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1988年09月号/第28号  [特集]    

北海道の山を愛し近代登山のだいご味を 文化として多くの人に広めた20年の足跡
日本山岳曾北海道支部の20年

  
 中央にそびえる大雪山と十勝の山々、それと軒を連ねる日高山脈。西に阿寒・知床、南に駒ヶ岳とニセコ・支笏の山々、そして北には天塩山地と利尻岳―、その雄大な山岳環境で育ったアルピニストたちのクラブ「日本山岳曾北海道支部」が20周年を迎えました。北海道に近代登山の楽しみをもたらし、南極観測やヒマラヤ登山隊にも人を送る一方で、北海道の山を愛し、年齢を超えて登りつづける人たちが集うこの会の20年にわたる足跡をたどってみます。

全国15支部のアルピニストが参加した'88大雪の集い

イメージ(チョモランマ登攀の報告を聴く)
チョモランマ登攀の報告を聴く

日本山岳曾北海道支部(橋本誠二支部長=会員数169人)の20周年を記念する『'88大雪の集い』を旭川市市民文化会館ホールで開催したのは、7月16日のことです。それは、全国21支部のうちの15支部、110人の会員が参加する盛況さでした。

アラスカヘ渡航中の橋木支部長(70)にかわって、芳賀孝郎副支部長が「北海道の大自然の中で会えるのを楽しみにしていました。この集いは、まず自分たちが楽しむのが最大の歓迎と考えて準備しました。行き届かない点は山の友情に免じてご容赦を」とあいさつ。今西寿雄日本山岳曾会長は先ごろの日本、中国、ネパール3国友好によるチョモランマ交差登頂への支援にたいするお礼を述べたあと「大雪山の一角に登って20周年を祝うのはうれしく、北海道支部のますますの発展を祈念します」とあいさつ。そのあと、さっそく講演・報告会が催されました。チョモランマ・サガルマータ登欅(とはん)隊の磯野剛太南側隊長と重広恒夫北側隊長がそれぞれに美しいスライドとともに登頂までの様子を紹介。北海道支部では20周年記念事業としてヒマラヤトレッキングを計画中のことでもあり、ことさら感慨深く目と耳を傾注していたようです。

報告会が終わった午後4時、会員は旭岳温泉での晩さん会に参加するためバスなどで移動。日没の早い温泉旅館前庭でサケやイカ、牛肉、野菜がふんだんな野趣あふれるチャンチャン焼きと、全国の会員が持ち寄った銘酒、地酒に舌つづみを打ち、あいにくの雨にもめげず歌や話を弾ませます。

60歳代、70歳代の顔ぶれも目立ちます。「みんな精進がいいのだから、あすは必ず晴れます」と、思いは翌日の旭岳登頂にはせながらも、山荘内のスナックに席を移し、山を愛する人たちのいつ果てるともしらぬ歓談がつづいていました。

旭岳山頂で野だて お花畑に感嘆の声

イメージ(野趣豊かなチャンチャン焼きが好評)
野趣豊かなチャンチャン焼きが好評

20周年記念山行当日の早暁は、昨夜の雨の晩さん会とはうって変わった上天気。早々に身仕度を済ませたアルピニストたちは、定刻も待たずに旭岳をめざします。女性や高齢者も多いのに、一群の足どりはさすがに確か。山頂では北海道の主要行事に連続参加した道外会員に旭川市の渋谷正己さんが制作した大雪山の版画を贈り、この日が誕生日の東京の会員にはバースデーケーキと野だての祝福です。

帰途はお鉢平を越えて黒岳に向かうグループなども。残雪を踏み、ミヤマキンバイやツガザクラなどが一面に咲き広がるお花畑に感嘆の声をあげなから、北海道の山のだいご味を堪能していました。

