稚内港から西へ約59キロ、最短距離の北海道本島抜海(ばっかい)岬からも50キロ離れた礼文島は、現在、無人島を除くわが国最北の島と呼ばれています。
緯度は、島の最北端スコトン岬で北緯45度30分。その先トド島の北の種島でも北緯45度30分14秒で、「日本最北端の地の碑」のある宗谷岬の北緯45度31分13秒には及ばないことになります。しかし、東シナ海、沖縄方面から北上して来る対島暖流の終点であり、冷たいリマン海流とぶつかる荒波の上を、左舷に利尻山の秀峰を見ながら稚内港をたって2時間半もフェリーにゆられて来ると、アイヌが「レブンシリ」(沖の島)と名づけたとおり、日本列島の北の端までやって来たという感じを強くします。
南北22キロ、東西6キロ、面積は82平方キロで、兄弟島のような利尻島の半分にも満たない島内には、約1千7百世帯、5千7百人ほどの人が住み、その8割が漁業を中心に暮らしています。港は南の香深(かぶか)、北の船泊にあってともにフェリーが発着し、船泊には礼文空港もあって、年間延べ約50万人がこの島を往き来しています。島の年配者は「飛行機なら稚内へは20分、稚内から札幌へも1時間で行けるから、昔のような孤島のイメージはない」と、便利になったことをよろこんでいます。
しかし、利尻島はコニーデ型の火山である利尻山(標高1,719メートル)が裾野をひいて海岸線を一周する道路が開けているのに、礼文島は中央に標高490メートルの礼文岳があるだけの平坦な島でありながら、西海岸に傾斜の険しい断崖絶壁がつづいているため、交通路は東側半分しか開かれていません。それだけに、全島いたるところに高山性のかれんな花が季節を追って咲き競い“花の浮島”の美称が偽りでないことに感嘆させられます。
では、この島が太古からの自然をそのままに残しているかといえば、決してそうではないのです。
島でまず気づくのは、木が少ないこと。和人が本格的に島にやって来た明治期後半に、2度にわたる山火事が発生して多くの樹木を焼き尽くし、さらにニシン漁たけなわの時代にはニシン粕(かす)をたいたり、暖房用のマキにと乱伐がつづき、現在は香深、春深井と宇遠内(ウエンナイ)付近にトドマツ、ダケカンバ、ナガハヤナギがわずかに林をなしているに過ぎません。あとの大部分はササやぶやハイマツの生い茂る荒地と草地で、いつも数メートル以上の強い「やませ」(東寄りの風)が晴れ間を減らし、夏でもいっこうに気温の上昇しない日が多いのです。
じつは、こうした緯度と地形と気象条件が、礼文を“花の浮島”にしているのです。海岸線から十数メートル、標高5メートルくらいの地点にも大雪山では標高1500メートル以上でなければ見られないような高山性の花が200種以上も生育しているのは、わが国ではこの島だけです。
礼文島固有の花として『礼文町史』に記載されているはレブンソウ、レブンアナマスミレ、レブンアツモリソウの3種ですが、さらに町の花レブンウスユキソウ、レブンフタナミソウ、レブンコザクラ、カラフトシノブも島の人たちは固有種に加えています。そのほか、礼文の名を冠する花にレブンサイコ、レブンサクラソウモドキ、レブントウヒレン、レブンスゲ、レプンシオガマ、レブンキンバイソウ、レブンタカネツメクサ、レブンハナシノブなどがあり、学術的にも貴重な島として注目されています。
青年時代にカメラに凝り、産まれ育った礼文の花を撮りまくっているうちに、その美しさに魅せられ「花がかわいいばっかりに…」と、15年も前から自然保護監視員になって花を守りつづけている坂野広太さん(69)は、1年間の花の様子を次のように語ります。
雪が消えた4月下旬、島内ただ一つの低湿地・久種(くしゅ)湖畔のミズバショウが咲き終わる5月下旬になると、レブンコザクラがピンクの小花を1本の茎に群生させて、花の季節の到来を告げます。それにやや遅れて鉄府(てつぷ)の保護区ではレブンアツモリソウが花を開き始めます。
6月上旬になるとミヤマオダマキが首を伸ばし、シラケギクバクワガタがれき地をはって、それぞれ紫の花を咲かせます。中旬から下旬ヘ春型の花盛り。レブンハナシノブ、チシマフウロも紫の花。サクラソウモドキ、ハクサンチドリ、ヨツバシオガマは紅色の花。レブンキンバイソウ、チシマキンレイカ、センダイハギは黄色と、まさに5色の花々が乱れ咲き、島の人たちは第3日曜日に花まつりを繰り広げるのです。
6月末ごろにわずかな交代期があり、7月になるとエーデルワイスの亜種レブンウスユキソウがぬくぬくと綿毛につつまれた苞葉(ほうよう)(花の下につく葉)を開きます。マメ科のレブンソウ、チシマゲンゲもこの時期の花。エゾツツジ、レブンタカネツメクサが盛りを過ぎた8月中旬になると島は秋の気配をみせ、チシマリンドウやミヤマリンドウが9月上旬まで咲いて、花の季節を終わるのです。
