人のファーストレディたちが高橋はるみ北海道知事の案内で留寿都村の北海道情報館を訪れ、アイヌの民族衣装を着用、その写真が世界に配信されました。
「政府のほうはすんなりいかなかったのですが、案内役の高橋知事にお願いして実現しました。世界にアイヌの存在を示すことができて、感謝しております」(加藤さん)
1997年のアイヌ文化振興法制定の前年に設置された「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」のメンバーにアイヌの代表は入っていませんでした。こんどの有識者懇談会は加藤さんがメンバーとして参加し、高橋知事など8人で構成されています。2008年8月から毎月開催され、10月には北海道、11月には東京で現地視察や意見交換会も開かれています。それらをもとにして今年(2009年)の夏ごろまでに政策提言が行われることになっています。
この懇談会で加藤さんは7つの政策を提案しています。第1にあげているのが教育の充実に対する支援です。調査によると50代のアイヌは60%が中学しか卒業していないという現実があります。現在の大学進学率も北海道平均の半分にとどまっています。
「教育は命だと思っています。50代で中卒が60%。中卒だと経済的には限られてしまいます。その人たちが子どもを育てているのです」
加藤さんは18年にわたって白老町のウタリ生活相談員をつとめた経験を持ち、その生活の実態が肌身にしみて解ります。学歴がないために低賃金で働かざるを得ず、子どもたちの進学もままならない。高校進学できない子どもたちには、手当をもらって技術が習得できる高等技術専門学院を勧めました。バブル経済に沸いていたころ、経済的に無理をして子どもを高校に進学させ、あとになって授業料が払えず、泣く泣く退学させることもありました。アイヌの家族にはバブルの恩恵も及ばなかったのです。
懇談会では教育のほか次のような提案をしています。(2)アイヌ研究 ・民族教育への支援 (3)遺骨の返還、慰霊 (4)広義の文化振興~経済活動との連携 (5)文化新興等の基盤としての土地・資源の利用 (6)啓発・教育の重要性 (7)政治参加への対応。
加藤さんは世界人権宣言から60年が経過し、世界が大きく変わりつつあることを実感しています。そしてその一番の表れがアメリカのオバマ大統領の誕生だと思っています。
「NHKの『その時歴史が動いた』でキング牧師のことをやっていました。60年前、人種、皮膚の色、性、言語などで差別されないという世界人権宣言が出ても黒人は激しい差別を受けていました。そのときキング牧師は2つのことを言っている。偽りは永遠に続かない、それに争いからは決してものは生まれないと。それから60年経って、ようやく国際政治に光が見えた。オバマ政権の誕生がその体現だと思っているんです」
加藤さんは白老町で和人の父とアイヌの母の子として生まれ、働きながら定時制の町立白老高校を4年で卒業、職業訓練所を経て、室蘭の富士製鐵(現在の新日鐵)に入社、半年後に操業を始めてまもない大昭和製紙(現在の日本製紙)白老工場に移ります。そこに17年間つとめたあと38歳のときに退職し、1年後に苫小牧の菓子メーカー三星(みつぼし)のフランチャイズ店を開き、白老町内と登別市に合わせて3店まで拡大させました。10年後の1988年、同町在住で当時ウタリ協会理事長だった野村義一さんに頼まれ、ウタリ生活相談員になったのでした。
その翌年から加藤さんたちは「しらおいチェプ祭」を企画運営し、サケ漁が始まる秋に毎年開催されています。チェプは魚、中でも食料として最も重要だったサケを意味しています。アイヌの伝統に基づいたイベントを通じてアイヌ民族のことを広く知ってもらい、アイヌ自身も結束を固めたいという思いがこの祭りにはありました。
「相談員をやって、社会でアイヌがどう見られているかが分かり、情けないことだと思いました。こんなことではいけない、何とかしなければなならいと。それでサケのお祭りを企画して、アイヌについて少しでも町民、道民に理解してもらおうと企画したんです。2日間で3万5千人が訪れた年もありました」
同町のポロト湖畔にはアイヌ民族博物館があります。博物館本館のほかエリア内にはチセ(家)が建ち並び、さまざまな展示や古式舞踊の実演のほか、アイヌ文様刺繍(ししゅう)、ムックリ(口琴)演奏や製作、トンコリ演奏などが体験できる総合的な博物館です。今年(2009年)4月、その近くに新しいチセが完成しました。加藤さんはポロト湖畔を訪れた人々に気軽にアイヌ文化に触れてもらえばと考えています。
同町ではアイヌの伝統的生活空間「イオル」の再生事業が始まっています。食べものや道具など生活に必要なものをすべて自然から得ていたアイヌ民族の生活空間を再生する事業で、白老町が先行し、平取町でも始まっています。
