札幌開成高校演劇部―。
放課後の化学準備室は、「チタン」「バリウム」「プール」「ヘリウム」…、元素記号で呼びあう仲間たちが集まっています。
10月15日から4日間の日程で行なわれた高等学校文化連盟石狩支部高校演劇発表大会(地区大会)が終わり、20日、その反省会が行なわれているのです。
今年の地区大会の参加校は33。札幌静修高校『小さな楡の木』(全道大会では『わたしが一番きれいだったとき』に改題)、札幌藻岩高校『思い出を売る男』とともに、札幌開成高校『コスモス・ホテル』は、優秀校に選ばれました。
「本番はすんごいドキドキして血が体を騒いで(爆笑)。道大会までは自分の演技を広げていきたいです」(1年・今井寛君)
「チタンがセットに足をひっかけたのは、装置のせいです。本番ギリギリになって、あそこは通らないでくれと叫んでも、キャストはみんな緊張しているし、無理な話だと思います。あれは計画ミスでした。全道大会までは、足がひっかからないように改善したいと思います。もっと落ちついた舞台をつくりだせるよう、みんなで努力していきましょう」(2年・平体(ひらたい)留美さん)
「17年間生きてきて、これほどビビッた芝居はなかった。でも、終わって家に帰ったら、親がよかったよと言ってくれて、うれしかったです。他の人も信じなければいけないし、自分も信じなければいけない。みんな、信じあってがんばろう」(3年・鈴木学君)
「試験があって練習時間が少なかったこともあって、準備の不足が本番のミスになって出てきましたね。賞に関係なく、準備の過程を精いっぱい発揮できる芝居を、函館でぜひつくりあげようね」(顧問 小野昭紘教諭)
ときには笑い、ときには声を詰まらせて。個人のミスの反省だけでなく、それは役割の分析でもあり、チーム全体へのはげましと思いやりに満ちています。ゼロからみんなでつくりあげてきた、舞台づくりの困難さとだいご味を味わいつつある若者たち20人。顧問の本山節彌教諭(57)と小野昭紘教諭(45)を含め、新たなスタートに一丸となった22人の“友”の姿がそこにあります。
高等学校文化連盟(高文連)の演劇発表大会は、毎年10月の地区大会、11月の全道大会へと、大きな盛り上がりを見せます。今年の地区大会は、全道各12支部で合計127校が参加しました。支部で選ばれた優秀校が全道大会に出場し、さらに全道大会の最優秀校1校が、翌年8月の全国大会に出場するチャンスを手にするのです。
北海道の高校演劇は、全国に輝かしい歴史を誇ってきました。それら1つひとつの劇は、演劇部顧問の教師たちによるオリジナルの脚本から生まれた創作劇として異彩を放ち、「北海道に高校演劇あり」とうたわれてきたのです。その先駆者となったのが本山節彌さんです。1966年(昭和41)に啓北商業高校定時制の顧問時代に発表し、初めて日本一に輝いた『オホーツクのわらすっこ』、そして『閉山』。漁村、炭鉱を舞台に、地域の情況と高校生の進路への葛藤をからませた社会性のある作品を発表してきました。「だいたい、北海道の高校生に合った脚本がなかったのです。生徒が燃えて取り組めるいい脚本を提供したい、それが演劇部顧問の役割でもあったのです」と本山さんは当時をふり返ります。
そうした機運は他校にも広がり、生徒の視点から地域の問題を考える作品、北海道の歴史に取材した作品、リアリティーのある学園ものなどを、教師たちは次々と発表してきました。それは安保や学生運動を背景とし、社会的な問題に目覚めた生徒の疑問や悩みに、脚本を通してともに考えていこうという教師の“クラブ活動参加”の方向でもあったのです。1970年(昭和45)北星学園女子高校によって上演され、翌年浦和市の全国大会で優秀賞を受賞した『大千軒岳の切支丹』、76年(昭和51)八戸大会で最優秀賞および創作脚本賞を受賞した『はい、さいなら』などで知られる橋本栄子をはじめ、宮崎衡(ひとし)、伊藤達弘、森一生、菅村敬次郎などの名が次々とあがってきます。
「啓北商業、静修、開成―3つの高校で教えたけれど、僕はいつも生徒のよろこんでくれるものを書く座付作家です」本山さんは自分の作品と生徒との関係をこう表現します。
「生徒の趣向が変われば、僕も変わってくる。生徒のうれしそうな顔を見たいから書いているんです。たえず生徒と遊んでいる、じゃれてる。生徒と離れたらいい芝居はできません」
北海道高校演劇37年の歴史は、既成の脚本を使っていた1950年からの約10年、顧問が脚本を書きはじめた創作劇台頭期、創作活動が各地で活発になった高揚期と段階を重ね、この10年はさらによりよい舞台表現を求めてきた時期といえます。70年代後半から80年代にかけて、開成高校は『イゼルギリ姿さん』『都会の森の物語』『おおきな木』と、高校生の持っている音楽性、美術性をのびのびと発揮させる舞台づくりを展開してきました。物語の進行とともにドラムやギターにスポットが当てられ、歌あり、踊りあり。合唱、群読による(*1)ナラタージュ、(*2)コロス…。ミュージカル風な舞台づくりと、その斬新な手法は、舞台表現に新風を送りました。
