品川正治でございます。札幌は3度目でございますが、前回にも私の話を聞かれた方はいささか同じことをくり返しているという印象をおもちになるかもしれませんが、きょうお話する議題は「21世紀の世界と日本の座標軸を語る」ということでございます。これをお話するためにも、なぜ私がこの年齢も省みずこういう形であちらこちらでお話をし、また本を書いたりしているのか、それをご理解ねがうためにも、若干前回の繰り返しになりますが、まずはやはり戦争と人間との関係、そして憲法九条をもっている日本というものを基本的に考えて、これからの21世紀の世界と日本について論議したいと思っております。
プロフィールにもありますように、私は1924年(大正13)の生まれでございます。この7月に85歳を迎えます。
私は福沢諭吉の言葉を借りますと「一身にして二生」、つまり、ふたつの生涯を送りえた男でございます。はじめの22年間は、大日本帝国憲法の天皇の赤子(せきし)として生きてまいりました。あとの63年間は日本国憲法のもとで主権者の一人として、日本国民の一人として生きてまいりました。その意味では、はっきりと自分で二生という区別をつけることができます。
最初の22年間というのは、私が物心つきましたときからずっと戦時中でございました。小学校に入りました年には満州事変が起こりました。中学に入りましたときには日中戦争、当時は支那事変とよばれておりましたが、この日中戦争が始まりました。高等学校時代はというと、私は京都の第三高等学校でございます。「紅萌ゆる」とか、あるいは「琵琶湖周航歌」などの歌を寮歌とする、むかしの言葉でいえば三高の卒業でございますが、三高に入りました年にはすでに太平洋戦争が始まっておりました。
ただ、同じ戦時中といいましても、私の歳はある意味で画期的な歳でありました。私が入学するその年に、学生徴兵猶予というものがなくなりました。それまでは私たちの一年、二年先の先輩にとって、高等学校、旧制高校は青春を謳歌する場所だったのですが、私のときからははっきりとその感覚は変わりました。あと2年しか勉強できない。死ぬまでに読んでおきたいと考えていた本は、どうしてもこの2年のあいだに読み終えないといけない、というきわめて強い切実感をみなが抱くことになりました。そういう意味で、死ぬまでに読んでおきたい本をほとんどの人がリストアップしておりました。
学校当局もその気持ちを100%汲み上げておりました。
ひとつは、私の前後の世代の学生、つまりわれわれの先輩や後輩に聞いてみましても、「いやあ、そんな記憶は自分たちにはなかったな」と言われるほど、私たちの世代は変わった雰囲気で高等学校生活を始めました。どの教室の場合でも、授業が終わると先生のほうから深々と生徒にお辞儀をされる。これが最後のお別れだといわんばかりの気持ちで先生が生徒にお辞儀をする、というのがどの教室でも見られた光景だったのです。それは先生の言外、「これが最後だ。よく最後に俺の授業を聞いてくれた」、そう思わしめるものがあったわけです。
と申しますのは、私の場合は現役入学で中学5年から高校に入ったのですが、クラスの3分の2は浪人でした。一浪、二浪という方は、もういつ召集令状が来てもおかしくないわけです。先ほども言いましたように、あと2年というのは現役の私たちの場合であって、二浪している人はもう召集令状がいつ来てもおかしくない。というよりも、現実に召集令状を受け取ってから、最後にあの先生の講義だけは聞いて死にたいという学生がクラスにはかならずといってもいいほど混じっていたわけです。先生はそれに対してやはり心の底から「無事に帰ってきてくれよ」ということと、「最後の講義に俺の講義を聞いてくれたか」という感じをおもちになっていたと思うのです。
そして学校当局としては、さらに寛大になりました。いまの学校制度から考えるとおそらく想像もできないと思うのですが、このまま授業を続けても、いずれほとんど全員が戦地に行くか、あるいは軍需労働者として軍需工場で働くことになるだろうということで、思い切って一般の授業をやめてしまったのです。そして学生に、「どうしても講義を聞いておきたいという先生のリストを出せ」と。「それが東大であろうと京大であろうと北大であろうとかまわない。なにも三高の先生に限らない。俺たち教授連中は手分けしてその先生を呼んでみせる」、そう宣言して授業をやめられたのです。したがって私のような文科の学生でも、湯川秀樹さんの量子力学を、あるいは東大の和辻哲郎さんの倫理学や北大の中谷宇吉郎さんの雪の結晶学を、講義として聞くことができました。
そんななかで、どうしても忘れかねる、私としては記憶から消え去らない講義があります。詩人の三好達治さんは当時の日本の詩人界を代表される方でしたが、この先生をお呼びしたんですね。先生はいちども講壇に立たれたことがない方で、だいいち洋服などもあまりも着たことがないという方でした。先生は羽織袴で壇上に立たれて、ものすごく誠実に講義をされました。前々年に出版された『春の岬』という詩集のうたを、ひとつひとつ、どういう思いを込めてつくったか、どういう表現に変えたか、そういうことをひとつひとつ学生に講義されて5回に及びました。
その最後の講義の日、「これで私の講義は終わります」、そうおっしゃった途端に、三好先生が壇上で号泣されました。ものすごく激しい泣き方でした。泣かれている声のなかから漏れてきたのは、「君たち若い者を死なして、俺が詩をつくれるか」という言葉でした。先生は最後には壇上でしゃがみ込んで、うずくまれて動かれない。私はその三好先生をお呼びする役だったので、先生をなんとかなだめすかして、教員室までお連れ申しあげました。そういう記憶がございます。これは忘れようったって忘れられない記憶なのです。そういう学生生活というのを現実に送っておりました。
私の場合、自分のことを申しあげるのは少し気恥ずかしいのですが、いまから考えてもとんでもない願いをもっておりました。カント(注1)の『実践理性批判』(注2)を原書で読んでから死にたい、そういうふうに思っておりました。むちゃくちゃな話です。ドイツ語のドの字も知らない人間が、あのカントの『実践理性批判』をどうしても原書で読んでから死にたいと。
