年配の映画ファンの方ならば、パリの下町の情熱を色濃くえがいた、マルセル・カルネ監督の「北ホテル」という映画があったことを思い出されるかもしれない。
パリ・サンマルタン運河に面した実在のホテル――というよりは木賃宿といったほうが適切だが――を舞台にした小説を映画化したもので、ジャン・ピエール・オーモン、アナ・ベラ、ルイ・ジューべといった俳優たちが顔をそろえた作品で、日本では戦後間もなく公開され、映画ファンのパリヘのあこがれを一層つのらせた。
そのホテルは、今もパリにある。壁に書かれたHotel du Nordという文字は半ば消えかかり、営業はもうしていないという噂だが、運河にかかる階段橋や旋回橋は映画のまま。ホテルの隣が空地なのも当時のままである。
サンマルタン運河は閘門(こうもん)式の狭い運河で、平たい貨物船が一方通行で航行していた。その水門がホテルの前にあり、船を通すために人道橋が階段式、すぐ脇の車道橋が手動の旋回式になっている。
映画ではその階段で若い2人が恋を語り、パリ祭の踊りの輪がホテルと運河にはさまれた路上に広がり、シャンソンの曲が流れる、といったものだったはずだ。
ところで、先日、盛岡へ行った。そこで偶然見つけたのが「北ホテル」という名のホテル。パリのそれとは比べるべくもないシャレた純白のホテルで、1階には南部鉄器の工芸店などもあり、名前も気にいって一泊することにした。入ってみると、タオルもマッチもスリッパも、みなHotel du Nordとフランス語、室内の絵もパリ風景である。翌日、キーを返しながらフロントに尋ねると「実はホテルの経営者が大のフランス映画ファンでして、旅館をホテルに改装する際に名前を変えました」という返事。やはりそうかとうれしくもあったが、実は札幌あたりに小さなホテルでも建つ際にぜひ使ってほしい名だなと考えていただけに、先を越されて、ちょっぴりくやしくもあった次第。