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1987年03月号/第19号  [特集]    積丹(しゃこたん)町 美国(びくに)

北の海に生きた男衆の心意気と苦労が素朴に勇壮に歌い継がれる民謡
鰊場音頭 積丹町美国

  江差追分と双壁をなす北海道の代表的な民謡ソーラン節は、ニシン漁の全盛期に漁業者たちによって歌われた勇壮な労働歌『沖揚げ音頭』または『鰊場音頭』の一節です。北辺の地に春を告げ、北海道開拓の経済基盤を支えたニシンはすでに幻の魚となりましたが、かつて千石場所として栄え、この民謡のふるさとのひとつである積丹町美国を訪ねると、歌い継がれる節々に漁業者魂が切々とよみがえり、今なお北の海に生きる人の心意気が、この浜に脈打っているのを感じさせられます。

日本海にせり出した北海道積丹半島の突端に位置する積丹町は、2つの漁業協同組合と7つの漁港を持つ漁業の町。現在、200隻の動力船と500隻の船外機をつけた漁船が、通年操業のホッケ、カレイ、ヒラメのほか春は日本海マス、夏はウニ、イカ、そして冬はタラ、スケソウダラの刺し網漁で年間約7千トン、27億円の水揚げをして町の経済を支えています。

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ことに、漁獲量の60%を占めるのが11月から2月いっぱい続くスケソウ漁。この日も、積丹半島東海岸の中央部に位置する美国漁港の岸壁には、日本海から粉雪まじりに吹きつける季節風もいとわず、船底から陸揚げされたばかりのスケソウが所狭しと積み上げられていました。漁船のディーゼルエンジンがうなり、ゴメの群れが鳴き騒ぐなかで、分厚いヤッケに身を固めた数十人の男女が雪の岸壁にドッカと腰をおろして、網はずしに精をだしています。日焼け雪焼けに染まり、浜風に磨きあげられた顔から時折白い歯がこぼれ、好漁の喜びや冗談まじりの世間話にドッと笑いの起こる一団もあります。

「魚が少なくなって一攫千金の夢は消えたども、1年じゅう安定した漁があっから、まあ、なんとか食ってけるのさ」とは、ある漁労長の言葉。

かつて、この浜がニシンの千石場所として栄え、町じゅう総出の漁労に沸きだった時代には遠く及ばないにしても、もしかして塩辛声(しおからごえ)の「鰊場音頭」の一節なりとも聞こえはしないかと、耳をそばだてたくなる光景です。それというのも、東北、新潟各地からニシン漁に従事するために渡ってきて北海道の経済を支え、道民の精神文化にも多くの影響をもたらしたヤン衆の心意気が伝わるソーラン節のふるさとのひとつが、この浜だとされているからです。

「ニシンは魚にあらず」と米と同等の貴重な扱い

1909年(明治42)に美国に生まれ、のちに郵便局長としてニシン漁の盛衰を見てきた河崎勇さん(積丹町文化財保護審議会会長)は、積丹町が干石場所だった往時を今なお懐かしんでいます。

漁獲高千石といえば750トン。1シーズン2ヵ月間に定置網1ヵ統(カド=個人の漁場)で750トン、当時の三半(さんぱ)船(起こし船)で100隻分の水揚げをするのです。

1ヵ統に働く漁夫は30人前後、なかには13ヵ統も経営する大網元もいました。

「昔はニシンのことを“魚にあらず”とだいじにしていました。米を収穫できない松前藩では、ニシンを米に代えて禄高にしていたんですね。だから「鯡」という字をニシンと読ませていました」と河崎さん。松前藩が場所請負制度を設けて、積丹・美国地方に知行場所を置いたのは1599年(慶長4)とされますが、まだまだ辺境の地。特に1691年(元禄4)に松前藩が積丹半島の突端、神威(かむい)岬から北へ婦女子の通行を禁じたために定住者は少なく、同時に現在の熊石町以北への“追いニシン”を禁じたことから、ニシンを中心とした交易が活発になるのは場所請負制度が確立し、運上屋(藩主・知行主の交易所)が設置された1706年(宝永3)以降に待たなければなりません。
 江差の5月は江戸にもないと
  誇るニシンの春の海
と歌われた近場所の漁況が薄れ始めると、この地域への出稼ぎ漁業者の数は増し、主漁場は積丹半島に移ってきます。

