今、地球は、酸性雨と大気汚染で森林が枯れ、開発で種の宝庫といわれる熱帯雨林が減少を続けている。そして毎年、四国ほどの面積が砂漠と化しつつある。諸国の政治家は、相変わらず、核の保有数を競い、地球を「恐怖の均衡」という計りのうえにのせて「ホラーゲーム」を楽しんでいる。
人間はといえば、世界恐慌の恐怖に怯えつつ、相変わらず差別と偏見と貧困から自由になれず、マネーゲームの不安におののき、管理を極限まで強めることで不安を紛らわそうとしている。
この日本という小さな島国でも、子どもたちは「むかつく」「信じらんねーよ」と他者との関係を拒否し続け、ファミコンといじめの世界でストレスを発散させている。
大人の絶望も深い。異端は鋭く排除され、生き方の画一化のために「暴力」さえ使われる。そのなかで人間への未練が断ち切れない人たちは新興宗教に逃げ込み、一時の安らぎを見い出すしかない。「大人が息苦しいと感じている時代には、間違いなく子供達はその何倍も息苦しく感じている。大人が生きがいを持てない時代には子供がそれを持てるわけがない。大人が絶望している時代には、子供はその何十倍も絶望している」「大人は自分の抑圧を発散すべき方法を知っているが(解決ではない)子供はほとんど知らない。それゆえ子供達の絶望は深い」(鴻上尚史「冒険宣言」)
どこか、時代の歯車が狂い始めてはいないか?ざらざらとした苛立ちが私たちの生活を覆い始めてはいないか?かつてマイナーだったいじめがメジャーになりつつあるこの時代、人々は抑圧の発散を求めてさまよい歩き、どこに行き着こうとしているのだろうか。
ここまで事態が深刻化してくると、一人ひとりが自らの責任と決断で、生き方を選択することができなくなっているのではないかと思われる。一人ひとりが選択しているようで、実は何者かによって選択させられ、走らされているのではないだろうか。何か大きな力がうずになって、個人を飲み込み始めているのではないだろうか。