その理由はやはり、この国がほんとうに国家理性を失ってやしないか、ということが私にとっては大きな問題でした。それともう一つは、たとえそうであっても、国家が戦っているときに、国民の一人としてどう生きるのが正しいのか、どう死ぬのが正しいのか、それを納得してから死にたい、そう思っておりました。
カントは中学時代も読みました。しかし、みな翻訳で読んでいたわけです。高等学校に入学したその日に、私は『実践理性批判』を原書で読んでから死にたい、そう決心しました。
先生はそれを察して、「わかった」と。そして「まずドイツ文法に関しては2カ月で俺が完ぺきにしてやる。そのあと読め」とそうおっしゃいました。ほんとに特訓を受けました。そして夏休みに入るその日に先生に呼ばれて、「もうドイツ文法で俺が教えるのはこれで終わりだ。これを読め」と言って、ご自身が最初に読まれたレクラム版のカントの『実践理性批判』を私にくださいました。
開けてみてびっくりしました。表紙はきちっとしておりましたが、見返しからはいっさい空白という空白がないのです。ぜんぶ書き込みだらけなんですね。しかも鉛筆、青鉛筆、赤鉛筆を使い分けて、いたるところにクエスチョンマーク。わからん、わからん、わからん、という日本語がいたるところに書いてあるのです。
私は夏休みのはじめからそれを必死になって読みました。先生がわからんといっておられるところは、私もぜんぜんわかりませんでした。なんども夜遅く先生のお宅へおじゃまして、それこそ夜が明けるまで解説していただきました。あとでうかがうと、その先生は新婚早々でした。悪いことをしたなと思いましたが、先生はそれをぜんぜん気振り(けぶり)にもお出しにならないで教えてくださいました。その先生はすでに岩波文庫のカントの『実践理性批判』を翻訳して出しておられる方でした。カント学とすれば日本の一流の先生です。その方にそれこそ懇切ていねいにドイツ文法にいたるまで教わって、必死になって読んだわけです。
翌年の秋、私はそれを読み終えました。読み終えて10日目に、私は召集令状を受けました。高等学校2年生の秋でございます。読み終えたという達成感はものすごくありました。しかし、先ほど申しあげた、なぜそれを読もうとしたかという問題に関しては、会得できないままで応召いたしました。私は鳥取の連隊に一兵卒として入隊したわけです。
ところが入隊したその日に、私としてはひじょうに大きなショックを受けました。私だけではございませんでした。
と申しますのは、新しく支給された軍服に着替え終わったとたんに、連隊じゅうに響きわたる非常招集というラッパが鳴ったのです。私たちは整列の順序さえまだなにも聞いていない、いったいどうすればいいんだろうという感じでしたが、将校が入ってこられて、「練兵場に白い線が1本引いてあるから、おまえたちはとにかく全員そこにきちんと間隔をとって並べ」、そうおっしゃったわけです。その日の朝に一緒に入った二百数十名の現役兵は、なにもわからないままに、とにかくその白線上に整列しました。
ところが、全連隊の三千数百名の将兵が、ちょうど並んだ私たちと向かい合うかっこうで各中隊ごとに整列していました。私たちと対決するかっこうで整列しておられる。そして連隊長が演壇に上がって、きわめて簡潔な訓示をされました。
「おまえたちは、きょう入隊したこの現役兵の顔をよく見ておけ。よく覚えておけ。この男たちは死にに行くんだ。この男たちをいじめたり殴ったりする将兵がいれば、俺は即座に処分する」と、こうおっしゃって降壇されたのです。
私たちは召集を受けて入隊した以上、戦死は覚悟しておりました。しかし、軍隊内部で「この男たちは死にに行くんだ」とはっきり言われたことに関しては、がく然といたしました。しばらくはだれも、口もきけませんでした。
案の定、激しい訓練は受けましたが、2週間だけしか鳥取にはおりませんでした。そして中国の戦地に送られました。ほんとうの最前線です。明けても暮れても戦闘が続く最前線でございました。だいいち、その最前線に到着するまでに何度も戦闘体験をさせられた、そういう場所でございました。現在の中国でいえば河南省の最西端で、いまの共産党政権の本拠地といわれた延安にもっとも近接した日本軍の部隊に配属されたわけです。
私は擲弾筒手(てきだんとうしゅ)でした。身体に12発の手りゅう弾を巻きつけて、それを一発一発、擲弾筒という筒を通じて敵地に射撃をするというのが私の役目でした。明けても暮れても戦闘をやっておりました。あるときには激しい戦争のなかで、迫撃砲の直撃も受けました。いまでも私の右足にその破片が残っております。そのときはもちろん人事不省で、戦死者とみなされて横たわっておりました。そういう経験もございます。
そういう意味で、最初の22年間の最後の締めくくりは、激しい戦闘作戦に従事した日本の兵隊であったというのが私の最後でありました。
私は自分の戦争体験、戦闘体験をこのように申しあげるのは、80歳になるまでぜったいにやってきませんでした。やれなかったのです。私は自分の身体にそういう弾が入っているということさえ、ごく少数の人にしか話をしてきませんでした。なぜ言えなかったのか。なぜ話をしなかったのか。これにはいくつかの理由がございます。
ひとつは、私は戦後、あの日本のアジア太平洋戦争の歴史に関して、ほんとうにかなり克明に調べてみました。防衛庁(2007年1月9日に省へ移行)の戦史編纂室にも行っていろいろ見ましたし、また、中国共産党の戦争に関する歴史も読みました。アメリカ軍が保管している公文書も読みました。そして、あのアジア太平洋戦争が、いかに過酷な残酷な戦争であったかをはっきりと確認いたしました。
たとえば南太平洋のニューギニア、あるいはビルマのインパールやフィリピンのレイテ、こういうところで戦い、戦死した人は、少なくみても7割が餓死しておられます。あれだけの兵隊を餓死させてしまった戦争なのです。餓死といっても、これらの土地はみんな南方ですから、砂漠地ではございません。口にできる緑のもの青いものはいくらでもあったわけです。しかし彼らはそれを探す気力も、マラリアをふくめて体力もなくしてしまい、もう地べたにへたり込んで、「俺はもう動けない。ここでさよならしたい」そう言ってその場にしゃがみ込んで部隊に別れを告げたのです。そして、その人たちの「その日」「その場所」を、「戦死の日」とし「戦死の場所」とする、というのが日本軍の内規だったわけです。ですからいまでも百十万の遺骨は帰れないのです。別れた場所、戦死した場所に仮に行ったとしても、そこで亡くなったとは限らないわけですね。こういう惨めな戦争体験の前で、私自身も中国で戦闘をしておりましたということは、おこがましくて到底言えないという感じをもちました。