1855年(安政2)に神威岬以北の女人禁制が解かれ、その翌年に美国の隣村、群来(くき)村(古平場所)の秋元金四郎が木枠に袋網を取り付けた枠網を発明します。さらに、美国の白岩八右衛門や工藤半助らによって改良が加えられたものを積丹場所の網元・斉藤彦三郎がとり入れ、大規模な操業をするようになってからは漁獲量も増大し、ヤン衆などの漁業従事者はもとより、家族連れの定住者も大幅に増えてきます。

ソーラン節はストーリーを持つ合唱組曲の一つ

イメージ(ニシンに変わって今はスケソウの山が岸壁を埋め尽くし、寒風の中でも網はずしに忙殺されています)
ニシンに変わって今はスケソウの山が岸壁を埋め尽くし、寒風の中でも網はずしに忙殺されています

江差追分と並んで北海道を代表する民謡ソーラン節は、ニシン漁のなかで発祥し、普及してきました。ことに枠網による漁法がとり入れられてからは、1ヵ統の働き手も30人前後と大世帯になります。船の上で屈強な男衆たちの士気を高め、統率するために歌われたのが鰊場音頭です。ストーリー性のある4つの歌で構成され、のどに自慢の船頭の歌にあわせて下声が囃子(はやし)を入れる勇壮な合唱組曲です。
船漕ぎ音頭 ニシン漁は、波止場から網の建て場まで三半船で出漁します。
 オースコー オーラオー
 オコイヨー ホーラーオー
などの掛け声とともに
 そろったも、そろった
 若い衆がそろった
と歌いながら摺(かい)を漕いでゆくのです。これには普通の速度で漕ぐとき、急ぐとき、ゆっくり漕ぐとき、後ろ向きに船を進めるときなど、それぞれに別歌があります。
網起こし音頭 ニシンが網にのりだしてから枠綱に落とし込むまでの、もっとも気合いの入った作業歌です。船頭以下、乗組員全員が心をひとつにしての力仕事であり、
 あらドッコイショ
 あらドッコイまでとは ドッコイショ
 田舎の角力(すもう)だよ ドッコイショ
と力んだあとは、木遣歌(きやりうた)にかわり
ホーラーエー
これでも起きねばヤーエー
ホーラー神々頼む
と、やはり最後は“神だのみ”です。
沖揚げ音頭 これがソーラン節として全国的に知られるもの。網起こしによって枠網に積み込まれたニシンを陸揚げするため汲み船を横づけにして、タモ網で汲み揚げるときの歌。歌いやすい旋律と景気のよさで、宴会の席でも広く親しまれています。
子たたき音頭 陸揚げを終えた枠網には、たくさんの数の子が付着しています。それを根曲がり竹などでたたき落とすときに歌われるもので「イヤサカ音頭」ともいいます。この作業は陸(おか)まわりの男衆と女子労働者が一緒になって豊漁を喜び、次の出漁への期待を込めて歌われるだけに、沖揚げ音頭とともに歌詞も多く、さまざまな思いを面白おかしく歌い合います。

不眠不休の疲れを吹き飛ばす当意即妙な歌詞が無数に

イメージ(山は廃屋となっているが、豪壮な往事のおもかげを残すニシン御殿)
山は廃屋となっているが、豪壮な往事のおもかげを残すニシン御殿

ニシンが群来(くき)ると海は盛り上がり、産卵のために一面乳白色に変わります。漁場はさながら戦場。真夜中に三半船を漕ぎだして、建て場に着くももどかしく網起こしが始まります。保津船(枠船)の到着を待って沖揚げ作業。大漁のときには、2日3日も不眠不休で沖どまりの作業が続きます。

くたくたに疲れ果てたからだにムチ打つように、即興で歌う船頭の美声が波間に響きます。船の上は男の世界。陸では聞かせられないような卑猥(ひわい)な文句に眠気を覚まされ、ドッと笑いがおこる。すると、タモを持つ手に再び生気がみなぎるのです。

ソーラン節の歌詞を収集している高田裕さん(札幌市在住、北海道みんぞく研究会会員)は、340の歌詞を収録した新書を出版していますが「少なくても五百数十句は数えられる」といいます。

