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1988年05月号/第26号  [ずいそう]    

スキーの思い出
小竹 英夫 (こたけ ひでお ・ 医師)

初めてスキーをはいたのは昭和2年、北大に入学してからだから、それ以来、62年になる。もっとも、戦中から戦後にかけては、かなりのブランクがあるが。

昭和初期には、靴と木部の締め具はアルパイン式、次いでフィットフェルト式となり、カンダハーの全盛時代となり、それで雪の野山を踏破したものだ。

札幌も当時は円山の南斜面、双子山、荒井山、三角山、馬場牧場のあたりは絶好のスキー場で、平日でも賑わっていた。いまは人家が立て込んでいて、まったく昔日のおもかげはない。

スキー部にも山岳部にも属したことはないが、郊外のスキー場に飽くと、同好者連れ立って遠出をした。手稲、春香、奥手稲、札幌岳などがその行き先であった。

いまのように防寒具が完備したものはなかったので、スキー帽にアノラック、手袋というかなりの軽装であった。登りはシールをつけたが、麻縄を巻いて登る豪の者もいた。

大抵は日帰りだが、時には奥手稲山の家、銀嶺荘、パラダイスヒュッテなどに宿泊したものだ。

雪原にそびえる余市岳のニョッポリとした姿は今も忘れられない。偉容といっていい。

太平洋戦争中、樺太上敷香陸軍病院に召集されていたので、樺太国境でのスキーを経験したが、あまりの寒さとろくな装備もしていないスキーは、ただ寒いばかりで楽しみを感じさせなかった。

現代のスキーは、リフト、ゴンドラなどの機械力を利用したゲレンデスキー(靴やスキーの進歩、改良の力が大きいが)と歩くスキーに大別されるようだ。雪の野山を自由に歩き廻るのがスキーの原点だから「歩くスキー」という名前は、考えるとちょっとおかしいような気もするが。

筆者がいま打ち込んでいるのは、後者の歩くスキーである。毎週、1、2回は西岡の冬季オリンピックの距離コースだったところに出かける。

その他にも札幌近辺の歩くスキーの大会にはほとんど出場する。洞爺湖の中島の大会では野生の鹿を見てきたし、支笏湖―札幌間26キロメートル、旭川バーサー大会は共に第1回から連続出場である。

歩いたあとのビールがうまい。今後もできるだけ続けたいと思っている。

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