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1987年01月号/第18号  [特集]    平取(びらとり)町 二風谷(にぶたに)

自然を大切にし 愛と平等を尊ぶ 民族の存在を立証する 美しい言葉の数々
アイヌ語を守る 平取町二風谷

  民族の存在を証明する最大のものは、その民族固有の言語を持ち続けていることです。北海道に先住し、自然や動物、そして人間に深い愛の心をもって生きてきたアイヌの人びとにも、民族固有の美しい言葉があります。しかし、明治政府以来の同化政策と混血の進行、アイヌ語を知る古老が次々に世を去っていく時代の流れのなかで、この誇り高い言葉は、いま消滅の危機にひんしています。そんななかで、平取町二風谷(にぶたに)に住む萱野茂さん(61)は次代を担う子どもたちにアイヌ語を教え、その言葉にこめられた自らの民族の心と文化を守り続けようと努力しています。

「葬式にはアイヌ語で引導を渡して欲しい」

イメージ(儀式のときはイナウ(ヤナギやミズキを削って作る祭具)をつけて―(86年シャクシャイン祭りで))
儀式のときはイナウ(ヤナギやミズキを削って作る祭具)をつけて―(86年シャクシャイン祭りで)

今から三十数年前のことです。完全なアイヌ語を知る3人の男たちが、顔をあわせるたびに、こんな話をしています。

「おれたち3人のうちで、最初に死ぬやつがいちばん幸せ者だ。なぜって、残った2人が完全なアイヌ語でイョイタッコテ(引導渡し)をしてくれ、自分たちの民族の言葉と儀式で葬式をしてもらえるだろうからな」

その“いちばんの幸せ者”になったのが、じつは萱野茂さんの父・清太郎さん(アイヌ名=アレッアイヌ)だったのです。

約束どおり、残った2人の友人はアイヌの儀式どおりに手厚く清太郎さんを葬ったのですが、その友人たちがいまわの際に清太郎さんの手を握り、

「お前ばかりが先に死ねて幸せだなあ。おれが死んだときには、だれが送ってくれる…」といって号泣したというのです。

このことに、萱野さんは言葉を添えます。「アイヌの儀式と言葉でイョイタッコテをしてもらえば、確実にアイヌの神の国へ帰ることができると信じていたこの男たちの気持ちは、民族の文化や言葉を根こそぎ奪われた者でなければ、絶対に理解することはできないでしょう」と。

老人1人が世を去るごとにアイヌ語の灯が消える

イメージ(女性達も踊りで祭りを盛りあげる(86年シャクシャイン祭りで))
女性達も踊りで祭りを盛りあげる(86年シャクシャイン祭りで)

萱野さんがアイヌ語に精通しているのは、アイヌ語だけでしか話せない祖母と長いこといっしょに暮らしていたからです。その祖母が103歳の長寿を保ったのち、1945年(昭和20)に世を去ると、萱野さんの身辺からもアイヌ語は消えていきました。そして、自分がアイヌであることへの嫌悪感も持つようになったといいます。

萱野さんが樵(きこり)になって山仕事に明け暮れていたころ、学者や研究者が次々に村を訪れてはアイヌ人の墓を掘り返す。さらに血をとったり、からだを調べたり、生活用具までも買いあさっていきました。

「国を奪われ、言葉を抹殺され、民族の生活文化をとどめる民具まで持ち去られたのでは、アイヌ民族はほんとうに滅亡してしまう。よし、それならアイヌのおれが買って保存しよう」と決意したのです。

民具の収集のためにあちこちの家を訪ね歩いていると、きのう会った老人がけさ亡くなった、という話が萱野さんの耳に届きます。そのたびに、ひとりのアイヌの老人が世を去るごとにアイヌ語のともしびが一点ずつ消えていくのを知るのでした。

私費でアイヌ語塾を開いて近所の子に

イメージ(民族衣装を着た塾の子どもたち)
民族衣装を着た塾の子どもたち

その後、平取町二風谷に保育所建設の話が持ちあがりました。萱野さんは自分の地所を売るなどして用意した500万円を建設資金の一部に―と寄付し、地域の特色をもたせるうえからも子どもたちにアイヌ語を教える保育所にしようとしたのです。しかし、その願いは国側に認められず、一般の保育所として開設されました。「それなら」と、自宅近くにべつの建物を私費で新築し、こども図書館として地域に開放するとともに隔週土曜日の午後、近所の子どもたちを対象にアイヌ語塾を開きました。1983年(昭和58)4月のことです。現在の生徒は小学低学年から高校生まで14人。LL(ランゲージ・ラボラトリー)のヘッドホーンを耳に、まるで外国語の勉強をするように、自分たちの民族の身近な言葉を勉強しています。

