人口21万5千人、道東の中心都市・釧路市の背後に広がる2万9千ヘクタール(うち5,011.5ヘクタールが天然記念物)の一大低湿地帯、それが『釧路湿原』です。いちめんキタヨシとスゲに覆いつくされ、その中を旧釧路川、雪裡(せつり)川、久著呂(くちょろ)川、ケネチャラシベツ川をはじめとした、いく筋もの河川が網の目のように蛇行を繰り返しています。
海抜高度は大部分が2メートルから10メートルと低いにもかかわらず、そこには氷河期から生き残ったキタサンショウウオ、イイジマルリボシヤンマなどの両生類や昆虫が生息し、カラフト系、南千島系の北方植物、道南から北上してきた植物が混生しています。
湿原西側の鶴居村北斗にある湿原展望台や東側の釧路町岩保木の展望台から遠望すると、春秋に象牙色からセピア色に変わるだけの、「まるでアフリカのサバンナを思わせる」と評する人もいるほどの荒涼とした景観が広々とつづきます。
しかし、そこには日本のどこにも見ることのできない貴重な、そして豊かな季節の営みが静かに繰り返されているのです。
釧路湿原は、釧路市立博物館に貴重な資料をもたらすフィールド。そこで釧路湿原の植物相を研究している学芸員の新庄久志さんは、湿原の1年の移り変わりを次のように語ります。
春さき―まだ地表は真っ白に凍り、去年のキタヨシが枯れ草色になびいている中で、ポツンポツンと緑色の点が見えだします。たくさんある川筋がしょっちゅう変わり、なかには昔の流れの跡が表面は土に埋まっていても、その底までは埋まりきらずにいる場所もあります。それが『ヤチまなこ』と呼ばれるもので、そこに流れ込んだ雪解け水は泥炭の下で温められるため、そこだけがいち早く雪をとかし、植物をどこよりも早く芽ぶかせるのです。
5月下旬になるとミズバショウが咲き、スゲ原がいっせいに緑に。ヨシが芽を出し始めるのが7月。そしてどんどん成長し、深いところでは3メートル近くにも背を伸ばしていきます。
雪解け水がよく流れ込む場所にはスゲが活発に株を成長させ、根元の土が水に削り取られて『ヤチボウズ』をつくります。大きいのは1メートルもの高さになり、上部の土は乾燥しているのでリンドウやトリカブトなど丘陵地の植物やマイズルソウといった高山植物、クロユリなどが花を咲かせます。ヤチボウズは腐らずにたまっていくため、たい肥の役目をして温かく、キタサンショウウオ、カエル、昆虫などがそこに巣をつくって冬を越すねぐらにしています。
夏―中・高層湿原はいちめんの花畑。イソツツジ、ヒメシャクナゲ、コケモモの仲間、トキソウ、ミツバオウレンなどの美しい花たちがいっせいに咲きそろいます。
秋―お盆が過ぎるころになるとハスカップ、コケモモ、ヤチグミなどが実をつけ、ヨシやスゲが枯れてセピア色の世界に変わっていきます。
ヤチハンノキばかりと思っていた林の中に、シラカバやヤチダモ、モミジまでもが混じっていたことが、紅葉した葉の色で知られます。
冬―雪は遅く、少ない。夏のあいだ草に隠れて見えなかった小さな池や川が凍り、その上にうっすらと雪が積もって白い帯のように見えます。積雪が50センチくらいにもなると、夏の間は水に浸されて一歩も入れなかった湿原のどこまでも、クロスカントリースキーで行くことができます。綿をかぶったような雪のあいだに、温かそうな湯気のあがっている場所がある。気温は氷点下30度にも下がっているのに、伏流水は凍らずに川霧を立ち上らせているのです。新庄さんは、そんな銀世界の中でデータを集めることも多いといいます。
およそ2万年前、最後の氷河期であるウルム氷期の末は平均気温が今より10度近くも低く、海面は100メートル以上も下がっていました。北海道と大陸は陸つづきとなり、マンモスをはじめキタサンショウウオやエゾカオジロトンボ、高山植物などがこの時期に渡来しました。
後氷期となって気温は上昇しはじめ、7―8千年前の『縄文海進』と呼ばれる海面の上昇によって、古釧路湾ができます。
やがて湾の入り口は砂でふさがれ、湿原の形成が始まります。そして、そのころ東側へ傾く“傾動運動”が起こり、谷がふさがれて『おぼれ谷』となり、シラルトロ沼、塘路(とうろ)湖、達古武(たっこぶ)湖が生まれます。
釧路湿原の泥炭は、大部分が約3メートルの層をなしています。泥炭は1年に1ミリの速度でたい積することがわかっているため、釧路湿原は泥炭がたい積しはじめて約3千年が経過したことになります。
1885年(明治18)ごろ、鳥取県からの移住者が開拓のくわを下ろしてから、湿原と人間の闘いが始まります。