もう一つのカテゴリーは、アッツ島からはじまってサイパン島、硫黄島、沖縄、こういう戦闘に参加された部隊は、これはもう玉砕しか方法がなかったのです。勝つ見込みをぜんぜんもってない。玉砕しか目的がないということを確認しながら、なおかつ戦わされた人たちなのです。その人たち、その経験者を前に、私も戦争うんぬんとは言えたぎりじゃないと思っております。
しかし、私が戦争体験を語れなかったほんとうの理由が別にあります。
いま、ほんとうの戦闘記録を残そうという動きがあり、もう生き残っている人がほとんどいないので、学会でも必死になってそれを書き残そうと、東京大学の御厨貴(みくりや たかし)さんを中心にやっておられます。しかし、これは現実にはひじょうに難しいことです。いまその話を聞かせていただく相手というのは、その戦線から生きて帰れた人たちです。その生き残った人たちは、「なぜあなたはそんなひどい戦線から生き残れたの」というひとことが出ると、あとが続かない、続けようがないのです。それまではいくら多弁に話せても、ほんとうのその極致になって「あなたはどうして助かったんですか」という言葉に対しては、答えようがないのです。そのトラウマを60年間かかえて生きておられる人たちなのです。
私にもかなり激しいトラウマがありました。ある激戦の最中に、私の壕から十数メートルしか離れていない壕にいた同じ擲弾筒の同士だった男が、「やられた、助けてくれ」という叫び声をあげるのを目にしました。本能的に私は自分の壕を飛び出し、その男の壕に向かおうとしましたが、私の壕にはもうひとり戦友がいて、私の足をつかんで放さない。彼はただ何も言わずに首を横に振り続けているだけなんですね。"いま出たら、おまえが死ぬ"ということなんですね。けっきょく、その男のために私は助かりました。しかし、もう一人の戦友を見殺しにしたというこの悔恨の気持ちは、いつまでたっても抜けませんでした。戦闘といわれると、それを思い出す。これは私のひとつの習性のようになりました。
ところがそれに輪をかけて、もっと私の心を傷つける問題が起こりました。その亡くなった戦友の母親が、私が東京で下宿をしながら大学へ行っているときに、その下宿先に訪ねてこられたのです。島根県の山奥の村からです。「自分の村の人が、あんたの息子さんといちばん仲が良かったのは品川という人で、彼はあんたの息子さんの最期まで知っているはずだと教えてくれた」と。そして「村の人たちは役場も動員してあなたの住所を調べてくれ、東京の下宿までの旅費まで村の人たちが出してくれた。それで訪ねてまいりました。どうか私に息子の最期を教えてください」と、そうおっしゃったのです。私は面(おもて)をあげることさえできませんでした。
しかし去年の暮れ、この島根県にこういう形の講演会に呼ばれて行く機会がありました。その戦友の村からもご家族やご遺族の方、あるいは戦友自身が会場に現れました。なかには、もう一人では歩けないという姿もありました。かなり大きな講堂で、400人から500人の方たちが聞きに来られました。その戦友たちの姿、ご遺族の方たちの姿を見たときに、私は手をついて謝りました。
ところが、会場は全員泣き出してしまいました。主催者側は「ここで休憩を出しましょうか」というところまでいったのですが、私はそのまま話を続けさせていただきました。それでやっと私のトラウマが消えたと言ってもいいくらいなんですね。それからはこういう形でお話をしているわけです。それまでは一度もこういう話は講演会で容易にできませんでした。それほど戦争というものに関する記憶と、戦後を生き抜いた人たちのトラウマはあるのです。
しかし逆に、これはもうお伝えする義務があるのではないかと私は感ずるようになりました。いま、こういう形でお話をさせていただいくのも、そういうことからなのです。
このように私は明けても暮れても戦闘をやっておりましたが、1945年(昭和20)8月15日、この戦争はようやく終戦ということになりました。もちろん私も現地で終戦という言葉は耳にしておりました。しかし私たちの部隊には、ぜんぜん武装解除に来ませんでした。蒋介石が率いる国府軍から見れば、毛沢東の中国共産軍と戦ってもらえる最強の部隊だという扱いを受けたわけですね。したがって、私たちがほんとうに武装解除を受けたのは11月末です。それまでは8月15日が日本の終戦の日だと知っておりましたが、私たち自身は11月末までずうっと日本軍としての戦争状態でございました。
ただ、私たちの中隊長というのはものすごく立派な人でした。わずか中尉の身でありながら、敵の軍司令官に向かって「日本軍をこういう形で使うのは、国際法違反だ。われわれは絶対に従わないぞ」とはっきりと宣言されたのです。この方は京都大学を出られたのですが、河上肇の門下で、懲罰的な意味でずっと中国の最前線をいつも歩かされていましたが、たいへん優秀な方でした。その方のおかげで、私たちの部隊は8月15日以降いちども敵襲を受けたことがありません。したがってもちろん、いちども戦傷者を出したことがありません。北支だけで、8月15日以降、三千人以上の将兵が亡くなっているんですよ、終戦後に。そのことは、2007年に『蟻の兵隊』という映画として封切られ、本も出されました。これは私たちの隣の山西省の日本軍ですけれども、8月15日以降の戦闘状態を克明に記録したノンフィクション、というよりもむしろ実際の記録といってもいい本です。
私たちの部隊はそういう意味ではその隊長のおかげで、本来ならいちばん最前線であったにもかかわらず助かり、全員無事に帰り得たわけです。もう亡くなられたので申しあげてもいいわけですが、この方は帰られてから日本で超大企業の社長までされました。さすがの人間、人格者だと私は思っておりました。
そういう形で11月の末には武装解除され、河南省の省都の鄭州(ていしゅう)という街の近郊に大きな捕虜収容所が建てられて、河南省にいた部隊のほとんど全員がそこに収容されました。日本軍ばかりの何千という大集団です。
