札幌から旭川を経て北へ264キロ。最北端の稚内まで122キロに位置する音威子府は、総面積274平方キロの80%以上が森林に囲まれた小さな村です。その森林の62%は道有林、33%が北海道大学の演習林、残りが村有林と民有林で、“村の木”にもなっているアカエゾマツをはじめ、ナラ、カツラ、セン、タモ、クルミ、ホウ、エンジュ、イタヤ、カバ、シナ、オンコなど樹種も極めて豊富。かつては冬山造林が盛んな村でした。
村名は、アイヌの先祖がオトイネプ(川が泥で汚れているところ)と呼んでいたことに由来しますが、天塩川が村の中央を南から西へ流れ、その屈曲した部分に市街地が形成されています。JR北海道の宗谷本線と、浜頓別を経由して稚内に至る天北線の起点であり、さらに国道40号と275号が村を通り、天北を分岐する交通の要衝でもあります。
しかし、積算降雪量は20数メートルにも及び積雪量は2.7メートルにもなります。加えて1~2月の平均気温は氷点下12℃前後、氷点下30℃を超す日も多く、十勝管内陸別、上川管内占冠と並ぶ3大寒冷地の一角にあたり、「この村ではマイナス50℃まで計れる寒暖計でなきゃ役に立たない」と、村の人たちは言っています。
それだけに、村の春は素晴らしい。まずヤチブキがいっせいに茅ぶき、村自慢のスキー場でもある音威富士(標高477メートル)の山ろく一面にシバザクラが咲き誇ります。ウグイスやブッポウソウをはじめとした野鳥の声が森にあふれ、まばゆいほどの緑にすっぽりと包まれるのです。1,500ヘクタールほどの狭い耕地の主産物はバレーショとビート。村の人口に近い頭数の乳牛が年間約5千トンの牛乳を生産しています。
しかし、悩みは年々すすむ過疎化現象。1955年(昭和30)までは4千人以上だった村の人口は、1969年(昭和44)に3千人台をきり、さらに1979年(昭和54)には2千人台を割り込んでしまいました。
1985年(昭和60)の国勢調査では2,068人に持ち直したものの、現在は634世帯、1,726人にまで減少しています。
林業の低落傾向と稲作の北限でもあった米づくりが、1972年(昭和47)の生産調整で牧草に転作されるに及んで離農者はふえ、さらに昨年は旧国鉄の民営化に伴う広域配転で約百人の職員とその家族が村を去って行きました。しかし、いまなお80人以上が精算事業団に残っており、万一JR天北線が廃止されることにでもなったら、さらに400人近くが減るのではないかと心配されています。
その村で、道内はもとより遠く全国各地から入学してきた生徒たちが木のクラフトを学習しているのが村立高校。1950年(昭和25)に北海道名寄農業高校の分校として開校して以来、いくつかの変遷を経て昼間定時制高校となり、1978年(昭和53)にインテリア実習を教科にとり入れてから、そのめざましい学習ぶりが注目されるようになりました。そして1983年(昭和58)、道内ではもちろん唯一、全国でもまれな木の文化と木工芸を学ぶ全日制工芸科への転換が認可され、昨年3月、定時制時代に入学した最後の卒業生を送りだしたあと、定時制課程は完全に閉課されました。1985年(昭和60)から2年間にわたって新築された総面積3543平方メートルの鉄筋2階建て校舎は、村庁舎と並んでひときわ目をひきます。玄関を入るとすぐの多目的ホールには、卒業生が残したインテリア家具から木のおもちゃや遊具、小物などのクラフトが所狭しと置かれています。どれも、わずか3年間の学習成果としては高い水準の作品ばかり。
普通教室3、理科、家庭科、視聴覚の各教室に加えて、工芸科の教室は組立、機械加工、造形美術、製図、デザイン接着成型、塗装、林産など10の実習室があり、工具も充分に整えられて、何不自由なく学習ができる設備を有しています。
「お金を出して買う板が木だという程度の知識しか持たずに入学して来る現代っ子に、まず木の大切さ、人間と木とのかかわりを教え、木を素材に造形体験を重ね、創造力を学びとるなゥから、彼らが21世紀を生き抜く原動力を培っていきたい」と、木の文化を通した人づくりを教育の根幹にしていることを語るのは長尾教逸(ながおきょういつ)教頭。
組立実習室では女生徒9人を含めた生徒たちがカンナなどの調整をしたり、集成材で作ったなべ敷きやペーパーナイフの仕上げに取り組んでいます。
「デザインがむずかしいけど、自由に作らせてくれるので楽しい」と生徒のひとりが語り、アドバイス程度と控え目に指導している二本柳一穂教諭も、