掘れども掘れども厚い泥炭の層。この不毛の地に地域の人びとは治水事業を進め、農牧地への転用に100年にわたる開発の歴史をつづけてきました。しかし、この湿原が3千年前の昔から不毛の地だったでしょうか。釧路市立博物館館長の澤四郎さんは「かつては豊かな生産力に恵まれた場所だった」と語ります。それは、湿原の周辺に残された約400ヵ所の遺跡群が立証しているというのです。
釧路湿原と人間とのかかわりが始まるのは1万年前。北海道では2万5千年前とも3万年前ともいわれる人間の歴史に比べて決して古くはないが、そのころ数カ所の貝塚が出現しています。おそらく人口はゼロに等しかったでしょうが、それが7―8千年前になると、道東の当時の人口が全部集結したかと思うほど急激な人口増をみせるのです。それを、澤館長は「たぶん食糧革命が起こったのだろう」と推論します。
湿原がいちめん海であった時には貝や海魚しか取れなかったが、湾が閉ざされたことによって陸からの真水が海水と混り合って塩分の薄い汽水性の水が増え、淡水の魚もすむようになって、釧路湿原地帯の生産力が高まるのです。
ちょうど、そのころに土器も現れ、調理・加工の方法が革命的に向上して、動物性食糧、植物性食糧の幅を大きく広げます。
澤館長はこの人たちを『東釧路人』と呼んでいますが、今日、地域の人が利用しているのとほとんど同じ範囲の土地を利用して活動し、この時期だけで100カ所近い遺跡を残して大きな集落を形成します。さらに3―2千年前になると湿原の中の川筋も定まり、サケマスがそ上して来ます。丘陵地にはエゾシカをはじめとした獣類が駆けめぐり、湖沼ができてガン・カモ類の水鳥も渡って来ます。山菜やクルミ、ドングリなどの木の実も収穫できるなど、生物群衆は変化に富み、豊かになります。狩猟、採取技術も向上して、飛躍的に安定した生活が湿原のまわりで展開されるのです。
ところが2千年前以降、釧路湿原のまわりは次のアイヌ人によってチャシ(とりで)時代が築かれる14世紀までパタッと寂しくなります。人びとは、より資源の獲得しやすい厚岸湖へと移って行ったのです。
現代、釧路湿原の深く広い景観に魅せられ、そこに生息する生きものたちを愛し、守りつづける人たちが数多くいます。
特に絶滅の危機にあったタンチョウに、釧路湿原を唯一安住の地とするまでに努力した人の数も地域の内外に多いのです。
江戸時代まで豊富に生息していたのに、北海道開拓の歴史が進む明治末期以降、開発と乱獲によって絶滅したとさえ思われていたタンチョウが再発見されたのは、1924年(大正13)のことです。そして1935年(昭和10)にタンチョウとその生息地である釧路湿原の一部が国の特別天然記念物に指定されました。再発見の時に十数羽だったのに、現在は392羽が見つかっています。
ここまで生息を増やしてきた陰には、再発見の時の調査に当たった現北方鳥類研究所長の斉藤春雄さん、タンチョウの飼育に努める鶴公園の高橋良治さん、子どもたちといっしょに餌づけに成功し、世話をしつづけた幌呂(ほろろ)小学校長の故新井田準次郎さんをはじめとした小・中学校の教師たちと児童、生徒。親子2代でトウモロコシを給餌する山崎さん一家。タンチョウの生態を写真に記録しつづけ、湿原に散った岩松健夫さん。タンチョウ監視員として写真集も出版している林田恒夫さんもいます。
「あの気品ある東洋的な美しさ。雪の上での求愛ダンスを見ていると、赤いベレーをかぶったバレリーナのよう」と林田さんは賞賛し「釧路湿原と、それを愛する人たちがいたから絶滅から守ることができた」と話します。
釧路沖で黒潮と親潮がぶつかり合って濃い霧を発生させ、湿原を覆います。その霧は太陽を遮って冷涼な気象を生み、氷河期に大陸から渡って来た遺存生物が生息できる条件を釧路湿原につくっています。
その一種、キタサンショウウオは体長約11センチ、背から尾にかけて黄色いシマを帯びた両生類です。その調査・研究をしている市立博物館主査の橋本正雄さんによると、鶴居村の北斗と温根内に8千匹は生息しているといい、ふ化して3年を経た成体が止水の場所に紫の螢光色を発する卵を生む。「その美しさは、まるで湿原に眠るサファイアのようで、初めて見た時は言葉につくせない感動を覚えました」と話します。
湿原の北側、標茶町50石に住む飯島一雄さんは、氷河期のトンボ3種を発見した人です。エゾカオジロトンボ、イイジマルリボシヤンマ、ゴトウアカメイトトンボ、わずかな交尾器の違いを見つけての発見ですが、6歳の時から湿原に暮らし、尋常高等小学校を卒業したあと、まったくの独学で昆虫の研究をしてきた努力が報われました。今も農林業のかたわら昆虫採取をつづけ、「道東の昆虫目録」をまとめることをライフワークに、湿原に生きています。