しかし、むずかしい文法などに悩むこともなく、身のまわりの物やふとした感情を言い表す言葉を、遊びのなかに取り入れながら楽しそうに覚えていきます。

10月第3土曜日の塾の日も、11人の生徒がイヨンノッカ(子守歌)の歌詞を勉強したあと、座ったままで歌うウポポ、アマツバメやツルの飛翔のさまを舞うチャッピーヤクやハララキを復習し、最後は落ち葉のつもる前庭に出て、萱野さんから先祖がつけた木や草の名前を教えてもらい、その名に表されている木や草の特徴などを一生懸命にメモしていました。

この塾では、金沢市出身の和人、米田秀喜・優子夫妻が勉強の手助けをしています。中学生時代からの同級生だったふたりは、ともに北海道大学で学ぶうちにアイヌ問題とその生活や文化に強い関心を持ち、萱野さんの教えを受けに来ていて、そのまま卒業後も二風谷に住みついてしまった人たちです。その優子さんがいいます。

「はじめのころは、アイヌ語塾に来るのが恥ずかしいことのように思っていた子も多かったけれど、いまはハッキリと『塾に行ってるよ』と友達にいえるようになったようです。言葉は外国語と同じでなかなか理解できなくても、アイヌ文化自体を子どもたちが見直すようになっているのは確かですね」

その塾の生徒たちが、86年(昭和61)5月にそろってカナダヘの研修旅行を実現しました。バンクーバー、エドモントン、ビクトリア、そしてカナディアン・インディアンの多く住むグルアードを訪問して、少数民族の心温まる歓迎を受けました。

「日本とは比較にならないほど恵まれた環境をうらやましかったり、自分の民族の言葉がスラスラ話せないことに、ちょっぴり肩身の狭い思いをしたり。しかし、みんな先住民族であることに誇りを持って暮らしている姿に感銘を受け、自分がアイヌ民族の一員であることの自覚を深めたようです」と、同行した優子さんはその成果を喜んでいます。

民族意識を燃え立たせるのは言葉だ

イメージ(まるで英語の勉強をするように難しいけれど、アイヌ語の中にこめられている自分たち民族の心と文化の大切さは確実に理解していきます)
まるで英語の勉強をするように難しいけれど、アイヌ語の中にこめられている自分たち民族の心と文化の大切さは確実に理解していきます

萱野さんは北欧やカナダ、アラスカ、中国、台湾と、少数民族と共存している国々を視察していますが「どの国の民族の言葉も、簡単にできたものではないぞ」という感慨を深めるばかりでした。それに、自身の気持ちを見つめれば、自分ひとりだけがアイヌ語を知っているのは寂しく、仲間をふやしたいという思いもありました。そして、なによりも民族存在の証しとして、固有の言葉を持っていることの大切さです。

「民族にとってほんとうに大切なのは、食べるものでもない、着るものでもない、住むものでもない。固有の言葉さえ持っていれば、必ず民族として認知される。そして、民族意識を燃え立たせるものこそ言葉ですよ」萱野さんは、アイヌ語塾にできるだけ女の子がふえることを期待しています。「女性は子どもに乳を与えるだけでなく、言葉を与える役目も担っている。だから、女の子にしっかりと言葉を教えておけば、言葉の生命がのびることは確か」と言いきります。

アイヌは雄弁を尊ぶ謙虚な民族

イメージ(アイヌ文化資料館に再現された、かつてのアイヌ民家のいろり)
アイヌ文化資料館に再現された、かつてのアイヌ民家のいろり

むかし、アイヌ民族はコタン(集落)の酋長を選ぶ場合、世襲制をとることはありませんでした。新しい酋長を選ぶときは、風貌の優れていることと度胸のあることに加えて、雄弁であり、夜を徹しての論議にも耐える体力の持ち主であることが最大の条件だったということです。それほど、アイヌ人は言葉を尊ぶ民族なのです。

アイヌ語のなかに「チャランケ」という言葉があります。一般には「言いがかりをつける」といった意味に解釈されていますが、ほんとうのアイヌ語では「ウコチャランケ」といって、ウ(お互い)コ(それ)チャ(言葉)ランケ(下ろす)であり「お互いに持っている言葉をそこに下ろして、話し合いましょう」という意味がこめられています。このことからも、まず言葉を尽くして話し合い、耳を傾け合うことから、なにごとも出発する民族なのだということがわかります。