ところがここで、ものすごく激しい内戦が起こりました。日本軍の内部でです。それは、陸軍士官学校を出て参謀本部とか師団司令部、また日本は終戦まで中国の大都会という大都会をすべて占領していたわけですから、占領行政もやっていたというような将校たちを中心にひとつの強い団が結集されて、その人たちが日本政府を弾劾するという激しい文章を作り、その文章に対する署名運動をするために全部隊に来られたのです。その文章というのは、「日本政府は、明らかに敗戦であるにもかかわらず、終戦という言葉でこの時代をよんで、現状を糊塗しておる。日本民族のこれからの生き方は、なんとしても国力を回復して、この恥をそそぐという形で生きていくのが日本民族の指導者たる者の資格じゃないか。いまの政府はいったいなんだ。俺たちは帰らない。日本に帰らない」というところまで書かれた弾劾文でした。
それに対して私たち戦闘をやっていた部隊は、それこそ「何を言っているんだ。三百十万人におよぶ日本人の命を失い、中国をはじめ二千万の人たちを殺し、広島・長崎で一瞬にして二十万の命を失ったと聞いている。いったいこの戦争はなんだったのか。いまの政府が終戦とよんで、敗戦と呼ばないことぐらいはわかり切っているじゃないか。日本は不敗だと教えてきた人たちがいまでも権力をにぎっているんだから。終戦でけっこうだ。しかし、この戦争が終わったという意味の終戦じゃないんだ。二度と戦争をしない国にするというのが、われわれの生き方じゃないのか。それで初めて中国人に顔を合わせることができるんだ。いったい将校たちは何を考えているんだ」と、そういうかっこうで真っ向から反対したわけです。片一方は「敗戦派」と呼ばれ、片一方は「終戦派」と呼ばれます。
最初はおどかされて署名する者もいました。署名といっても、いまのような署名じゃありません。自分の指を切って、その血で名前を書く血書というものです。そして、それをとられた兵隊たちが夜な夜な、毎夜毎夜、取り返すために将校宿舎に襲撃をかけた、そういう状況下にあったわけです。
ところが河南省のわれわれの部隊は、翌1946年(昭和21)の5月、上海から山口県の仙崎という港に復員してまいりました。この山口の仙崎というところは、私たち島根の部隊にとってはほんとに近いところです。いいところに上陸することになったなとみんなで喜びあったわけですが、あにはからんや、東北、北海道、四国、九州に帰る兵隊を先に上陸させる、山陰の部隊はしばらくここで待機しろということになって、船の中で三泊。日本の港に引き揚げてきながら、上陸は許されませんでした。それはまあ当然なんですね。山陰線は一本しか走っていませんから、そこへ何十万という兵隊が行きますと交通がさばけないわけで、われわれは最後尾、すぐに帰れるはずなんだからということで残されたわけです。
その船の中で、それこそヨレヨレになった新聞が配られました。私はそれをずっと3月の日付の新聞だと思っておりましたが、最近確認しましたところ4月17日付の新聞でした。これは民家から借りてきた新聞で、ほんとにヨレヨレの新聞でしたが、それが各中隊に1枚くらいの割合で全隊に配られたのです。その新聞を、私は先ほど申しあげた中隊長から「品川、これを大きな声で読め。全員に聞こえるように読め」と言われて渡されました。それが、いまみなさんがご存知の『日本国憲法』の草案でございます。
渡されて私は読みはじめました。まず、それまでの勅語とか大本営発表というような文章は、文体も文語であり、それを予想していただけに、読みはじめてびっくりしました。それは口語体の文章で、「である」「です」という言葉を使った文章だったからです。しかしとにかく、みんなに聞こえるように大声で読みました。
そして九条まできたとき、全員が泣き出してしまったのです。よもや成文憲法で、戦争放棄だけでなくて、陸海空軍をもたない、国の交戦権はみとめない、とそこまで書いてくれたのかと。憲法でそういうことまで書けるとは夢にも思わなかったわけですね。生き方として、二度と戦争をしない国に何とか努力をしながらやっていこうということで私たちは帰りましたが、しかし成文憲法でそこまで踏み込んでくれたのか、これなら生きていける、これなら死んだ戦友の霊も浮かばれる、これならアジアの中で日本は生きていける、とそういう意味でほんとうに声が出なくなりました。私は読めなくなって中隊長に新聞を返そうとしましたが、その中隊長がいちばん号泣しておられました。私といまの憲法との出合いは、まさにそのときでした。その感激をいまの私が捨てるなどということは、できっこないのです。
ただ、この日本の憲法というのはひじょうに特殊です。いちばん大きな特殊点というのは、国民は歓呼して迎えた憲法でしたが、戦前から戦中・戦後とずっと権力を握ってきた支配階級の人たちは、受け取り方が違ったんですね。あの人たちにはまさに押し付けられた憲法なのです。国民にとっては押し付けられた憲法じゃないですよ。しかし権力者にとっては、よもやと思うような憲法だったわけです。
したがって、すぐ改正という問題を自由党(いまの自民党の前身)の吉田茂が提出しました。しかし国民の支持がある以上、改正はできません。それで解釈改憲という手段をつかって、自衛隊をつくり、有事立法をつくり、特別措置法をつくり、ついに日本はイラクにまで自衛隊を派遣するに至りました。また、ソマリアに海上自衛隊を派遣するところまでいってしまったのです。その意味で、私が泣いて迎えた憲法九条の旗はボロボロになりました。あのときの姿はもうございません。
しかし、いかにボロボロになろうと、国民はまだあの旗竿を握って放していません。それを取り上げてみせると言った安倍内閣は、あの2007年(平成19)の参議院選挙で無惨な敗北をしました。国民がはじめて主権を発動したのです。いかにボロボロになろうと、60年間守ってきたのです。その間、主権の発動として、日本人は外国人を一人も殺していません。こんな大国はほかにありません。そういう意味では、権力機構にある人間と国民との乖離がこれだけ民度の高い日本で60年間も続いているというのは、これは世界史的に見ても希有な存在なのです。
