16世紀の初め、デンマークの支配下にあったスウェーデンで、祖国愛に燃える若い貴族グスタフ・バーサー(1496~1560)は、スキーに乗りながらダラーナ地方の町や村を回って国家解放への決起を呼びかけていました。1521年1月のある日、デンマーク兵に追われた彼は、セーレンとモーラ間の87キロの雪の荒野を一本杖のスキーで走リ抜いたのです。その活躍によって独立に成功。彼は王位に推されてバーサー朝を開き、建国の英雄として崇敬をうけたのです。
1922年3月、近代的な立憲君主国家となったスウェーデンで独立とバーサー王の功績を顕彰する4百年祭のとき『バーサーロペット』が開催されました。レースはその故事にならってセーレンとモーラ間の89キロを完走するもの。以来、毎年1万人以上が参加し、優勝者にはモーラの乙女から栄光の月桂冠が贈られて国民的な祝福をうけるのです。バーサーロペットはアメリカ・ミネソタ州の姉妹都市モーラでも開催されています。
北海道のほぼ中央に位置する上川盆地にあって、東に秀麗な大雪連峰を望み、石狩川など4つの大河が合流する旭川市は、人口36万人、北海道第2の都市です。
9年前、冬を快適に過ごすなかから街の活性化の道を模索していた坂東徹市長や当時の市の商工部長だった遠藤一成さん(現収入役=同大会実行委員長)、旭川商工会議所副会頭の小川昌克さんらは、堂垣内知事が提唱していた“歩くスキー”に着目していました。1980年2月、東京旭川会との経済交流会の席上でもこのことが話題になり、会長の八木佑四郎さんから「どうせやるなら、バーサーロペットのような大きい大会を開こうじゃないか」という話に発展しました。さっそく賛同して準備はトントン拍子に進み、その年12月に実行委員会が発足。翌81年3月21日、大きな夢と期待を持って第1回大会のスタートが切られたのです。参加者はちょうど1,800人。しかし予想以上の成功で、「旭川バーサー」の名は一躍注目されたのです。
第2回大会はFIS(国際スキー連盟)とSAJ(全日本スキー連盟)から公認され、道の補助や、企業からの大口協賛も得て、前途に確固たる構えが整いました。スウェーデン大使やソ連総領事夫妻らも参加して、国際大会としての色彩も顕著になりました。関係者を何より喜ばせたのは、第3回大会にバーサーロペット大会長のニールス・カールソンさんがスウェーデンからやって来て、本部からの認定書が贈られたこと。第4回からは1万人を突破して、文字通り国際色豊かなクロスカントリー競技と歩くスキーの集いの大会となったのです。
「この大会の特色のひとつは、冬の健康づくりと、冬を楽しむ市民たちがお祭りのような雰囲気で交歓しあう場であること。もうひとつはA級選手をはじめ技とスピードを競う人たちのシーズン納めの競技大会であること。旭川はわが国のスキー発祥地論争にも加わるほどの長い伝統があり、スキー人口も多い街です。雪質もきわめて良く、競馬場というスタンドのある施設を持っていたことが、この大会の開催を可能にしましたね」と、遠藤さんはこの9年間を振り返ります。
珍しくボタン雪の舞った昨年の第8回大会にも、さまざまな人が参加していました。そのなかにはカナダ・カルガリーオリンピックから帰国してまもない選手5人がA級クロスカントリーに招待されました。オープンクロスカントリーでは20キロに挑戦するために沖縄県那覇市から飛んで来た人、85歳の高齢にもめげず5キロのスピードレースに挑戦した人もいました。
スピードよりも完走が目的の人は5キロから30キロまで、自分の闘志と相談で思いおもいのコースに参加します。20キロに出場した全盲の婦人、7歳で30キロに挑戦したタフガイな小学生。その一方で、喜寿を記念する人、7人家族全員で参加して「最多ファミリー」になったり、生後5ヵ月でパパにエントリーしてもらい、ゼッケン番号をつけて「最年少参加者」と歓迎された赤ちゃんもいました。仮装に身を包んで、パフォーマンスするグループ、ジンギスカン鍋をつつき始める一団もありました。
この大会は、参加者にとっては世界公認の競技会にA級選手と同時にスタートできる喜びがあり、シーズンのフィナーレを飾る祭典です。一般市民にとっても世界規模の大会が自分たちの街で開かれることの誇りがあり、この大会が終わると春近いことを実感する風物詩にもなっているのです。