また博物館ではアイヌの伝統文化を次の世代に受け継ぐための伝承者(担い手)の育成事業が2008年夏から始まりました。道内はもとより千葉からも参加した8人が歴史の講義から自然を利用した実際の生活まで、あらゆるアイヌの伝統について2年半をかけて学びます。アイヌ民族の儀式を行ったり伝統技術を持った人々は年を追って少なくなっており、その伝承が急務なのです。
北海道アイヌ協会副理事長で札幌支部長の阿部ユポ(日本名:一司=かずし=62)さんは市内で整骨院を経営しています。先住民族との交流で初めて海外に行ったのは1993年のことで、カナダのイヌイットたちに出会いました。96年には国連先住民会議に参加、以来毎年欠かさず参加しています。理事長の加藤さんがまとめ役だとすれば、阿部さんはアイヌ民族の主張を支えるその理論を構築してきた1人です。アイヌという認識はあっても、一般市民として生きてきた阿部さんにとって、海外の先住民族の活動や国家の施策は驚きでした。
「93年にカナダに行ってイヌイットたちに会ったときには、そこは北西準州でした。その6年後に準州を分割してヌナブットという自治準州が生まれたんです。ヌナブットとは自分たちの住む大地という意味で、アイヌモシリと同じ。北海道がアイヌモシリという1つの県になったという感じで、これにはショックを受けました。国連に加盟していない台湾だって原住民は大学進学などで優遇されています。国際会議には大学教授だとか弁護士だとか、法律に詳しい先住民がいっぱい来る。国際法を駆使して国家とガンガンやり合っている」
海外に出てみて違和感をもったのが自分たちの拠り所である協会の名称です。
「英語では北海道アイヌ協会となっているのに、ウタリ協会だというので、通訳する人がウタリって何なのと聞くわけですよ。仲間という意味だというと、えっ、アイヌ協会じゃないの?と。」
歴史認識や土地・資源の権利についてはこう考えています。
「明治からではなく14、15世紀から和人が道南に入ってきて、徳川家康が松前藩として認めてから本格的なアイヌモシリの侵略、収奪が始まっている。アイヌのコミュニティを破壊し、交易の民族だったのに、本州やほかの地域に行けなくなる制度を作ったのが松前藩です。そうした歴史認識を踏まえた上で謝罪していただきたい。北海道の土地を全部返せとは言いませんが、返せるものは返し、利用できるものは利用させる。法治国家なのだから賠償・補償をするのはあたりまえだと思います」
阿部さんは40歳のころまでアイヌとしての活動をほとんど行ってきませんでした。きっかけとなったのがお子さんの誕生だったといいます。
「最初にイヌイットたちと会ったときは、こういう運動もあるんだな、くらいにしか思わなかったんです。でも自分の子どもが大きくなってきて身体的特徴が現れることを考えると、民族を自覚せざるを得ない。協会の活動をしていて内部的にも外部的にもいやなことがたくさんありました。何回やめようと思ったかしれません。でも途中でやめたら子どもに恥ずかしい。頑張るしかありません」
理事長の加藤さんの根底にある理念はすべてに『まごころ』で接していくことです。2004年5月の総会で理事長に選任されましたが、協会内にはさまざまな問題があって、ほかに理事長候補がいない状態でした。加藤さんは先輩に「火中の栗を拾うようなものだ」と言われたといいます。そんな加藤さんを支えているのが『まごころ』であり、共感したキング牧師の「偽りは永遠に続かず、争いからは決してものは生まれない」なのです。
加藤さんは日本で和人の文化とアイヌ文化が共存する社会を思い描いています。
「これからアイヌは自然観に根ざした英知を大切にして、誇りをもちながら生きていきます。でも私たちは後戻りするのではありません。社会が和人の文化とアイヌの文化とを共有していければすばらしいと思っています」
協会は「アイヌ」を前面にかかげたことで、大きな区切りを迎えました。文化の伝承、人材育成、権利の復活、政治への参画、北海道外のアイヌたちとの連携など、これからの課題は山積みですが、広く社会に理解を求めながら、新たな活動を展開しようとしています。
[関連資料]
アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/ainu/index.html <有識者懇談会メンバー>
「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」
衆議院・参議院
内閣官房長官談話
[関連リンク]
北海道アイヌ協会
http://www.ainu-assn.or.jp/
(財)アイヌ文化振興・研究機構
http://www.frpac.or.jp/
アイヌ民族博物館
http://www.ainu-museum.or.jp/