ただ、もう一つ難しい問題がございます。それは、日本国憲法九条が単に戦争をしないというのではなく、戦争を人間の目で見て、人間として戦えない、人間としてできない、人間として許されないという願いがこもった憲法なのです。世界中の憲法では、戦争というものは国家の目でしか書けません。国家の目で見て、戦争をどうするこうするとしか書けないのです。日本国の憲法では、戦争を人間の目で見たから、ああいう文章になっているのです。いまの戦争というのは、戦国時代の武将同士のやり合いではありません。ミサイルを使うのです。爆弾を使うんです。かならず無辜(むこ)の母親が死ぬんです。赤ん坊が死ぬんです。子どもが死ぬんです。まして日本は原爆を知っている国です。戦争というのはもう、自分がするとかしないとかではなくて、やることができない、人間として許されないという思いがこもっているのが日本国憲法なのです。コスタリカをはじめ、常備軍をもたないという憲法をもっている国はありますよ。しかし、それは国家の目で見て、そのほうが国益になるという考え方なのです。日本の場合はそれを超越してしまっている。「人間として許されない」―これが日本国憲法の九条の特徴なのです。
では、なぜ、日本だけがそんな憲法をもっているのか。これはほんとうに天から与えられたものといえます。
あの憲法を論議した期間は、1945年の11月から公布の46年11月3日まででした。じつはその間、日本は軍というものがなかったのです。まだ何百万という陸海空軍が太平洋に散らばり、中国大陸に散らばっていたわけですが、もう海軍省も陸軍省もありません。もちろん防衛省なんてあるはずもない。では、あの膨大な軍隊をだれが統率していたのか。厚生省の復員局、あるいは復員援護局です。名前が変わり、そこが統括していた時代があります。日本国憲法はまさにそのときに論議されたのでした。あれがもう1~2年遅れていれば、中国では毛沢東政権が成立し、東西冷戦が激化し、さらに遅れていれば朝鮮戦争も始まっていました。その時点でなら、あの憲法はつくられるはずがないのです。ほんとうに偶然、そういうかっこうで日本国憲法が生まれたのです。
その日本国憲法を国民は60年間守り続けてきました。その間に世界の情勢も大きく変化し、いく度か戦争経験を世界としても共有した時代がございました。しかし、日本国憲法の理念を否定する人は、いまや一人もいなくなりました。「理念はそのとおりだ。しかし…」というのがいまの国際関係です。その理念どおりに書いているのが日本国憲法です。そういう意味で、「人間の目で見た憲法」をもっている日本、これが60年間続いてきたわけです。
もちろんその論議どおり、この憲法のことを当時の憲法学者の佐々木惣一さんや南原繁さんは「人間の目で見た憲法」という言葉で表してはおりません。また思いつかなかったと思います。しかし、それを60年間国民が守ってきたことによって、いま世界でこれ以上の理念はないという憲法をもつに至っているのです。それをいまさら捨てられるのか。日本が捨ててしまえば、成文憲法としてはその理念はこの地球上から消えてしまうわけです。私は、これは死んでもこの旗竿は放しえないというふうに覚悟しております。
もう一つ、人間という言葉として私はみなさんにぜひ訴えたいことがあります。それは先ほどグリーン九条の会の世話人の方が言われましたが、戦争というのは、地震、雷のような天災ではないということです。また、私が学生時代に考えていた国家が起こした戦争でもございません。戦争というのは人間が起こすのです。しかし、戦争を起こすのも人間なら、それを止める努力ができるのも人間なのです。では「私はどっちだ」、それをはっきり人間としてもっていただきたい。私はよく戦争、人間、そして憲法九条という題で話をしているのですが、その意味でこの「人間」という言葉は、私としてはほんとうに命をかけた思いがこもっているのです。
もう一つ「人間」という言葉をつかうとすれば、きょうの議題に近づきますが、戦争を人間の目で見た憲法九条をもっている日本は、なぜ経済を人間の目で見ないのか、ということです。経済人としてやってきた私にとっては、これは終生の最大の課題です。経済を人間の目で見れないものかと。憲法九条をもっている日本が、あの戦争さえ人間の目で見て「やれない」と言っているのに、経済に関してどの国にも先駆けて人間の目で見た経済を実現できないのか。これが私の経済人としての最大の課題でした。
ところが現実はどうか。人間の目どころか、国家の目でさえ見れない。金融資本の目でしか見れない経済が、ついこのあいだまで続いていました。国家でさえ撹乱されてしまうような経済システムが続いていたわけです。
昨年(2008年)9月15日のリーマン・ブラザーズのあの破たんが、表現は悪いのですけれども、私には神風だと思えてなりません。あのリーマンがつぶれていなければ、あの状態があと5年も続いていたら、日本はいったいどうなっていたか。
日本はアメリカの資本主義をマスコミなどを通じて理解しているつもりです。しかし、現実はぜんぜん理解できておりません。アメリカ人もそうでした。あの9月15日以降、リーマンが政府に吸収される、支援されるという状況のなかで、アメリカはつぶさに自分たちの資本主義がどういうものかを知ったわけです。
たとえばS&P500社をみると、株価でもなんでもアメリカを代表する500社ですが、そのCEO(注3)の給与が一般の平均労働者の340倍だったのです。これはS&P500社の平均ですよ。上位1位、2位という会社はもっとケタ違いでしょう。S&P500社、日本でいう上位500社の社長の平均給与が、労働者の340倍。
もっとひどい数字があります。アメリカでは、合併あるいは証券の金融化という形であの金融資本の最先端をいっていたのがヘッジファンドというファンドです。そのファンドを統括しているファンドマネージャーというのがおりますが、このファンドマネージャーの1位から50位までの平均報酬が、労働者の1万9000倍ということがわかりました。1万9000倍ですよ。
それに対してつい先々週、週刊朝日が日本の百何社の従業員 対 取締役・役員の統計をトップ記事として掲げておりました。私は朝日の記者に、半分冗談ですが「なぜ朝日新聞自身のことを書かないんだ。朝日の社長はいくらなのか、朝日の編集長はいくらなのかをなぜ書かないのか。書けばもっと説得力があるのに」と言いましたが、彼らは高すぎると思っていたんでしょうね。
しかしそれでいうと、日本の平均の取締役の報酬は社員の平均の6倍、7倍がいちばん多い。2社だけものすごく多いところがあって、それはゴーンさんを社長にしている日産自動車と、外資のトップを社長にしているソニーですね。これだけはケタ違いに高いんですけども、あとは6倍から7倍。それが日本でした。