「題材を与えたあとはオリジナリティーを大切にしているので、生徒たちはどう作っていいか長い期間迷っています。しかし、充分時間を与えれば、工業製品にはない、手づくりの持ち味を生かした作品を作り出し、思いもよらない彼らの発想は、ぼくらの刺激にもなります」と、生徒たらの造形力をわがことのように誇って見せます。
「うちの学校では生徒の落書や机のいたずら傷がひとつもないんですよ」と長尾教頭。机や壁に彫りものをしようと思えば道具はいくらもそろっているが、それがない。
「木と触れ合うなかで、ものを大切にする心が育ってきたのでしょう。私は、これを教育の成果だと思っています」。
今年度の在校生122人のうち、104人が寮生活をしています。1ヵ月18,000円が、1人あたり3食付きの寮費。歳費20億円(昭和61年度)程度の村にとっては、これまでの投資額を考えると大変な財政負担です。その恩に少しでも報いようと、春と秋、雑草を嫌うシバザクラ園の整備や国道周辺の清掃、そして北大演習林、道有林、村有林の植樹とボランティア活動にも精を出し、それが村びととの強い交流のきずなになっています。
狩野剛(かのつよし)元校長が函館から赴任して来たのは、1976年(昭和51)4月でした。「新緑にもえる四囲の山の緑、さえずりやまぬ野鳥の声と天塩川のゆったりとした流れ―その自然ののどかさに、すっかり魅了させられました」と、当時を思い起こして、狩野さんは語り始めます。
狩野さんの大きな悩みは、その年、ピークには36人もいた入学生が3分の1の12人にまで落ち込み、2年後には確実に10人を割ることが予想されていることでした。当時、2年間続けて10人を割ると整理統合を道教委から勧告される状況でした。それは、わが国の経済的繁栄が進むなかで中卒者の定時制離れが年々すすみ“定時制高校の役割は終わった”というのが教育行政の考え方だったのです。
「しかし、学校の廃校はコミュニティーの崩壊にもつながる。なんとか救う道はないものか」という危機感が狩野さんの心を占めていました。
社会科の教師である狩野さんは、郷土史にも関心が深く、この村をよく知ろうと村内を歩き回りました。豊かな森林資源に恵まれながら、思いのほか林産企業が少ない。そのなかで足を止めたのが1軒の木材工場でした。見ると、世界的にも名木とされる道産のナラをはじめ、多くの良材がなんの付加価値もつけずに、惜しげもなくチップに切り刻まれています。ちょうど札幌などの都市では、プラスチック製品のはんらんに飽きた主婦たちのあいだで木が見直され、木彫ブームが起こっているときでした。
その木材工場の社長だった河上実さんと初めて顔を合わせたとき、「これからの学校は、目的を明確にした教育が必要。森林資源を生かした工芸美術を勤労体験のなかから学ばせ、生徒たちに成就感を体得させたい」とする点ですっかり意気投合。まもなく、インテリア実習科の新設に向けて始動することになったのです。
狩野さんは北海道教育大学や試験研究機関、民間の研究団体、インテリア、デザイン関係者に接触して精力的に調査。一方の河上さんは村の有志に呼びかけて高校振興調査委員会を発足させ、その代表になって支援体制をがっちり固めたのでした。
当時の山田栄村長や中原彰助役(現村長)らの理解と協力で職業科目としてのインテリア実習科が新設されたのは、1978年(昭和53)の新学期。その翌年の入学者は25人に急増、さらに1980年(昭和55)には志願者が67人、定員の1.8倍にもなって、こんどは選考に苦慮するありさまでした。
公民館と青少年会館を間仕切りしていた寮では賄いきれず、村は124人が収容可能な寄宿舎の新設に着手、工芸実習室も増築を迫られました。その費用は約2億円。「12億円程度の一般会計の中からの予算化は大変な負担だったろうに、ほんとうによくやってくれました」と、村の協力に対する感謝の念が、いまも狩野さんの心に熱く残っている様子です。
そうした地域や学校の支援に、生徒たちは充分にこたえています。
木工芸に取り組んだ翌年の夏、学校創立30周年を記念して、かつてアイヌの人びとが使っていた丸木舟を復元して『武四郎号』と名づけ、アイヌ語地名を調査しながら天塩川の河口まで3日間かけト川下りをしました。同じ年の秋には高文連の美術展にも初出品、その出来栄えが注目されました。そして名寄や旭川、札幌の道庁ロビーなどで開く『木の手づくり展』もスタートさせました。「高校生の作品とは思えないほどのアイデアと技術」「カナダにも行ったけど、こんな素晴らしいのに出会ったのは初めて」「夢のある作品」「とても心なごむ思い」「この学校に学ぶ者、学ばせる者、指導した者の誇りと喜びがあふれている」と感動の評価が次々に寄せられ、これまでに『北海道知事賞』『第4回北海道青少年科学文化振興賞』も受賞しています。