どの種類も、花期はせいぜい20日くらい。それでも「高山植物は厳しい環境に耐えるために互いに協力しあって咲いている」と、田上義也さん(建築家)が以前どこかで話していたように、いくつかの花が同じ場所に住み分けしていて、一つの花が散るのを待って、次の花が開花の準備をしているのがわかります。
こんな花たちの中で、特に大切にされているのがレブンアツモリソウです。
源平一の谷の戦で、源義経の部下熊谷直実(くまがいなおざね)に首をうたせた平家の若武者・平敦盛(あつもり)が、鶴の刺繍(ししゅう)をした鎧直垂(よろいひたたれ)、萌黄匂(もよぎにおい)の鎖とともに着用していた母衣(ほろ)に見たてた花がラン科のアツモリソウで、これは北海道や本州の山地にも生育しています。
母衣とは流れ矢を防ぐために鎧の背につけ、ヒダ状に長くなびかせた絹布のことで、花の色が淡い紅または紅紫なのを敦盛の母衣にたとえ、熊谷直実が着用していた母衣に似た淡い白色に紅紫の脈があるのをクマガイソウ(ホテイアツモリソウ)と呼び、レブンアツモリはそれらと同じグループです。丈は20~30センチとやや低く、径が5センチほどもある卵型の花はクリーム色なのが特徴で、世界でもこの島にしか自生しないとされる貴重な花です。谷口弘一(ひろかず)教授(北海道教育大学付属教育工学センター)の話では、北海道大学の工藤祐舜(ゆうしゅん)教授が1925年(大正14)初めて発表し、戦前までは桃岩、元地、船泊まで広く分布していたとのこと。しかし、1950年代になってからは道路開発や旅行者が手土産に持ち帰るようになって急激に減少し、桃岩や元地地区からはほとんど姿を消してしまいました。
そんななかで、1975年ごろから船泊にかなりの数のレブンアツモリソウが開花しました。谷口教授によると、
「1980年と81年に調査したときは、一面、真っ白なくらいに観察されたのです。ところが、その年、一夜にして大株のほとんどが盗掘に遭った」というのです。
1983年(昭和58)には約400株が、85年(昭和60)には100株、そして今年6月に200株余りが盗掘されています。
坂野さんの話によると「採掘する者と運び屋がグループを組んでいるに違いない。これだけの数を、1台や2台の乗用車で運べるはずはないし、島から船で運び出すのだって素人にはできない」とプロの盗掘組織の存在を断言します。近年はラン・ブームに乗って、企業の組織培養などによるラン栽培の研究開発が盛んです。また個人の園芸マニアにも好まれて“レブンアツモリ市場”がヤミで存在し、1株3万円とも4万円ともいう相場で売買されているという話は島のだれもが知っています。現に数年前、坂野さんは栃木県のある都市で“礼文直移入のアツモリソウ”といって、1株1万6千円で取引されていたのを見ています。
「一方で身の危険すら感じながら寝ずの番をしているのに、一方で盗品のヤミ取引がおこなわれているなんて」と、坂野さんは苦々しく語ります。
1983年(昭和58)のことです。谷口教授は道内の植物学者らに呼びかけて本格的な分布調査をするとともに、町や民間企業と協力して群生地の周囲約1キロに有刺鉄線のサクを張りめぐらせました。
翌84年には、町が特別天然記念物に指定するとともに監視員も増強して、現在も目を光らせています。
サクの中には遊歩道をつけて旅行者も通れるようにしていますが、ものものしいバラ線の中で自然の花を眺めることのむなしさは隠せません。しかし、それが効を奏して昨年は盗掘されずにすみ、株の数も以前の2倍の4千株を確認するまでに増えていました。しかし、そのよろこびも束の間、また今年、盗掘の被害に遭ったのです。レブンアツモリソウの種子は粉のような粒で、着床のメカニズムはいまだに解明できないほど微妙です。だから盗んで行っても、翌年以降平地で花を咲かせることはほとんどできません。坂野さんは、「高山植物を自分の庭先に植えて眺めようなんてばかなことを考えるのは、ほんとうに花を愛する人のすることじゃない」と語る一方、仮に島以外で見つけても現行犯以外はなかなか盗品だと特定できず、いまもって盗掘ルートが解明できないのを残念がっています。
植物は、固体数が1万株以下になったら絶滅の危機だといいます。レブンアツモリソウは一時2千株を割り込んだときがあり、いまは増えてきたといっても限界を大きく下回る数なのは確かです。坂野さんの観察によると、バラ科のチョウノスケソウも、日本アルプスの標高2500メートルの高地と礼文にだけ咲くウルップソウ(ゴマノハグサ科)も見当たらなくなり、レブンフタナミソウは100株あるかどうかだといいます。