「アメリカの資本主義に近づけば近づくほど正統資本主義になる」と、あの小泉・竹中時代は激しくそれを国民に絶叫しました。「改革なければ成長なし」という言葉で、徹底的にそういう思想を吹き込みました。アメリカの資本主義が正統資本主義であり、日本の資本主義は修正資本主義なんだと。一歩でも二歩でもアメリカに近づけることが日本にとっては大事なんだと。そういう言い方であの小泉・竹中のコンビは経済政策を実施してきました。ついこのあいだまで金融立国という言葉も強く言われていました。アメリカの投資銀行と同じような形を日本もやるべきだという意見が強かったのです。
それがあのリーマン・ブラザーズの破たんによって次々と、アメリカの資本主義っていったいなんだったのかということがわかってきました。
日本人が理解しにくいのは、数字的な問題をいっさい知らされていないからです。いまのアメリカのような形は、日本では到底だれも認めるとは言わないでしょう。アメリカのファンドマネージャーの平均報酬が労働者の1万9000倍。そんなバカな話があるかと、だれでもそう思うでしょう。
だいいちみなさん、拳銃の値段、ピストルの値段を知っておられますか? 知っているのはヤーさんだけです。ところがアメリカ人で知らない人はいない。家庭に2億丁の拳銃があるのはアメリカなのです。
私は保険会社の社長をやっていました。保険会社というのは日本では平和産業だというのが常識ですね。しかし、あのつぶれかかったAIGは軍需産業です。戦争の保険を引き受けているのです。ですから、つぶすことができなかったわけです。ミサイルがどこに何発あり、どの地区がいちばん危ないか。そういうことをぜんぶ保険としてやっていたのがAIGのグリーンバーグなのです。
私が社長時代、彼グリーンバーグも社長でした。アメリカの自宅にも行ったことがあります。すごい家ですよ。家にスキー場もあればゴルフ場もある。スキー場があるということは、リフトもあるんですよ。
AIGはもともと、カリフォルニア州出身のスターという男が上海で創業したAIUという会社が始まりですが、グリーンバーグの時代からは沖縄が主力のマーケットとなりました。私たち保険会社の社長仲間は、AIGは別だ、あれは軍事会社だというふうにはっきりと自覚しておりました。ベトナム戦争が始まり、米軍の基地が最重要基地になるにしたがって、世界一の保険会社にのし上がっていったわけです。
アメリカの資本主義と日本の資本主義、これはほんとうの意味で実態を知れば、アメリカに近づけば近づくほどいいなどとはもうだれも言うはずはありません。ところが、政界・財界・思想界・マスコミは、その実態を知らせてきませんでした。そして価値観が一緒だという言い方をたえず前提において、記事や解説を書いてきたわけです。
私は小泉さんという方と一緒に仕事をしたことはありません。ただ、あの方はひじょうに自分がこうと思ったことに関してはブレない人だと思います。信念が強いと言ったらいいかもしれません。しかし、哲学のテの字ももっていない人です、珍しいくらい。そういう面倒くさいこと、という感じになるわけですね。もう一つは、戦後の歴代の内閣総理大臣と比較しますと、政治の勘の良さは抜群でした。しかし、政策はもっていないのです。政策はほんとうにもっていなかった。あの郵政改革なんていう大政策をやったじゃないかと思われるかもしれませんが、あれは違います。あれは郵政改革という名の政治をやったのであって、イエスかノーかだけなのです。政策というのは、郵政改革をすれば庶民の金融はどういう構図に変わっていくか、それをきちっと示して出していくのが政策というものです。イエスかノーか、あれは典型的な政治をやったにすぎません。
では、政策はどうしたんだというと、政策はすべて竹中さんに丸投げしました。竹中さんという方はおそらく、フリードマンの弟子のなかでも、これほど大きな経済大国の政策を自由にできた人はあの人をおいていないだろうと思います。それこそ最高の栄誉を得た人だろうと思います。ただ、小泉さんがあの人をなぜ選んだか。それは基本的には、日本とアメリカの価値観を一緒にしておくという点では、最も強烈な信奉者であることから選んだのだと私は思います。
これは日本にとっては悲劇でした。あの人が実施しようとしたなかでいちばん大きな問題は「規制改革」でした。規制改革のなかでも、雇用の規制改革は徹底的に日本人を不幸に突き落としてしまいました。非正規労働者の数が三分の一に増え、若い層では二分の一になる、そういうところまでわずか数年で変えてしまったのです。このことは、これからの日本がこの問題を処理するためにひじょうに大きな負担を覚悟せざるを得ないと思います。
もう一つ規制改革に関して申しあげますと、日本の国民は戦争中、国家総動員法でかなり苦しんだものですから、規制改革という言葉に抵抗しなかったんですね。産業的なさまざまな規制もできるだけなくしたほうがいいんじゃないか、と規制緩和というかっこうで受け取ったわけです。
ところが、「改革なければ成長なし」と言い出してからの規制改革は、ぜんぶ大企業のための規制改革に変わってしまいました。これでは中小企業はやっていきようがありません。大企業がもっと自由に振る舞えるために改革するという方向に変わってしまった。その最も激しい現れ方をしたのが、雇用の規制改革でした。派遣社員の規制改革、派遣法の改正による改革です。
もう一つこの例を付加させていただきますと、「官から民へ」あるいは「大きな政府から小さな政府へ」というのがあの竹中改革のときの大きなスローガンでした。この「官から民へ」「大きな政府から小さな政府へ」ということによって、それこそ年金の問題が起こり、健康保険料の問題が起こり、医師の問題が起こり、次々と問題が出てきたわけですが、日本が大きな政府だと思っている国は世界の中で一国もありません。人口十万人あたりの中央・地方の役人の数は、先進国じゅうのなかで日本は最低です。決して大きな政府ではありません。まして政府の役割としての教育・福祉などに対する対GNPは、アメリカと日本が世界最低を争っている状況です。
しかしひとつだけ、ものすごくでかい政府だと言われるところがあります。それは政府の借金です。これは世界の国のどこの先進国も真似のしようがないほどです。政府はそれほど大きな借金を国債という形でしています。この政府の国債、借金の大きさは、たえず予算を編成したりするときに大きな政府というかっこうで処理せざるをえない問題なのです。