また、古来から「どんなに鋭い刀より、どんなに猛毒を塗った矢よりも、もっと強いものは言葉なのだ。だから、争いをする前に、じゅうぶんに話しをし、ひとの話もよく聞きなさい」と、子どもたちに教えてきた民族でもあったのです。

キツネやカラスにも思いやりのひとことを

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自然とともに生きたアイヌ人は、身近なものにも神を感じる信仰のあつい狩猟民族です。アイヌ人が自然を神とあがめる大きな理由は、自分たちに食糧や生活の具を供給してくれるためです。だから、神が与えてくれる食糧は、自分たち家族と若干の近所に配るだけしかとらないのです。しかも、そのえものの一部は、その場に残してきます。たとえば、シカを捕えたときなどは、その内臓を川の水できれいに洗って、キツネやカラスのために草むらに置いてくるのです。そして、必ずそのときに、

「お互いに子育ての最中だ。お前たちもこのえものを腹いっぱい食えや」という意味の言葉をつぶやきます。すると、それをキツネがどこかで見ていて、

「あのアイヌの猟師は、きょうもおれのためにエサを置いていったな」と喜んでいるにちがいないと、心を豊かにして家族の待つ家路に急ぐのです。

アイヌ語でサケのことをシベ(ほんとうの食べもの)といい、主食と考えていたと萱野さんはいいます。そのサケを自分たちに必要な分だけをとっていた少年時代の萱野さん一家に、悲しい思い出があります。和人が一方的に漁業権を取り決めた法律を盾に、萱野さんの父が密漁のかどで検挙されたのです。長いサーベル(刀)を下げた巡査に連行されて行く父。その後ろ姿を必死に追う少年、それを引き止めようとする近所のおとなたち。そのだれの目にも、大粒の悔し涙がとめどなく流れていました。

神と自然と人間の信頼で共存を望む

アイヌ民族は、目に見える山や川、鳥や獣などの森羅万象、自分たちの心のなかに存在する神、そしてアイヌ(人間)の3者が平等の権利を持ち、相互信頼につながる心を持つことこそ共存共栄のケだとする、ひとつの思想を持っていました。

だから、和人に対しても「シサムウタラ」(私のそばにいる仲間)と、親愛の情をこめて呼んでいたのです。

民族の精神と文化を絶やさないために言葉を守りぬく

萱野さんがよく引用する言葉に、本多勝一さん(著述家)の「民族と文化」という一文があります。

イメージ((左)アイヌ問題に取り組み、協力するために全国から集まった人たちの前で民族の踊りを披露)
(左)アイヌ問題に取り組み、協力するために全国から集まった人たちの前で民族の踊りを披露

「民族の存亡にかかわるような重大な核となっているのはなんだろうか。それを奪われることが最も致命的打撃となる文化とは?それは(中略)ある民族から固有の言葉が失われるとき、その民族文化は最も重大な危機を迎える。反対に、極端な場合には人種的特徴が変わってしまっても、言葉があるかぎり民族文化は滅びないだろう」

萱野さんは身をもって誇りある同胞の精神と文化を守る礎石となろうとしています。「多くの同胞がそれぞれの立場から立ちあがっていますよ。しかし、それには和人の支援も必要なのです」

二風谷には、和人側から礎石のひとつになろうとしている米田さん夫妻もいます。アイヌ人自身はもとより、米田さんたちのような和人のよき協力者にも「自分の目指しているものをどう引き継いでいくか」それが、萱野さんの今後の課題だということです。

少数民族の言葉と生活を大切にする国は心が豊かです

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北海道ウタリ協会理事長 野村義一

アイヌ語を正しく継承していこうと私塾を持って活動しているのは、いまのところ萱野さんだけですね。その意味からも、たいへん貴重なことだと思っています。しかし、いつまでもひとりの努力に依存していてはならない。いま、私たち北海道ウタリ協会が提唱している「アイヌ新法」(正式名・アイヌ民族に関する法律)が実現した時点では、このアイヌ語塾を拡大していかなければならないと考えています。

アイヌ語は、アイヌ民族の存在を立証するものとして、私たちの運動のなかでも切り離しては考えられないものです。たしかに、アイヌ仲間のあいだでもアイヌ語で話し合われることはなくなっていますし、日常語にしなければならないと迫る場面もなくなっています。しかし、言葉と文化の継承はアイヌの存在をさらに認めさせていくうえで基本としなければならないものだと思っています。