サケは4年に一度の産卵で死滅します。同じ仲間でありながら一生に何度も産卵し、十数年以上も生きつづけるイトウ。その幻の魚を研究するために釧路湿原のある北海道教育大学釧路分校に赴任して、10年以上も地道な研究をしているのが山代昭三教授です。サケとは似つかぬ平板な顔に鋭い歯をむき、樹上のヘビどころかシカをも飲むという伝説を持つ肉食魚。事実、山代教授の研究室には1匹のイトウの胃袋から採取した2匹のネズミが保存されています。教授が、これまでに測定したイトウの最高体長は1.12メートル、ウロコからは15歳までの年輪を読んだということです。しかし、かつては20歳以上、2メートルを超す大物がいたというウワサは残り、ロマンを求める遊漁家には神秘な魚として憧れの的です。
そのイトウ釣りの名人といわれ“湿原の画家”と呼ばれて釧路湿原にこだわりつづけ、キャンバスの中に幻想美の世界を展開しているのは佐々木栄松画伯です。
「なぜ、湿原をわたしの美術のライフワークにしているかといえば、湿原には何もないからですよ。無は有なのです。何にもこだわることなく、わたしの空想をわき立たせるのです。茫漠とした湿原に立つと、いろいろな夢が湧いてくる。もう一歩先へ進んだら、生命がなくなるかもしれないという想いも内在している。自分の前は、いつも未知なのです。そこにアドベンチャーな気持ちをそそる魅力があります。勇猛心も、美意識も、希望もかき立ててくれる要素があります」
さらに、佐々木さんは言葉をつづけます。「自然に接することで心を磨いて、美学を持ち、感性を高めていかに空間を生きるかが、その人の価値判断となるのです」と。だから、佐々木さんは“湿原の画家”と呼ばれるよりは「空間の画家と呼んでくれる方がうれしい」と笑っていいます。
釧路市公民館館長の中港嗣哉(つぐや)さんも、佐々木さんと共通の見解を示します。
「人間の心は、研ぎすまされ、単純化されたものに感動し、時には感動を超えた畏敬の念さえ感じることがあります。釧路湿原はまさに単純明解。そして、これほど緊張感のあるものは他にないと思うくらいです。荒涼として何もないけれど、その無限の広がりが、こちらの心の中にも無限大の空間を拡大されてくれます。それが釧路湿原の最大の魅力だと、私は感じているのですよ」。
釧路湿原の名付けの親・故田中瑞穂教授(道教育大釧路分校)が「左の手のひらを開いたような形の釧路湿原が、その指を全部切り取られたような状態になってきた」と嘆いたのは、1960年代のことです。
湿原の生命線は、水です。水量の増減、水質の変化によって、植生は大きく影響を受けます。すでに水系の上流地域の開発が進んでいるだけに、いかに湿原の水を守っていくかが大きな課題です。また、大手不動産業者などによる民有地の買収も進んでいるため、俗じんにまみれた乱開発への懸念もあります。
釧路湿原は、地域住民はもとより国民共有の貴重な天然資源です。なかでも釧路市は“霧と湿原とともに生きる街づくり”を進め、地域活性化の柱にしようとしています。国立公園化が具体化した今こそ、目先の利益優先に惑わされる観光利用ではなく、釧路湿原の価値こそ何か、そして高い理念に基づく、自然と人間のあり方をつきつめたコンセプトの確立が望まれています。
北海道自然保護協会会長 北海道大学・東北大学名誉教授 八木 健三
先ごろ行なわれた自然環境保全審議会の自然公園部会小委員会の現地調査で、釧路湿原の国立公園化の方向が具体化したことを大変喜んでいます。私たち北海道自然保護協会でも、釧路湿原の調査には何年間か協力し、いろいろな報告書も出してきましたが、その努力のかいがあったと思っています。
釧路湿原は、海岸にある広大な湿原として、その景観、地質的な特徴、動植物の関係からいって国立公園としてじゅうぶん価値あるものであり、さらに霧達布湿原、根室の春国岱なども含められればよいと考えています。
湿原はひじょうにデリケートなものです。釧路湿原のよさを守るには、そのデリケートな自然のバランスを崩さないようにすることがいちばん大切であり、きめ細かい規制も必要です。
自然には一定の許容量があります。その範囲をよく見極めて、自然の復元力を超えないようにし「自然はもろいもの、いちど壊したら復元できないもの」という認識を、みんなが持ちたいものです。