近代登山の幕あけは19世紀後半から

イメージ(風雅(?)に山頂で野だても)
風雅(?)に山頂で野だても

スポーツとして山に登り、山に登ることそれ自体に楽しみを求め、目的とする近代登山がおこなわれるようになったのは18世紀の後半からです。それ以前は、旧約聖書にノアがトルコとイランの国境近いアララット山(5,156メートル)に達したとあり、わが国では7世紀後半に役行者(えんのぎょうしゃ)大和・金剛山の峰々を開いたとあるのが、人間と山とのかかわりを伝えるもっとも古い記録のようです。ギリシャ時代はオリンポス山を測量したとされますが、中世以降、山は悪魔の住み家という思想がルネッサンス期までつづきます。それに比べて、わが国では信仰との結びつきが強く、修験道登山が長いあいだ盛んにおこなわれてきました。

ヨーロッパでの近代登山は、1786年にフランスの医師らによってモン・ブラン(4,807メートル)登頂を果たした時にはじまるといわれます。そして1850年代には、相次ぐイギリス人登山家によってアルプス黄金時代が築かれ、世界最初の山岳会「アルパインクラブ」が1857年に創立されたのです。

イギリス人宣教師によって幕をあけた日本の近代登山

日本に近代登山の幕あけをもたらしたのは、イギリス人宣教師ウォルター・ウェストンです。横浜に2回にわたって滞在した彼は、1891年(明治24)から1904年(同37)までのあいだに富士山をはじめ日本アルプスの山々を登り、ロンドンで『THE JAPANESE ALPS』(邦訳・日本アルプスの登山と探検)を出版して海外に紹介していました。

イメージ(小雨にも苦にせず歓談が続く記念晩さん会)
小雨にも苦にせず歓談が続く記念晩さん会

「横浜の銀行家で、のちに山岳随筆家ともなる小島烏水(うすい)は、その彼とある日銭湯で出会い、日本アルプスの素晴らしさとアルパインクラブの話を聞くBそれが日本山岳曾創立のきっかけになるのです」と教えてくれたのは、札幌出身の名誉会員で第14代会長をつとめた佐々保雄さんです。「烏水と、尾瀬沼の紹介者で北海道大学に赴任したことのある武田久吉らが発起人となって、1905年(明治38)に日本で最初の登山組織を誕生させたのです」。

登山の発展に数々の功績を残す

それ以降、日本山岳曾の会員たちによって本州のおもだった峰を次々に登頂する黄金時代が形成されます。1921年(大正10)には、会員の槇有恒がアイガー(3970メートル)の東山稜に初登頂して帰国。ヨーロッパの新しい登山技術を持ち帰って若い登山者に伝えたことで、わが国の近代登山は急速な進歩を遂げるのです。

日本山岳曾誌『山岳』第1号に次のような大意の設立主旨が掲載されています。「(イギリスで)今から49年前に設立をみたアルパインクラブによって登山の気風が世界各国の若者はもとより、老人、婦人にまで普及し、指導者を特定の校堂で養成している。そして登山道を開拓し、精細な地図や紀行文が出版され、山岳研究の盛んなことは日本人にとって意想のほかはない。彼らは山岳を通じて気品を高尚にし、意思を強固にし、身体を剛健にする」と。日本山岳曾の人びとはそれにならい、多くの大学や高等学校に山岳部の設立を支援し、山岳における自然科学を発達させ、山岳紀行や紹介の出版にも大きな力添えをしてきました。

戦後は、1956年(昭和31)に今西錦司12代会長が日本人で初めて8,000メートル級の山頂に足跡を記したマナスル登頂以後、海外登山に多くの支援をつづける一方、日本を代表する登山団体としてイギリスをはじめ世界各国との交流も積極的にすすめています。そして、スポーツとしての登山を今日にまで普及させてきました。

北大OBを中心に発足した北海道支部

イメージ(今西会長やチョモランマ登攀隊長らとともに)
今西会長やチョモランマ登攀隊長らとともに

北海道に支部結成の動きが持ち上がったのは、第9回国民体育大会の登山種目が北海道で開催されることが決まった1949年(昭和24)でした。しかし、まだ機が熟さない事情もあって消滅し、本格的な結成をみるのは1969年(昭和44)のこと。日本山岳曾の支部担当理事で、北海道をこよなく愛し、北海道の山の紀行も数多く残している作家、深田久弥氏の熱心な要請にこたえ、初代支部長に推された中野征紀氏らの尽力で実現にこぎつけたのです。