しかし、ここでみなさんに腹をくくっていただきたいのは、これは詐欺だということです。政府の借金というのは、アメリカから借りているわけでもない、韓国から借りてるわけでもない、中国からだって一銭も借りていないのです。だれに借りているかというと、国民の個人の家計部門からお金を借りているだけなのです。だれのために借りたのか。金融機関と企業を助けるために借りた、これに尽きるわけです。それで、1%のGNPをあげるために100兆円つかったときもあるんですね。小渕さんが、「俺は世界の借金王だ」という言葉をみずから言っております。たしかに、そんなものすごい大きなお金をつかって借金をする人というのは、これは世界の借金王です。100兆円ですからね。しかしそれはだれに借りたのかというと、国民から借りているのです。みなさんからゼロ金利という形でです。
本来はみなさんの多くが、働いて退職金をもらい、その金利と年金とで老後の暮らしを成り立たせるという生活設計を思っていたと思います。ところがゼロ金利。このゼロ金利ということは、企業が助かるということです。そしてゼロ金利だけでは足りないので、こんどはみなさんが銀行や郵便局に預貯金している分をすべて国債に変えたのです。そうやって企業と金融を助けたわけです。
ところが去年までのあいだ、史上最高の利益を企業は出し続けていました。イザナギ景気を超えるといわれました。みなさんにとって景気はぜんぜん良くなかったはずです。そして、その国債を償還するとすれば、とうぜんそれで利益を得てきた人は、こんどは返す番のはずです。ところが企業はさらに法人税を下げることを要求し、政府はそれを考慮するという形で政策をやりました。ですからまた、国民の個人の家計部門のお金で財政のこの負担を償却しようとしたのです。それが年金の問題であり、健康保険料の問題であり、後期高齢者問題であり、なによりも消費税の問題なのです。ぜんぶ国民の負担で代えようとしています。
しかし、それがわかってしまうとだれも協力してくれないことから、悪者をつくったわけですね。役人の不祥事を、新聞は毎日のように書くわけです。許せないです。もちろん、国民の目線から見て、役人たちにはなおしてもらいたいところはたくさんあります。しかし、問題の本質をそこにすり替えてしまうことに対して、私はほんとに許せない気持ちです。
しかも、日本の修正資本主義のためにいちばん中心となってやってきたのは、役所です。日本の資本主義とアメリカの資本主義との違いをひとことでいうなら、日本の資本主義は「成長の利益は国民で分ける」ということです。アメリカの資本主義のいちばんの基本は、「利益はすべて資本家のものだ」ということです。それをはっきりしてしまえば、だれも政府についてこない。そして、修正資本主義という形で戦後「日本の資本家のための経済対策にはしません」とやってきた官僚への恨みを晴らすためにも、政府は「官から民へ」「大きな政府から小さな政府へ」という言葉をつかい、しかも国民もそれに乗ってしまった。これがいまの現状なのです。
しかし、先ほど言いましたように、昨年9月15日のリーマン・ブラザーズの破たんによって、アメリカの資本主義とはどういうものかがはっきりしはじめました。多くの人たちはもう、「あのアメリカの資本主義に近づけば近づくほど良い」という言葉はつかいません。ただ、竹中さんだけがいまでも言っています。構造改革が足りなかったからこうなった、という言い方をしているのはあのひと一人です。竹中さんの前に、小渕内閣で竹中さんの役割を果たしていた中谷巌さんは、はっきり懺悔をしました。「間違っていました」と。これがいまの日本の資本主義のおかれた状況です。ですから私は、言葉は適当でないかもしれませんが、9月15日を「神風」というふうに呼んでいるわけです。
そして去年、もうひとつの神風が吹きました。それは、あの「年越し派遣村」のことです。これは日本の貧困、格差、雇用問題など、すべてを国民の目にはっきりとさらしました。日比谷というところは中央官庁がぜんぶあるところです。国会議事堂もあれば、最高裁判所もある。日本の司法行政立法の中心です。そこではっきりと日本の貧困とはどういうものかを示しました。この冬空に、職を切られれば住む所もなくなるという人がこれだけいるんだ、そういうことがはっきりと示されたのです。また、それを炊き出しテントを張って救ってやろうという人が千人も出てきました。
日本のいままでの状況というのは、お上である国会、司法、行政が状況をつくり、国民はその状況にどう適応しながらやっていくかが生き方だと思っていたのです。ところがあの年越し派遣村は、「国民が状況をつくれるぞ」ということを国民の目の前に示したわけです。あの厚生労働省がそうした人たちに対して自分の講堂を提供する、こんなことはいままでの日本では考えられなかったことです。しかも、その厚労省の建物というのは一省だけの建物ではありません。ほかにたくさんの省が入っています。そういう形で雇用の問題、貧困の問題、すべてを国民にさらけ出し、マスコミもそれに大きく係わらざるをえなくなったのです。それまでは、「そんな問題」といったかっこうでしたが、一面トップにその問題を取り上げざるをえなくなりました。
この「国民が状況をつくれる」ということをはっきり自覚させた「年越し派遣村」と、「リーマン・ブラザーズの破たん」は、2008年に起こったひじょうに大きな出来事でした。
私は、金融恐慌にも匹敵する今回の経済不況が回復するまでには、長くかかると思います。なぜか。アメリカは元に戻れないことは決まり切っています。いくらアメリカ人でも、先ほど言いましたような数字がはっきりしてくると、馬鹿にするなという感じです。アメリカンドリームといっておだてられていたのが、そこまで馬鹿にされていたのかということになります。
さらに悪いことにはこの3月、AIGという損保が、あれだけアメリカ政府からお金を借りておりながら、幹部社員に日本円で百何十億というボーナスを出しました。政府のお金というのは、国民の税金です。その税金からお金を出してもらっている会社が、百何十億のボーナスを出すとはいったいどういうことだと、さすがに投石が始まりました。本社は移転するというかっこうまで、ウォールストリートからアメリカ人の憤りが吹きだしたわけです。