『コスモス・ホテル』―高校生の裕二が心を許せる相手は、幼なじみの悪太郎と、悪太郎がくれたカナヘビ(トカゲ亜目カナヘビ科)だけでした。学友にもとけこめず、心の支えであったバイクをなくし、ますます自閉症的傾向に陥っていく裕二を、カナヘビは心配します。裕二を愛するカナヘビは裕二に乗り移り、ふたつの心は入れ変わります。カナヘビとして人間の言葉を発することのできない裕二は、言葉で他人にはたらきかけることの意味を初めて知ります。そして…、大好きなバイクも見つかり、もう大丈夫だろうと安心したカナヘビは、裕二から離れていきます。裕二の心がいっとき泊った仮の宿、それはカナヘビが提供してくれたコスモス畑、コスモス・ホテルだったのです。
地区大会から全道大会までの1ヵ月、芝居は練り上げられ、ディテールは刻々と変化し、役者には「気」が入ってきます。稽古(けいこ)は、演出の坂東亜希子さん(2年生)を中心にすすめられていきます。
最大のポイントは、カナヘビと裕二の心が入れかわる瞬間が分かりにくいという指摘です。裕二の自閉症の部分をもっとめただせるには?バイクが見つかった時の効果音は?舞台全体のコスモスを揺らせようか?稽古のなかから、さらにイメージがふくらみアイディアが浮かんできます。
用意するコスモスの造花は約800本。照明担当者は、全道大会の会場となる函館市民会館の「大ホール舞台平面図」を見ながら、照明運行表を綿密につくっていきます。明るさ、ホリゾント、IN、OUTの方法などがB4の表で4枚、びっしりと書き込まれています。演技の間、タイミングに細心の注意を配りながら音を出す効果。イメージをいっそう豊かに観客にアピールする衣装・メイク。演劇は総合芸術です。釘が1本ゆるんでいたことから、芝居の途中でセットの木が倒れることもあります。演出、キャスト、スタッフ、どの役割が欠けても舞台は成りたちません。1年生もいちど地区大会を経験すると、完ぺきな舞台に挑戦するおもしろみと責任感がわいてきます。
「演劇は本を仕込んで発表まで3ヵ月。その間、子どもたちは考えられないぐらい成長する。いい動きをします。そんな子どもの変化を見ているのが何よりも楽しい」と本山さん。だからこそ「ヘタな口だしはしない」と言いきります。演出の生徒の迷いに、「いいから、まずやってごらん」と、そっとはげます声が聞こえます。
厳しい受験勉強との両立で葛藤し、3年間活動を続けられない人も少なくはありません。「やっぱり悩みました」と当時の気持ちを語ってくれたのは、卒業生の佐藤知子さん(23)です。しかし、『水仙月の4日』が宇都宮大会で最優秀となり、帰ってすぐに取り組んだ『愛の手紙』での一連の経験が、大きな自信となって心の奥深くに刻まれています。
「全国大会に行ったチームワークと勢いで、ワアーとつくりました。芝居が終わって道具を舞台から降ろした時、搬出口でだれからとともなくバンザイと叫びだして…。満足感があった。感激しました。自分たちって、すごいことができるんだなと思いました」と目を輝かせます。
「演劇部ってずいぶん才能豊かな人間が集まるんだなと思いました」と入部当時の印象を語るのはOBの大崎浩一さん(25)です。それは演劇が「気づかなかった能力をいやおうなく発揮させてくれる場でもあるからだ」と、演劇にのめりこんだ3年間の思いをこう伝えてくれました。
高校演劇の水準が北海道全体に高まっていった要素として「合同公演」があげられます。
「成績発表があると、よい学校はキャーとよろこび、選ばれなかった学校は白い目を向ける。交流もなく、会場は寒々としていました」これが合同公演を始める前までの地区大会の様子です。みんなが仲よくなることが演劇の基本なのに、他の学校を敵対視していいのだろうか―教育者としての素朴な疑問から自主的な“飲む会”が発足し、その席から、1つの芝居をたくさんの学校でつくっては、という「合同公演」の案が芽ばえてきたのです。
しかし、どこの学校でも「他の学校といっしょに芝居をつくるなどもってのほか」と、周囲からの理解がなかなか得られません。水面下での説得がやっと実り、合同公演が実現したのは68年(昭和43)のことでした。北大クラーク会館で上演した『オホーツクのわらすっこ』、沖縄をテーマにした『KADENAの娘』は、各校の力を結集し、力強く練り上げられました。
稽古の3ヵ月、いやおうなく学校の垣根は取り払われます。お互いにニックネームで呼びあい、他校の顧問を慕い、他校の技術を学ぶという北海道の伝統が、ここから培われてきたのです。