礼文の花たちは、あるいは5千万年も前にシベリア方面で発達し、何回かの氷河のたびに南下して来て、やがてこの島に適応しながら永々と種を保ってきました。その花をいま、目の前で絶滅させてしまうようなことだけは、なんとしても防がなければなりません。谷口教授らの研究グループは3年ほど前からレブンアツモリソウの人工受粉に成功しています。これは、ほかの植物は茎頂点栽培もできるのに、レブンアツモリソウはそれが無理だからからです。
一方、その難問にチャレンジしているのが礼文町です。昨年、高山植物培養センターを建設して無菌栽培に取り組み、40種近い花の培養に成功していますが、レブンアツモリだけは五里霧中とのこと。それでも、やがてはセンター前に植物園を造成して、礼文の花々が1ヵ所で見れるようにするという計画です。
文明がますます発達する人間社会にとって、自然保護は永遠のテーマです。その思想は、特に次代を担うものにしっかりと学ばせなければならないのに、現在の教育では高校、大学で教育されることはほとんどなく過ぎていきます。
谷口教授は学生や社会教育関係者のグループ『北海道野の花を考える会』で活動する一方、小学生のうちからフィールドワークや写真撮影、スケッチなども取り入れた自然観察をカリキュラムに組み込み、地学や気象学も含めた生態系の学習の中で、自然の美しさや大切さとともに、人間もその自然の中の一員であることを謙虚に自覚する心を教える運動をすすめています。
文化財でもある桃岩に登ってみると、ほんの数メートルの傾斜を隔てて花の植生が違っています。坂野さんはそれを示しながら語るのです。
「花は身のほどを知っていて、この厳しい環境を自分にもっとも適した場所として選んでいるんです。もし、ほんのちょっとでも山の向きを変えたとしたら、全部枯れてしまうだろうね」だから同じ生きもの同士として、花たちの生きる環境を壊さないようにしなければならないと言うのです。
「自然保護って、いったい何なんだろう。いままでは人間の都合からばかり考えてきたけど、人間も自然の一部だという身のほどをわきまえて、そのためにどんな生き方をすればよいかを考えるところから一人ひとりが答えをみつけだしていく必要があるね」という言葉は、谷口教授らの運動とも共通した響きを持って聞こえるのでした。
金環日食観測記念碑
敗戦国として世界から孤立していた1948年(昭和23)5月9日、いったんは闇(やみ)につつまれた地球が、金の指輪のように輝く太陽コロナに照し出されて再び光を取り戻した今世紀最大級の金環日食。当時、新しい日本の歴史的大事業として日米共同の科学者1,500人がこの島で観測して礼文島の名を世界に知らせたばかりでなく、国際国家再建の希望の灯をもとした記念の場所としての碑が立てられています。
桃岩の植物は天然記念物
香深港から西2キロにある標高250メートルの草原台地。桃の形に似た巨大な岩が乗っているのでこの名で呼ばれ、植物学上貴重なフィールドとして、一帯が1959年(昭和34)に道指定の天然記念物となりました。島内屈指の景勝の地で、晴れた日は南東に利尻富士、北西に元地海岸が見渡せ、猫岩付近で見る夕焼けは特に美しいとされています。
花の探勝コース
礼文島は西海岸が遊歩道しかなく、日帰りで1周することはできません。本格派の探勝にはスコトン岬からゴロタ岬、礼文の奥座敷・召国(めしくに)を経て西上泊(にしうえどまり)海岸をたどり、礼文林道と合流したあと元地海岸の地蔵岩まで34キロのロマンスコース(8時問)を。
4時間コースは
(1)スコトン岬から西上泊を経て浜中に戻る23キロのドラマチックコース
(2)桃岩展望台コース
(3)地蔵岩コース
(4)礼文林道コース
(5)礼文岳登山コース
(6)香深港から久種(くしゅ)湖までの東海岸コース
(7)金田ノ岬コース
などがあります。どこでどの花と出会うかは、自分の目で確かめるのがよいでしよう。
郷土資料館
旅先の土地を訪れたら、そこの歴史と人びとの暮らしを知ることが、印象をいっそう深めます。礼文の開村は1880年(明治13)で、107年を迎えていますが、松前藩の付属場所が開設されたのは317年前の1670年(貞亨2)、さらにさかのぼると船泊地区で数千年前の人骨が出土し、縄文中期から後期にかけての土器や石器も多数出土しています。また香深井地区ではオホーツク文化の集落が発見されており、この小さな島が原始時代から人と文化の交流が盛んであったことに驚かされます。館は礼文の自然・大昔の礼文・礼文町のあゆみ・礼文島の漁業・礼文島の海・伸びゆく礼文のコースに分けて紹介しています。月曜日・祝日の翌日ほか12月~4月末まで休館、入館料は一般200円、小中学生100円。