「半分は海の男の心意気と豊漁祈願、家族やなじみの異性に対する思慕。残り半分は野卑わいせつな文句だけれども、七七七五の26文字は当意即妙に人間性と抵抗の精神を虚飾なく歌い込んでいるのです」と、この歌にほれ込んでいます。
 男度胸なら5尺のからだ
  ドンと乗り出せ波の上
 大漁手拭いきりりと締めて
  一夜千両の網起こし
豪気な海の男たちの心意気がほとばしるこんな歌詞は枚挙にいとまがありません。

数々のドラマを残して消えた500年の夢

920年(大正9)の美国町の人口は830戸、5千9百人。そこへ2千人以上のヤン衆が渡って来て、にわかに町はふくれあがります。その漁夫を収容する宿舎が“番屋”で、3月上旬から4月末まで過酷な労働に明け暮れるのです。彼らの賃金は、米1俵(60キロ)14円50銭の時代に75円だったといいます。

その年、この浜は歴史的な大豊漁に見舞われました。積丹地方だけで12万8千石、後志全体で52万2千石を揚げ、全道の53%を占めるほどでした。「まだ子どもでしたが、私もウロコまみれになって手伝いましたよ。武家社会の時代だって、いったんニシンが取れたとなると、身分の隔てなく浜に出て作業を手伝ったということです」と河崎さん。

1ヵ統の諸経費は約3千円。網元の利益は2万円から5万円にのぼり、こんなときには漁夫たちにも“九一金”といって、漁獲高の10%をボーナスとして支給されるのが常でした。戦後まもなくの豊漁の年には、この小さな漁村に2週間で揚げた3億円の金があったという話が残っています。

郵便局長時代の河崎さんは、東北なまりでカタカナ書きした愛妻あての電報を取り次いだことがあるといいます。それは「シケ続きで大勢の人が死んだ。ほんとうに恐ろしいことだ。その後はナギ続きで網の修理をする暇もないほどニシンが取れた。九一金もたくさんもらえるだろうから、シラミのたかった儒絆(じゅばん)は焼き捨てて、帰りを待っていてくれ」という意味のものでした。

贅(ぜい)を尽くしてニシン御殿を建て、豪勢を極めた網元の暮らしに比べて、過酷なヤン衆の仕事ぶりを河崎さんは語ります。

「彼らが3月上旬に渡って来て番屋に落ち着くと、まず除雪をして船おろしや漁場の整備をするんです。粕たきに使う薪(まき)やマッケ(いかり)にする玉石を集める山仕事もあります。いよいよ網建て。そして、ニシンが群来た時の網起こしは、魚の大群と人間の壮烈な格闘ですよ。陸でも保津船で運ばれて来たニシンを出面取り(日雇い労働者)の女や教師も坊さんも一緒に木のモッコで廊下(納屋)へ何度も列をつくってかつぎ込む。ミガキニシンを作るためのニシンつぶしも冷たい土間に座ったまま、みんな不眠不休の作業が続くんです。彼らの慰めは、漁期が終わったときにもらうまとまった金と、毎日たらふく食べれる白米の食事だったんでしょうね」

美国一帯のニシン漁の黄金時代は1900~29年代(明治30~昭和4)まで。1930年(昭和5)は前年まで5万石は取れていたニシンが、たった2石しか取れない大凶漁でした。以後、年々ジリ貧を続け、1954年(昭和29)を最後に、この浜はもちろん、500年にわたって殷賑(いんしん)を極め、数々の文化とドラマを残した北海道のニシン漁は完全に終息を遂げるのです。

正調の作業歌を郷土芸能として町ぐるみで保存

イメージ(海の男の心意気を歌う鰊場音頭は、かつての勇壮な作業かそのままに保存されています)
海の男の心意気を歌う鰊場音頭は、かつての勇壮な作業かそのままに保存されています

河崎さんら有志によって、漁業者に歌い継がれてきた鰊場音頭を保存しようという呼びかけを起こしたのは、ニシン漁が名残りの灯を消しかけていた1951年(昭和26)の秋のことです。

「この町は、そんな重労働に耐えたニシン漁業者によって支えられてきたんです。まさか、あんなに急にニシンが消えてしまうとは思いませんでしたが、お座敷歌化していくソーラン節を、漁師の苦労も喜びも歌い込んだほんとうの作業歌として永久に残しておきたかったのです」という熱意が実って、翌52年(昭和27)、美国町に観光協会が設置されたのを契機に美国鰊場音頭保存会が発足しました。その後、56年(昭和31)に町村合併によって積丹町となり、会の名も積丹鰊場音頭保存会と改称してこんにちに至っています。