87年7月の第19会合同公演『ユック』は、22校が参加。合同公演は夏の大きなイベントとして定着し、後志や釧路・根室、さらに、秋田県、広島県などでも試みられるようになりました。
11月13日。第37回全道高校演劇発表大会が函館市民会館で開かれました。16校の3日間にわたる熱演の結果、札幌静修高校『わたしが一番きれいだったとき』(森一生作)が本年度の最優秀校となり、来年8月、熊本の全国大会に出場することが決まりました。
茨木のり子の「わたしが一番きれいだったとき」の詩に乗せて、中国人の男を愛し大陸に子どもを残してきた1人の女の一生を、身近な女子高校の教師の生涯として描いています。しっかりとした、けなげな演技が感動を呼びます。
閉会式のあとの壮行会で開成高校演劇部の部長・大橋瑞枝さん(2年生)が、「私たちの分までがんばって、日本一になってください」とはげましの言葉を送ります。仲間の健闘をたたえる真撃(しんし)なまなざしと惜しみない拍手が、会場にあふれます。
地区大会、全道大会へと結集した2,000人の高校生たち。そのエネルギーと、豊かな交流で培われた力が、さらに来年のすばらしい舞台づくりへとつながっていくことでしよう。
*1 主人公に回想形式で過去の事件を物語らせながら場景を構成していく方法。
*2 ギリシア劇のなかで、音楽的に重要な役割を果たした合唱舞踊隊。雲や木、動物に扮して主人公の運命を進行させていく。
演出家 太田明彦さん
北海道に根ざした題材で、過去から未来を見つめ、われわれは何を成すべきか、そしていまを生きている人間の心の叫びを舞台にしていこう――そうした視点はわれわれ演劇人がめざしていたことであり、残念にも貫けなかったことでもあるのです。そのわれわれの思いを、北海道の高校演劇は脈々と受け継ぎ、すばらしい創作劇を数々と生みだしてくれました。その脚本の骨太さ、泥くささ、そして表現方法の新鮮さ、峻烈さは、全国の高校演劇に創作劇のブームを起こしたのです。
これらの創作劇は『統一劇場』の台本となって全国を縦断し、多くの人びとに感動を与えましたし、札幌本多劇場1周年記念公演には『どさんこ花子』(本山節彌作、森一生演出)が北海道の演劇人の総力をあげて上演されました。世界の名だたる芝居は、発表された当時はすべて創作劇でした。それが何度も上演されることで古典となったことを考えると、時代を超えて上演される劇を、いま北海道が生み出し、送り出しているといえます。
演劇は、泣き、笑い、ドキドキ、ワクワク、その楽しさとともに自分の魂と語りあう時をつくるものです。村ぐるみで取り組む篠路歌舞伎、浄瑠璃を学校の教材として上演している例などは、その地域の文化を形成する心のよりどころに根強く影響を与えるものと考えられます。
北海道の未来を考えるとき、高校演劇から生まれた幅広い人材と、彼らを育て、すばらしい脚本を生みだしてきた顧問たちの情熱が、一歩先んずるものとして北海道に輝きを放つことでしょう。
北海道高校演劇全国大会出場校
●1960年
名古屋・苫小牧東二林黒土作『蚊遣火』
●1966年
東京・札幌啓北商業(定)=本山節彌作『オホーツクのわらすっこ』最優秀
●1967年
いわき・札幌静修=本山節彌作『OS』優秀
●1968年
東京・札幌啓北商業(定)=本山節彌作『閉山』優良
苫小牧東=窪田清彦作『絶唱は今もなお』優良
●1969年
札幌・札幌東=板垣甲子治作『海の底の眼』優秀
札幌啓成=菅村敬次郎作『歪んだ顔』優良
苫小牧東=本山節彌作『新しい出発』優良
●1970年
岐阜・札幌啓北商業(定)=本山節彌作『鍛治」優秀
●1971年
浦和・札幌北星女子=橋木栄子作『大千軒岳の切支丹』優秀
●1972年
東京・帯広農業=海保進一作『幻覚巨像』優良
●1973年
大阪・札幌啓成=菅村敬次郎作『コタン』優秀
●1974年
福岡・美唄東=宮崎衡作『あるHR日誌』優秀
●1975年
広島・札幌開成=本山節彌作『イゼルギリ婆さん』優秀
●1976年
八戸・札幌北星女子=橋本栄子作『はい、さいなら』最優秀
●1977年
千葉・札幌開成=本山節彌作『都会の森の物語』優良
●1978年
神戸・札幌開成=本山節彌作『おおきな木』最優秀
●1979年
大分・美唄東=大井英敏作『君の行く道は』優秀
●1980年
金沢・札幌藻岩=菅村敬次郎作『明日は天気』最優秀
●1981年
秋田・根室=本山節彌作『おおきな木』優良
●1982年
宇都宮・札幌開成=本山節彌作『水仙月の四日』最優秀
●1983年
宇部・根室=深沢七郎作、演劇部脚色「楢山節考』優秀
●1984年
各務原・根室=井上ひさし作『十一ぴきのネコ』優良
●1985年
盛岡・札幌静修=中島敦原作、森一生作『山月記異聞』最優秀
●1986年
大阪・深川西=関原暉作『一つの生命』優秀
●1987年
名古屋・札幌開成=本山節彌作『クイーン』優秀