このときの在道会員は81人。はじめは北海道大学OBなど札幌博物学会の人脈を中心にして固い結束が育っていきます。2代目支部長は伊藤秀五郎氏、3代目は一橋大学出身で銀行家の大塚武氏。そして、橋本現支部長(北海道大学名誉教授)は4代目となります。

山スキーからお月見会まで和やかなクラブライフ

イメージ(日高ではこんな沢登りをすることも)
日高ではこんな沢登りをすることも

北海道支部は「山岳に関する研究、知識の普及と健全な登山指導、奨励に努め、会員相互の親睦懇親をはかりながら、登山を通じて体育、文化、自然愛護の精神を高める」という日本山岳曾の目的を踏まえて、毎年、アットホームな活動をつづけています。冬山登山は結成の翌年3月にチセヌプリ(ニセコ)へのスキー行に始まり、ことし羊蹄山ろくでのスキー合宿まで、毎年、道内各地の山で実施しています。

夏の山行は八剣山、芦別岳、幌尻岳、ペテガリ岳、トムラウシ山、余市岳、夕張岳、大千軒岳、カムイエクウチカウシ山、阿寒三山、佐幌岳、太櫓(ふとろ)山、ニペソツ山、ホロホロ岳、羅臼岳、遊楽部(ゆうらっぷ)岳、黒岳、神威岳、函岳、暑寒別岳、旭岳などへと大きく足を伸ばし、秋は景勝の山荘でお月見会を欠かさず開いています、また、その年々に実施されたわが国海外登山の報告会を一般にも公開して実施しています。そして中央と支部ごとに開く年忘れ晩さん会も。クラブワークはそうした年次行事だけにとどまらず、山好きなマスターやマダムのいる“店”の常連となって、私的交流も盛んとか。

「そこへ行くと必ず会員の何人かがトグロを巻いていて、気さくにダベるのが楽しみ」と佐々さん。橋本さんも「会員にはさまざまな職業の人がいて、山を中心としたおもしろい話が聞ける」といっています。

「日本のクラブワークは歴史が浅くてなかなか育たないが、そのなかでは、うまくいっている数少ないクラブのひとつでしょうね。」と、佐々さんは62年間に及ぶ会員活動を振り返って、そう言い切ります。

北海道に登山を文化として根付かせた人びと

長く支部会報の編集を担当している高澤光雄さんによれば、北海道から最初に入会したのは蝦夷富士登山会長の河合篤叙(あつのぶ)、会員番号は142です、2番目が旧小樽中学校長の清水実隆(187)、3番目は札幌農学校(北大)教授の宮部金吾(295)で、特別会員になっています。いずれも創立1、2年目に入会した人たちでした。

現在、道内でもっとも若い会員番号を持つのは佐々さんで、969番。3ケタの会員番号は、全国でも貴重な存在になってきています。佐々さんは北海道からただ一人会長を務めた人であり、任期中、全国の支部活動の育成に力を注いだ功労は高く評価されています。

歴代支部会員のなかには、北海道にスキー登山の黄金時代を築いた加納一郎、北海道大学に山岳部を創設し、山の詩人でもあった伊藤秀五郎、日高の山を描きつづけた画家の坂本直行をはじめとした多士済々が北海道における登山の発展に寄与してきました。また、伊藤秀五郎氏は法人化前の北海道自然保護協会長をつとめ、現在は会員の八木健三氏が同協会の会長です。

戦後、職場や地域にも山岳グルーブがつくられ、レベルの高い登山の追求する団体もうまれる一方で、趣味やレジャーとして登山を楽しむ人びとがふえてきました。そんななかで会員たちは、山に登り、山を愛することを文化としてとらえ、登山の普及に一翼をになってきたのです。

今後の課題は会員の若返り

日本山岳曾の最近の会員番号は10,200番を超えています。

「イギリスではロイヤルファミリーも招くなど、権威と格式を重んじて厳しい審査があったようですが、日本では役員の推薦制度だけをとり入れたもので、堅苦しい入会規定はない」と佐々さんはいいますが、それでも「入会を誘わたときは、胸が踊るほどうれしかった」と橋本さんが回想するほどの伝統が根付いています。