昨年度末現在で生徒の出身校をみると、106人のうち札幌と旭川市内が65%を占め、道北が18%、道南、本州がそれぞれ6%。地元は7人と少なく、今春も46人のうち地元からは3人だけの入学でした。
一方、卒業後の進路も全日制の半数は進学。木材・工芸関係への就職は販売、製造業への就職数を下回っています。せっかくの人材が地元に残れないのを惜しむ声もありますが、村に充分な受け入れ産業がない段階ではやむを得ず、中原村長は「いまは、この村で学んだ子が村外、国外に出て活躍してくれればいい。それを繰り返し続けることで底辺が拡大される。一地域だけの発想で教育を考えるべきではない」ときっぱり言い切っています。
1978年(昭和53)、札幌で個展を開いていた砂澤ビッキさん(木の彫刻家)を訪ねて音威子府に誘ったのは狩野さんでした。ひょっこり村に姿を見せたビッキさんのガイド役を務めたのは河上さん。
「あちこち案内するうちに、なんどもクシャミをしだしたんです。あとで聞くと彼は興奮するとクシャミをする癖があるんだそうです。かなり感激した様子でした」。その年の秋、定住したいと一家でやって来て、廃校になった筬島(おさしま)小学校の校舎にアトリエを開きました。
また、1981年(昭和56)には国際交流基金がインドから招いた工芸美術家のナイクサタムさんを受け入れ、村の主婦たちが『やちぶきの会』を結成してゴブラン織りとシルクプリントの指導を受けています。2人の芸術家の創作態度とその言動に接することで、生徒も村の人も芸術的雰囲気を学びとる絶好の機会を得たのです。
木の工芸教育がスタートして10年、いまでは年間1千人もの見学者が訪れます。「当時、“村おこし”という言葉はなかったけれど、私たちはその先駆的な役割を果たして来たことだけは確かだと思いますよ」と狩野さんは言います。河上さんも、
「この高校を核にして、過疎の村に住んでいるからこそ豊かな生活をしようじゃないか、という目的意識が生まれています」と語ります。そして長尾教頭は、旭川から津別、置戸など道北一帯が木の文化を広げつつある現状を見つめながら、
「広い面をつなぐ太い束ができつつありますね。それが、単に物の生産にとどめることなく、心の生産にまで高めていく必要性を感じます」。それは、そのまま音威子府高校と“森と匠の村づくり”の進路に生かされていく言葉だといえます。
村長 中原彰
過疎化は村民の心を沈滞させます。それを拭い去るためにも、「大いに夢を語り、その語らいの中から見つけだした理想を現実のものにしようじゃないか」という呼びかけが村おこしのスタートでした。昭和56年に発足した村の第2期総合計画のキャッチフレーズにしたのが『森と匠の村づくり』です。
匠の養成は、ひとり林業に携わる人だけをいうのではなく、農業でも商業でも、それぞれの道で何か今より一歩でも前進的に取り組もうと努力し続けることから始まり、その努力と力が結集して村づくりは進められるのです。まさに「村づくりの基本は人づくり」であり、その方向性を見極めることに巧みな“匠”をめざすことに熱中してほしいと呼びかけています。
音威子府高校は、『森と匠の村』の核です。しかし、3年間に習得した知識と技術が外部に流出しがちなので、なんとか村内に残す道を見つけなければなりません。例えば、卒業後もさらに2~4年間、村費による研修・研究期間を設けて自立経営を助け、やがてその人たちによる村内工房群から優れた木材工芸が生みだされるようにしたいと思っています。
一方、入学希望者数の増加に対応して2科制とし、新たに「森林科学科」の新設をめざしています。また「人づくり振興基金制度」を創出し、道外、国外に視察・研修する中から外部知識の導入を進めたいと考えています。
プラブハカール・ナイクサタム
「やちぶきの会」の主婦たちは、自由な時間と自由な精神、そして自由なアイデアを持っています。彼女たちのマーメイドな美の創造への努力が、やがて北海道に新しい伝統を生みだすことになると思います。
音威子府は、木の文化をはぐくむ可能性の豊かな環境です。北海道で通用するものを考えるのではなく、もっとインターナショナルな水準に達するまでひたすらトレーニングを積むこと、それが村の発展につながるのです。
インド人は考えることから始めますが、日本人はそれが不足ぎみ。終わりのない努力の中から、アーチストとしての向上をめざしてほしいものです。