ウェブマガジン カムイミンタラ

2009年05月号/ウェブマガジン第27号 (通巻147号)  [ずいそう]    

「歌の革命」に学ぶ
内山 博 (うちやま ひろし ・ (株)旅システム代表取締役)

「ポーチュラカ」<br>版画:宝賀寿子
「ポーチュラカ」
版画:宝賀寿子

1月にリトアニア共和国に行ってきました。日本人にはあまり馴染みがない国ですが、北欧に近いバルト海に面したバルト3国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)の一つで、最近では相撲界でエストニア出身の力士・把留都が活躍していることから、このバルト3国の名を知る人がふえてきました。

私の行ったリトアニアは、何がある国かわからないという人が多いのですが、杉原千畝(すぎはら ちうね)と聞くと、ああ聞いたことがあると答える人が多いようです。

杉原千畝は、かつてのリトアニアの首都カウナスにあった旧日本領事館に、領事代理として赴任してい ました。1940年(昭和15)当時、第二次世界大戦が激しさを増し、日本がユダヤ人絶滅政策をうたうナチスドイツとやはりファシズムに突き進むイタリアとの日独伊同盟を結ぶなか、彼は亡命を求める1,500人のユダヤ人の日本通過ビザを発給し、約6,000人ものユダヤ人の命を救いました。その勇気ある行為をたたえ、領事館はいま杉原千畝記念館として残っています。私が訪れたとき、館内には『一人の人間の命を救うことは、世界を救うのと同じ』という言葉が展示されていました。


杉原千畝記念館

記念館では2人のユダヤの方がお話をしてくれました。カウナスにはゲットーあり、ふたりはそこに収容されていたのでした。
  ゲットーとはユダヤ人絶滅のために作られた強制居住区域で、4万人もの人が収容されていました。ふたりはトランクひとつでナチに家を追い出され、1日100gのパンと草の入ったスープ1杯、着のみ着のままの生活、そして多くの仲間が強制収容所で銃殺されるかガス室で殺されました。

ふたりは「私たちも明日死ぬかもしれない、という日々を希望を持って生き抜いた。まさに神が助けてくれた」と話してくれました。ゲットーからの生き残りは、わずか15人~45人とのことでした。まさに神に救われたというその話は私にとって衝撃的でした。ふたたび許してはならない、繰り返してはならない歴史ではないでしょうか。


ランズベルギスさんと私

リトアニアへの旅のもう一つの目的は、1989年から1991年(平成1~3)にかけて起きた独立革命の話をきくことでした。当時、共和国最高会議議長に就任し、リトアニアを独立へと導いたヴィタウタス・ランズベルギスさんと会うことができました。革命時の最高責任者に直接話が聞けるなんて、自分も歴史の1ページにいるような錯覚に陥りました。

時代はさかのぼりますが、リトアニアは第一次世界大戦のあと1920年に独立共和国を形成していましたが、第二次世界大戦中の1940年(スターリン時代)にソ連に併合され、それ以降、連邦構成共和国となってはいたものの、実質的にはソ連の中央集権体制に組み込まれ、独立も自治もない状況にありました。
  1985年(昭和60)にゴルバチョフがソ連の最高権力者となり、ペレストロイカ(改革)やグラスノスチ(公開)などの自由化・民主化が始まると、リトアニアでも自由を求める機運が生じたのでした。

独ソ不可侵条約50周年を迎えた1989年8月、リトアニアは当時の首都ヴィリニュスとリガとタリンを結ぶ600キロにわたる200万人の「人間の鎖」(別名 バルトの道)を成功させ、世界に独立を訴えました。このことは日本でも大きく報道され、私の記憶にいまでも鮮明に残っています。

この分離独立の動きはバルト3国に広がりました。そして1990年3月4日にランズベルギスさんが非共産党員としてはじめて共和国最高会議議長に就任し、同11日にソ連構成共和国のなかでいち早く独立宣言を掲げたのがリトアニアでした。

独立運動が広まるバルト3国に対し、ソ連政府はついに軍事介入を始めます。1991年9月にラトビア、翌年1月8日にはリトアニアに軍を投入し、11日にはヴィリニュスの国防省、出版センター、テレビ中継基地を占拠してしまいます。そして2日後、ソ連軍の戦車や兵士が市民の列に突入、発砲し、13人が死亡する流血事態となりました。ランズベルギスさんはこのとき、攻撃を止めようと3度ゴルバチョフに電話をかけたが、睡眠中ということで通じなかったと語ります。

次に電話をかけたエリツィンは電話口で「リトアニアの現状はわかった、ゴルバチョフに伝える」と返答したそうですが、ランズベルギスさんのその後の話は衝撃的でした。エリツィンは「もしかしてゴルバチョフ大統領は、リトアニアに軍隊が介入しているのがわからないかもしれない」と言ったというのです。

その後、この軍事介入でソ連は周辺国から厳しい非難をあび、ソ連解体への動きが急速に進みだします。ノルウェーが国連に訴え、キエフ、タリンなどの多くの都市でリトアニアを支持する集会が開かれました。ウクライナなどの連邦構成共和国が次々と独立を宣言します。
  そして1991年(平成3)9月2日にアメリカ合衆国がバルト3国の独立を承認。ソ連国家評議会も9月6日、ついにリトアニア、ラトビア、エストニアの独立を正式に承認したのでした。

ソビエト連邦はこうしてその年の12月25日に終焉を迎えました。この激動の時代をふりかえり、ランズベルギスさんは「死を覚悟した」とその感想を話されました。
  しかしあのとき、武器を持たない民衆70万人が議会議事堂を囲み、民族の歌を歌いながら攻撃を防いだのでした。「まさに私の命はこの民衆に救われた」と語るランズベルギスさんの言葉が印象的でした。そして、この革命の性格は「歌の革命だった」と話されました。

この革命で13人が犠牲になりましたが、武器で抵抗するときっと大勢の犠牲者を出しただろうと思います。平和と独立に武器を使用しなかったリトアニアに、私は命をかけた民族の誇りを感じました。
  わたしたちは「歌の革命」から、武器が物事を解決させるのではなく、武器のないことが平和をもたらすのだということを学びたいと思います。

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