今日ほど食へのこだわりが急速に進みつつある時代は、かつてなかったといえよう。ほぼ50年前を遡って、わたしの子どものころの、わが家のある日の食卓情景を想い起こしてみると、父を中心とした食卓には、まず麦めしと一汁一菜、それにせいぜい、いかの塩辛か漬物がある程度、これが通常的なものであった。しかも父母からは「食事の時はおしゃべりをしないで食べなさい」との躾(しつけ)の中で育った。そこには選択をしたり、会話をする楽しさはなく、もちろん音楽の楽しさなどもない。ただ、ひたすらに空腹を満たすこと、あたかも禅寺にあるかのごとく、と言えなくもない。また、そのころには外食といえる語はなかったし、その機会も皆無に等しかった。それが当時における、ごく一般的な家庭での食習慣でもあり、生活でもあった。
翻って、昨今の状況について少しく仔細(しさい)に観察し、ひとことで言い表すなら、食への「こだわり」が急速に、幅広く進行しつつあるといえるのではなかろうか。いまや一つ食生活をとりあげてみても、多くのゆとりが生じ、また一方では共働きの傾向が顕著であるところから、それは外食機会の増大をもたらし、それにつながる外食業の伸展と増加をたどっている。さらには、新たな提供の形態とともに、新商品の開発と競合が行なわれ、この間の世界各国の食状祝に比し遜色(そんしょく)はなく、むしろ、そのバラエティーさや豊富な情報量の点でもっとも恵まれた食の環境下にあるといえよう。いわゆる「飽食」と称される時代であり、食に関するあらゆる情報は、テレビをはじめとする数多くの関連誌などの誌上をにぎわし、その枚挙にいとまがない。この状況は、外食機会の増大とともに、食に対する広く深い関心と知識を高め、その嗜好性と選択眼をますます豊かなものにしつつある。飽食の時代から、さらに「こだわり」の時代へと速度を早めているといえよう。
たとえば、食材の見方についても、産地別の気候や風土の特性からはじまり、その品質、部位、鮮度、季節などの識別への掘り下げ、あるいは肥料、飼料に対する健康志向へのこだわりなど。また、提供段階においては、従来からの料理、サービス、雰囲気などの一般的な方式や水準から、より高度に、より多様な面にわたって変容しつつある。
一例を述べると、エスニック(異国性)、グレージング(少量多品目)、あるいはエンタートメント(娯楽性)、演出によるストリー性の要素など、さらには食とビバレッジ(飲み物)、食と器とのコーディネーションなど。また最近にいたっては、男性の食に対するこだわりは家庭におけるセルフクッキングに及び、その興味や深度は、塩、野菜、スパイス、ハーブ類などの品質や特長にもこだわる。これらの「こだわり」は、食に関する広く深い分野に波及しつつある。
ここで集約するとすれば、食を掘り下げ美味(おい)しさ、楽しさ、遊び、健康、コミュニティー、知的なもの等々に対し、感性や感覚をもって接することであり、人間生活にとって、夢とロマンを与え、さらに限りなく追い求め続けるものではないだろうか。