「日本山岳曾には自然科学者をはじめ、いろんな文化人がいます。そうした人たちと一緒に学術・文化を背景に持ちながら山を登るのはあこがれだったのです」。

会員は個人加入が原則で、それぞれ別の団体で登山活動をしている経験者が多い。それだけに入会しにくいと思っている人があったり、会員の高齢化がすすんでいるのも課題です。そのため「学生など若い人がもっと入会しやすいように、より活達な、雰囲気をつくってはどうかと話し合っているところです」(橋本さんの話)と、すそ野を広げるための方策も検討されています。

なぜ山へ、尽きせぬ魅力がそこにあって

イメージ(大雪山系とともに北海道の魅力あふれる日高の山)
大雪山系とともに北海道の魅力あふれる日高の山

「こんなに年老いてからも、汗をかきかき、なんでこんなバカなことをするんだろうと、よく言われます」と81歳の佐々さんはいいます。しかし、小学2年生のときに初めて円山山頂に登り、眼下にトタン屋根が光る札幌の街並み、緑色に広がる石狩平野や真っ青な日本海と石狩湾。そして、遥か彼方に冠雪をいただく暑寒別岳などの増毛の山々を見渡したときの感動が病みつきの端緒とか。

また高澤さんは「やはり壮大な未知なるものへの挑戦と、自分の可能性を試したいという気持ちが底にある」といいます。

アラスカの氷河にも登った橋本さんは「もう死ぬんじゃないかという経験を何回もして、よく頑張ったものだと思いながらも、また会心の山登りはできていない」のだそうです。

登山者には、頂上を極めることだけを目的に「一丁、あがり!」とばかリ次々と新しい山を求めて登りつづける人がいます。北海道の天塩山地から大雪・十勝、日高山脈への南北縦走を計画している人もいます。じっくり1つの山を、その地理や植生を観察・研究する人もいます。目的も思いもそれぞれであっても、共通していえるのは、そのすべてを満たしてくれる深い魅力が山にはあるということなのでしょう。

「日高山系の中に、名前がなく、われわれが1839と標高で呼んでいる山があります。私は来年に計画していますが、それを登れば目をつぶることができます」と笑う橋本さんの言葉に、山男の心情を垣間見た思いがします。

日本山岳曾北海道支部のおもな年譜

1967年
8月=深田久弥支部担当理事と会員懇親会。道内在住会員81人に支部設立アンケート。返信59通中、賛成41。

1968年
6月=深田理事が再度来道し、支部設立を力説。

1969年
7月20日=設立総会開催。支部長に中野征紀氏を推挙。
12月=日本山岳曾挙げてのエベレスト登山の募金運動に協力。

1970年
1月=北大西村豪氏の「チリ・アンデス、パタゴニアの山々の講演とスライド
2月=婦人部歓迎会/チセヌプリにスキー行
7月=エベレスト登山隊、エベレストスキー隊報告会。

1971年
7月=支部総会で伊藤秀五郎氏支部長/エベレスト国際登山隊員ヴォルフカング・アクスト氏を囲み歓談。
10月=札幌医大山岳部第一次ヒンズークシュ、イストル・オ・ナール東峰の報告会。
12月=北大山の会と共催でカフカズ・ウシバ峰、ネパール・チャムラン登攀の映写と小林年氏の講演。

1972年
1月=サロベツ・利尻礼文の観光映画と北海道山岳連盟隊のマッキンリー南壁の16ミリを上映。
10月=八剣山で現地小集会。

1973年
6月=十勝岳で現地支部長会議、今西錦司会長ほか110人参加。
8月=橋本誠二氏のイースター島巨石像のスライド。
9月=芦別岳小集会。
11月=渡辺文仁氏のヒマラヤ・カンジェラルワ、辻井達一氏のアラスカのサマーキャンプ、坂本直行氏のカナディアンロッキーのスライドと8ミリ上映。

