古い写真が出てきた。鵡川(むかわ)にかけられた原始的な長い吊り橋で、古くなって傾き、50センチほどの板が敷いてあるのだが、ひとりの中年男が片手で川に渡した針金をつかみ、もう一方の手で橋板を押さえてはいながら、そろそろと前進している。吊り橋は多少揺れているが、あまりよい図ではない。若い娘が農具を肩にさらさらと渡って行った姿とあまりに対照的である。
30年ほど前、ある調査に同僚と占冠村ニニウに行ったときのことである。
根室本線金山駅で下車、バスで七曲りの金山峠をこえて役場のある占冠中央に着く。ここで1泊して、こんどは鬼峠の難所を歩いてニニウにたどり着く。ニニウは樹木の多い地の意味のアイヌ語である。学校名には、新入、ほかに仁々宇、仁丹羽、丹生などの漢字も当てられる。北海道の地名のめんどうな点だ。
鬼峠を越える山道は、名にふさわしく自動車や馬車は通れない荒道だ。役場にヒグマの剥製(はくせい)が飾られていたが、われわれも熊笛を持ち、脚半(きゃはん)、地下足袋(じかたび)姿でリュックを背負って出かけたのである。道は大雨で掘り流された割れ目が少なくない。途中で会ったニニウの男は生きた豚を肩車に、こともなげに歩いて行ったが、われわれは草つるに頼りながらの旅だ。
鬼峠を過ぎて坂を下るとニニウの入口で、そこから約4キロにわたる鵡川流域に20戸の集落が点在する。旧駅逓に泊ったが、その夜お祝い事があってわれわれも招かれ、ランプの下、ショウチュウで部落の人びとと話し合いをした。
占冠村や日高町は日高山脈山林の中だ。日露戦争ころから銃床材用クルミ、またマッチ軸木、鉄道枕木の需要で人びとの入地が盛んになった。とくに王子苫小牧製紙工場のパルプ大供給地になり、農閑期の冬山造材が農家の副業になった。鵡川に流送するのは内地の専門家だが、それまでの伐採、バチ馬搬(ばはん)が農民の仕事になる。興味深いのは、マサカリ立て、山神様、馬頭観音、切り上げの神事的慣習行事で、どこでも造材労働にみられた。それから間もなくチェンソーにトラック輸送、夏山造材も行なわれるようになって、古い日本的慣習は姿を消した。当時、われわれもニニウの山中の木に小さな神棚をみた。
ニニウの地下資源は豊富で、交通輸送の便ができれば発展の可能性は大きいといわれていた。いま、そのニニウを石勝線が開通した。しかし、30年前の農民はみな離散してしまったという。
世の発展とへき地自然の変遷は、はげしすぎるようだ。