ニシン漁は消滅し、漁法も機械化がどんどん進んで、今では作業歌を歌っての漁労はまったく姿を消しましたが、かつての勇壮な海の作業歌は郷土芸能として日本海の潮騒のとどろく浜によみがえりました。保存会が生まれて30余年、全国の各種行事やテレビ・ラジオヘの出演回数も300回を超えています。

「昔も今も、漁師根性は同じなのさ。苦労も多かったが、いい時代だった。歌うたんびに力がこもって、一節一節、やっぱり血が騒くって感じだね。この気持ちを、いつまでも残さなきゃならんのさ」1979年(昭和54)には美国小学校に郷土芸能愛好会が発足。その後「美国子供鰊場音頭愛好会」となり、父母会(下間邦夫会長)もできました。小学4年以上の男女約50人の会員が踊りともども鰊場音頭の正しい歌い方と、ニシン漁の作業手順や当時の町の様子を教えてもらいながら、文化の伝統を受け継ぐことの大切さを学んでいます。練習は月2回、冬休みには宿泊研修もあって、その成果は毎年学芸会に発表します。

こうした保存会は、江差町や余市町をはじめ全道に十数カ所もあります。節回しに微妙な違いがあり、それを大切に守り抜こうとそれぞれに活動を続けています。

幻の魚への郷愁は海の男のロマン

いま日本海沿岸の漁業者は、資源減少のなかで、小規模ながらも堅実な経営でしたたかに生き続けています。保存会の現会長である須田嘉彦さんもかつての網元でしたが、前浜での刺し網漁でスケソウやホッケなどを取っています。その網の中に、近年は5、6尾のニシンがかかるといいます。「たしかに幻の魚だけど、二度と回遊して来ないとは断言できないさネ」と笑いながらも、納屋の奥には定置網もタモ網も残してあり、ニシンの来遊があればいつでも出漁できる用意はあるとのことです。

美国の町ですし店を経営している河岸武さんはいいます。

「口に出せば笑われるから言わないけれど、みんな“ひと起こし千両”の夢は持ち続けてるのさ。それが、海に生きる漁師のロマンなのよ」。

積丹町

イメージ(ニシン ニシン目ニシン化 春告魚(はるつげうお)とも呼ばれ、3月上旬から4月に北日本の近海に産卵のため大群をなして回遊していました。体長は4年魚で約30センチ。)
ニシン ニシン目ニシン化 春告魚(はるつげうお)とも呼ばれ、3月上旬から4月に北日本の近海に産卵のため大群をなして回遊していました。体長は4年魚で約30センチ。

北海道積丹半島の突端に位置し、美国町と余別、入舸(いりか)両村が合併した人口1533世帯4558人(87年2月末現在)の町。14世紀にはアイヌ人がコタンを形成していましたが、和人には長く女人禁制の地とされていました。町名のシャコタンはアイヌ語のシャク(夏)コタン(集落)によるもので、水産資源が豊富なうえ、積丹岳に連なる丘陵地にはシカなどの獲物も多いことから、アイヌ人はそう名づけていたものと思われます。町内42キロに及ぶ海岸線には、神威岬、積丹岬、黄金岬のほか神威岩、立岩、夫婦岩、女郎子(めのこ)岩など無数の奇岩、怪岩に恵まれた景勝の地。岬の先は本道唯一の海底公園に指定され、海底探勝船や高速遊覧船で透明度の高い海の景観を楽しむことのできる観光の町でもあります。

鰊場音頭
原曲は青森県野辺地町の荷揚げ音頭とするのが有力な説。秋田地方のハタハタ漁で歌われた沖揚げ音頭にも似ているといわれます。それらが各地に渡って来たヤン衆たちによって、少しずつ変化しながら全道的に歌われたものとされています。
 夢の積丹美国の浜は
  ぬしに見せたいものばかり
 ヤン衆かわいやソーラン節で
  ちょっと飲ませりゃまた稼ぐ
 今宵一夜は緞子(どんす)の枕
  明日は出船の波枕
 思い思われ奥場所暮らし
  ニシン殺しの共稼ぎ
 めんこい娘だ出船の時は
  いつも浜辺でじっと見る
 波は磯辺に寄せては返す
  なぜに返らぬひと昔

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