ウェブマガジン カムイミンタラ

2010年11月号/ウェブマガジン第30号 (通巻150号)  [ずいそう]    

知里幸恵 銀のしずく記念館へのお誘い
横山 むつみ (よこやま むつみ ・ 知里幸恵 銀のしずく記念館々長)

「冬の星座・昴」<br>版画:宝賀寿子
「冬の星座・昴」
版画:宝賀寿子

私の生まれは登別、アイヌ語で登別はヌプルペッといいます。ヌプルは色の濃い、あるいは霊力のあるという意味で、ペッは川の意味です。ご存知のように登別を全国区にしているのは、何といっても温泉です。これからの季節、温泉は温もります。

一方で、今、私たちを熱くしているものといえば、アイヌで初めてアイヌの物語を書き上げた知里幸恵(ちり ゆきえ)への思いかもしれません。
今日は、この登別生まれのアイヌ女性、『アイヌ神謡集』著者の知里幸恵のことを中心にお知らせしようと思います。

私は幸恵の弟・知里高央(たかなか)の娘ですので、彼女の姪になります。とはいえ、幸恵は私が生まれるはるか以前の1903年(明治36)に生まれ、1922年(大正11)に19歳という若さで亡くなっていますので、この世では会うことのなかった伯母です。その伯母が私の後半生に大きくかかわってくるとは思いもよりませんでした。

私は長いこと故里を離れていました。1997年(平成9)秋、東京から登別に戻ってきました。住まいは幸恵の生地、ときどき、幸恵の足跡を求めてやってくる人に出会います。その中に、朝早く京都から見えられたという初老の男の人がいました。何も深い話はしませんでしたが、幸恵のゆかりの地を歩いている人がいることを、新鮮に受け取ることができました。私の頭に先祖の大地を預かる子孫としての役割というものが芽生えたのは、その時だったかもしれません。

幸恵のことを伝えようとしたのは、彼女の生き方に共感する部分が多かったからです。幸恵がアイヌとして苦しみ、アイヌを大切にしたことが、その作品や手紙、日記などから感じとられます。私も同じアイヌ人ですから、幸恵と同様の差別体験を受け苦しんだこともあります。幸恵の思いが、直接に心にこだまするのは当たり前かもしれません。

2002年(平成14)、知里幸恵記念館建設募金委員会が立ち上がり、代表に作家の池澤夏樹さんが着きました。世話人代表が北大の小野有五さんです。それから紆余曲折はありましたが、8年の経過があり、ついにこの秋9月19日に「知里幸恵 銀のしずく記念館」がオープンとなりました。これまでは、幸恵の足跡を訪ねるにはお墓参りをすることが主でしたが、この記念館オープンで、幸恵の業績と生涯を、彼女の遺品から、例えば、知里幸恵ノートや日記、手紙、証書類を直接見ることから、身近に感じてもらえることになりました。

幸恵最後の手紙には、「お膝元に帰ります。一生を登別で過ごします。」とあります。そして、自分にしかできない使命を「過去幾千年の祖先が伝えた文芸を書くこと」と定めています。そこには、千年単位で物事を考えている幸恵がいます。

この記念館は全国各地からの善意の募金で設置されました。幸恵が帰りたかったところに設置されました。温泉で体を、幸恵に触れて心を温めてください。お待ちしています。

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