1974年
8月=芦別岳登山と山部メロン狩り。
9月=羊蹄山麓の山丈荘でお月見の会。
12月=今村明信氏のインド・ヒマラヤ踏査行、森三枝子氏のマナスル登頂、大崎正信氏のラムジュン・ヒマール登頂のスライド上映。

1975年
4月=伊藤秀五郎支部長が病気のため辞任、後任に大塚武氏を推挙。
7月=日本山岳曾創立70周年記念北海道集会を札幌市で開催。

1976年
1月=新年例会/計良幸作氏のヒマラヤ・ブラマー2峰、辻井達一氏の北大ヒマラヤ学術調査、佐々保雄氏の日米合同アリューシャン学術調査の8ミリ、スライド上映。
3月=チセヌプリ・スキーツアー/弁華別山スキーツアー。
8月=大塚支部長らによる幌尻岳登山。

1977年
12月=北海道支部・宮城支部合同台湾玉山登山。

1978年
1月=佐々保雄氏の玉山、大塚支部長のヒマラヤトレッキング報告。
6月=支部10周年記念ペテガリ岳登山。同記念祝賀会を札幌市で開く。

1979年
8月=大塚支部長らクワウンナイ川そ行とトムラウシ山登山。
10月=小樽天狗山でお月見の会/余市岳と塩谷丸山登山。
12月=佐々保雄氏の日本山岳曾名誉会員推挙を祝う。

1980年
7月=夕張岳登山。
9月=倶知安望羊荘でお月見の会/大千軒岳登山。

1981年
8月=カムイエクウチカウシ山登山。
9月=今西錦司元会長の阿寒三山と佐幌岳登山。
12月=中国山岳協会荘再傳歓迎レセプション。

1982年
4月=今西元会長の太櫓山登山。
7月=ニペソツ山登山。
10月=大沼公園で観月会/駒ヶ岳登山。
12月=支部15周年記念ヒマラヤ踏査隊。

1983年
5月=今西元会長の目国内岳、ホロホロ山登山。
7月=羅臼岳登山。
8月=大塚支部長神威岳で遭難、捜索活動。
9月=ひらふ望羊荘で大塚支部長をしのぶお月見の会。

1984年
5月=今西元会長の雄阿寒岳、遊楽部岳登山。
6月=新支部長に橋本誠二氏を選出。
7月=年号同一標高の黒岳登山。
8月=大塚前支部長追悼神威岳山登山。
9月=真狩村山丈荘で観月会。

1985年
5月=今西元会長と函岳、雷電山登山。
7月=暑寒別岳で日本山岳曾80周年記念山行/同記念山岳シンポジウムと晩さん会開く。
10月=五百沢智也と語る会。

1986年
3月=スキー合宿。
7月=夕張岳登山/知床セミナー。
9月=大沼公園で観月会。

1987年
3月=スキー合宿。
4月=大雪山スキー一騎討ち18人参加。


郷土の山を大切に守る指導的立場に

日本山岳曾会長 今西寿雄

北海道支部の20年を振り返って思い山されるのは、極地研究家の加納一郎、北大山岳部の創設者である伊藤秀五郎、第1次南極観測隊の越冬副隊長だった中野征紀、日高・神威岳で逝った大塚武などの人びとのこと。私は、その名を聞いただけで北海道を感じます。そして、全国の支部活動の促進を提唱して、日本山岳曾の発展に貢献された佐々保雄前会長がおリます。

郷土の山はそれぞれにお国自慢であり、後世に残さなければならない義務があります。私も佐々さんの考えを踏襲し、自然保護に対する指導的立場にたつ支部活動の充実、発展を志していく考えです。

私は、北海道の山に来るたびに「山高きをもって尊しとせず」という言葉を思います。北海道の最高峰旭岳でも2,300メートル弱であり、むずかしくはないが奥がとても深い。とくに北海道の雪山は、よそでは味わえない素晴らしい魅力があリます。

ことしは天候が遅れて残雪か多いようですが、それだけにお花畑が美しい。この記念登山では、その高山植物を見ながら、北の自然を存分にエンジョイして帰るつもりです。

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