そういう意味で、アメリカがふたたび消費に舵をきり、それに応じて日本が輸出でGNPを引き上げるという政策は、もうとうぶんとれません。
ここでみなさんにちょっと違った角度で申しあげますと、いま経済不況の問題に関して、本屋の店頭にはそれこそ汗牛充棟(注4)ただならぬ本が出ております。なぜ金融恐慌が起こったか、どうすれば解決できるか、この二つが主になって出ております。
しかし私は、理由は先ほど申しあげたとおりですが、こうやれば解決できるという本にはそれほど魅力を感じません。それは、そんなことはできないからです。
いまほんとうの意味で政治家に欲しいのは、この苦難の時期は長く続くけれども、その苦難の時期をどうやって国民の犠牲を少なくして済ませることができるかを考えてほしいのです。それを考えることによって、日本の資本主義の型ができてくるのです。もうアメリカ一極支配というかっこうは、おそらくないでしょう。まして、オバマ大統領がそれをとらない政策をはっきりしているわけです。その意味から言って、アメリカ一極支配でなければ、それなら多極支配なのか、あるいは無極なのか。この論議はまだ早いと思います。ドルに代わる基軸通貨はどうなのか。これもまた論議は早いです。イギリスのポンドが覇権を失ってから50年間かかってドルに変わったわけです。簡単に基軸通貨が変わるだろうなどという論議に、私はくみしません。
しかし、長くかかるというならば、長くかかるあいだ、どういう形で国民の負担をやわらげていくか、それが政策じゃないかと考えるわけです。それを急いで片付けるためにまた大企業にばらまくんだと、あるいは今年一年だけばらまくんだと、こんな政策はほんとうはありません。これ、選挙が近くなければ、こんなことはぜったいにやらないのです。いちばんやってはいけないことなのです。長くかかるのを、どうやって国民の負担を減らして乗り越えていくかという政策でなければなりません。
ところがいまは、政治家も本を出す人もせっかちにこうやれば解決できるという案ばかり出そうとするために、大企業に対する支援策とか、あるいはエコポイントなどといって電気製品と自動車だけが売れるようなことでなんとかしようとしています。ひとを馬鹿にするにも程があると思うんですね。もう総選挙が近いんです。彼らがばらまいていることは目に見えています。みなさんにはそのへんをはっきりと見抜いていただきたい。私はそれに尽きると思うのです。
このように、資本主義の型というのは、どう耐えていくか、その間どう国民に負担をかぶせないでやっていくかを日本が本気で考えれば、日本型の資本主義とはこういうものだという形が出るだろうと思っています。まだ私にはわかりませんが、とにかく一極支配でない以上、イギリス型もできればフランス型でもできる、ドイツ型もできる、あるいはEU型、中国型、いろいろな形ができるでしょう。
しかし、日本の場合は先ほど言ったように、世界でたったひとつ、「憲法九条」(※2)をもっている国です。これと「憲法二十五条」が、去年の年越し派遣村でドッキングしました。これは大きいことなんですね。
先ほど私が、人間の目をした経済をどうしてやれないかと言いましたが、それはこの憲法二十五条のドッキングにより私にとって夢ではなくなりました。もうどちらを選ぶかという問題に近づいてきたという感じを受けるわけです。
最後に、私はここでみなさんに強くお願いしたいことがあります。冒頭で私は日本国憲法のもとで主権者の一人として生きてきたと言いました。ここでもういちどみなさんに、自分が主権者だということを確認していただきたいのです。私は経済団体に関係しておりましたから、日経連や経団連、経済同友会の総会などの現場に立ちあっていますが、経団連の総会でもきょうの講演会のような人数は集まりません。たしかに経済界というのは、ヒエラルキー(注5)が出来あがっています。トヨタ自動車の豊田章一郎さんと、トヨタの販売店の子会社、その社員の人とは、10万 対 1どころか100万 対 1くらいのヘゲモニー(注6)の違いはあります。しかし、選挙とか国民投票ということになれば、豊田章一郎も一票しかありません。みなさんとまったく一緒なのです。
そして主権者としてのみなさんは、日本とアメリカとは違う、ということを自覚してほしいと思います。アメリカは原爆を落とした国、日本は落とされた国です。それだけでも違います。資本主義も違います。それを言ってしまえば、言い切れば、日本の政策はずいぶん幅が広いとなるわけです。しかも世界第2位の経済大国です。「日本はアメリカと違います」とひとこと言っただけで、アメリカは世界戦略を変えざるをえないでしょう。アメリカが世界戦略を変えるということは、世界史が変わるのです。そのことを決定できるのは、役人でもなければ外交官でもありません。主権者たるみなさんの決定に待つわけです。
みなさんが世界史を変える立場にある。それは日本史のなかではおそらく初めてのことではないでしょうか。「日本とアメリカとは違います」とひとこと言ってしまえば、世界史が変わるのです。それを言う機会というのは、これからいくらでもあります。次々と出てくるでしょう。「違います」と、ひとこと言ってしまおう。主権者として主権を発動していただきたい。これが私の最大のお願いです。
札幌まで出かけてきた私にとっては、札幌のみなさんを心からそういう形で支援したい。私のような老齢の人間は、もう世界史が変わることを見ることはできないでしょう。しかしみなさんには、子どものために、孫のために、あるいはみなさんご自身のために、「世界史が変わるのはもう目の前に来ている」ということをはっきりと確認していただければ、私のきょうの話はこれに勝ることはないと思います。
どうもご静聴ありがとうございました。
※この号は、主催した「グリーン九条の会」と講演された品川正治さんのご理解を得て掲載が実現しました。厚くお礼申しあげます。
※品川正治さんの当日の講演を記録したDVDが完成しました(送料込み 1枚1,300円)。ご希望の方は下記までお問い合せください。
なお、カムイミンタラに掲載した内容は、品川正治さんのご了解を得て当日の講演に一部加筆・修正を加えたものです。カムイミンタラとDVD で多少違う部分があることをご了承ください。
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