数年前、私がアラスカを視察したとき、そこの州政府が学校教育のなかで、わずか何%かの原住民の子どもたちに、その民族の言葉を教えていました。子どもたちは友達とは英語で、家庭に帰ってからは両親と自分たちの民族の言葉で話し合っているのです。そうしたことが教育行政のなかで確立しているのを見て、うらやましく思ったものです。

もうひとつ感銘したのは、1984年(昭和59)にフィンランドに行ったときのことです。

フィンランドの国営放送局が、ある時間帯になるとラップ語で放送する番組をくんでいるのです。これなども原住民に対する配慮のあらわれだろうと思いますし、政府の民族に対する政策も立派だと感じたものです。

こうしたことで思うのは、北海道もアイヌ対策やアイヌ語の保存などを、地域の問題として考えていく責任があるのではないかということです。

だれでも、自分の民族の言葉で話しができることはうれしいことです。自分の民族の言葉で語り、自分たちの文化を誇りに思うことは大切ですが、アイヌ民族にとっては、いまはそれができない状況にあります。アイヌ語がしぜんに語られ、それをしぜんに聞くことができるようになるためには、やはり社会環境を直していかなければなりません。

アイヌ語というのは私たちの先祖が学問的につくりだしたものではなく、自然との生活のなかで生みだしたものです。単なる文字の羅列によるのではなく、自然に対応しながら自然の形なり心なりが的確に表現されている言葉です。だから、みんな対等、みんな生きものという認識に基づく、民族の心が言葉の中に息づいています。現代人からみれば、資源が豊富でおおらかな時代だからそんな認識が持てたのであって、生存競争の激しい現代には通用しない感覚だというかもしれません。しかし、乱開発が進む世相だからこそ目先の判断だけで対応を急ぐのではなく、私たちの祖先の、自然を大切にした生活のあり方を教訓とし、それを前提にしながら時代の移り変わりに対処していかなければならないと思っています。

萱野茂(かやのしげる)さんの略歴

イメージ(「土器は捨てられても土の中に残るが、言葉は自分たちが守っていかなければ消滅してしまう」と語る萱野さん)
「土器は捨てられても土の中に残るが、言葉は自分たちが守っていかなければ消滅してしまう」と語る萱野さん

1926年(大正15)平取町二風谷生まれ。明治初年に新政府によってアイヌ人の戸籍編入が行なわれ、父の代まではアイヌ名と和名の両方を有していたが、萱野さんは和名だけで命名された。青年時代からの造材、木彫業を経て、現在は二風谷アイヌ文化資料館館長と著述に専念。1953年(昭和28)ごろからアイヌ文化の保存・伝承につとめ、自費でアイヌ民具など二風谷アイヌ文化資料館開設の基礎をつくり、現在に至る。1975年(昭和50)にアイヌの昔話「ウェペケレ集大成」で道内初の菊池寛賞、1978年(昭和53)道文化奨励賞を受け、著書多数。道文化財保護協会会員、平取町議会議員。

アイヌ民族
かつて北海道を中心に本州北部、サハリン南部、千島列島を本拠にしていた民族。毛髪が濃く、眼に特徴があって、モンゴリアンと著しく異なっており、何系の人種に属すかは論争の種となっていますが、言語、風俗、習慣が共通し、周囲の民族と著しく違って、一民族を形成しています。
現在の人口は道内で約2万5千人とされていますが、その先祖が北海道に定着したのは擦文土器時代(8~13世紀)で、独特の文化を育ててきました。北海道の広大な自然の中で漁猟採取生活を営み、特殊な漁猟法、特殊な信仰、ユ-カラをはじめ多くの伝承、儀礼など農業民族とは異なる文化を保存しています。
近隣諸民族の言葉と大きく違うアイヌ語にも北海道、樺太、千島の3大方言がありますが、完全に話せ、理解できる人はすでに十指に満たないといわれています。文字を持たなかったため、現在はローマ字やカタカナで表記することが多い。

二風谷アイヌ文化資料館
萱野茂さんが収集した民具を中心に、北海道ウタリ協会の手で1971年(昭和46)に開設。狩猟、農耕、信仰、日用品などの民具約3百種3千点を収蔵しており、アイヌ民具の収蔵種類は最大。現在は平取町に移管されています。年中開館。

アイヌ新法
北海道ウタリ協会が国に提唱している「アイヌ民俗に関する法律」のことで
(1)基本的人権の確立
(2)参政権の確保
(3)教育・文化の振興
(4)農林漁業、商工業の振興
(5)季節労務者対策
(6)自立化基金の造成
(7)国・道にアイヌ問題審議機関の設置
などを掲げ、差別の撤廃と経済力の向上を目的に、制定の早期実現を要求しています。

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