第8回大会にエントリーしたのは、クロスカントリーに1,590人、歩くスキーに11,251人の計12,841人。市内からは7,200人、道内他市町村5,400人、道外からも200人。そして当日参加したのは12,607人でした。外国人の参加もふえて、10カ国65人。韓国、ニュージーランド、チリから4人の初参加も含まれていました。
クロスカントリーの一般3千円、歩くスキーは2千円、高校生以下は順次割り引になっているなど、手軽な参加料で1日、思う存分楽しめるのも大きな魅力です。
第1回大会から5人家族そろって30キロコースに連続参加し「第10回大会までは頑張るつもり」と、ことしもエントリーを済ませたのは市内の平田一三さん一家。末の永(はるか)君(中2)は苫小牧に転校して行った友達と参加するのを楽しみにしています。
女性では1着でゴールインした経歴もある母親の寿子さんはアルバムの中に思い出をたどりながら、「私たちはいつも楽しく参加しているだけですが、私たちの見えないところでご苦労されている人たちが大勢いるのですよね」と、裏方たちの活躍ぶりに思いをはせます。
遠藤さんも「自衛隊を含めた行政機関と地元経済界、各層の市民団体が一丸となって、手づくりの運営をしいるのがこの大会の大きな特色です」と強調します。
市を中心とした行政機関や大学などの教育機関、各種市民団体によって組織委員会と実行委員会が結成され、商工会議所を母体に基金協会も発足して、第9回大会の事務局は昨年12月5日に開設されました。ここには市の各部局と市教委から出向した19人の職員と6人の臨時職員を含めた25人が、約4ヵ月間、各種の手配や連絡調整に忙殺されています。
しかし、実際の仕事は大会の翌月から始まっていました。4月に事務局を閉じて職員が本業に戻ったあと、市教委の社会体育課内では、さっそく次の大会要項づくりと予算案の作成に取りかかります。夏のうちにコースの地権者と接触し、なんどか下見もします。秋になるとポスターやバッジ、ワッペンなどの作成準備に取りかかり、雪の来る前にコースの伐採作業が始まります。一方、道外へのPR、外国大使館の招待などを準備し、事務局開設と同時にいっせいに始動できる体制を整えておくのです。
本格的なコース造りに入るのは2月早々からです。シーズンの到来とともに参加予定者たちが試走できる日を心待ちにしているからです。例年、このころから旭川は氷点下20度を超す夜がふえ、真冬日がつづきます。顔を刺す寒さのなかを大型圧雪車を走らせて雪を固め、スキーの走り幅に合わせて溝を切っていくのです。
第1回大会からコース造りのリーダーになっているのは、旭川スキー連盟理事長の塩田富治さん。毎日、スノーモービルを駆ってコースを点検し、圧雪車を先導してコース造りに細心の注意を払っています。
「この大会は参加者の幅が広くて、コースヘの注文も多いのです。20種目それぞれにアップダウンでアクセントをつけ、A級選手から初心者までが楽しめるコースを造るのが苦心するところです」と語ります。
コース造りに参加している委員は約40人。みんなボランティアなので集まるのは日曜か夜になり、全員がそろうことなどめったにありません、それでも、みんな気象情報とにらめっこで、雪が降れば、暖気になれば、またコースの作り直しという2ヵ月間を過ごします。雪明りを頼りに1人で圧雪車を走らせていて路肩に突っ込み、身動きできなくなることがあります。「ひとっこ1人いない荒野では助けを呼ぶこともできず、泣きたい思いで立ちつくしてしまう」ともいいます。
第8回大会に関与した役員やボランティアは、1,840人にのぼりました。実行委員会に設けられているセクションは、総務、広報、渉外、事業、警備、救護、競技の7部会。事務局開設と同時に毎週金曜日に部会長会議を開いて経過報告や連絡調整に万全をはかっていますが、みんな勤務の合間なので集まるのは昼休みの1時間。昼食抜きになる人も少なくいようです。
救護部会は、旭川医師会の医師や保健婦、看護婦、旭川パトロール赤十字奉仕団ら70人と自衛隊が万一に備えて待機します。
部会のなかでももっとも多くの委員を擁しているのは渉外。外国人の接待が中心とあって、北方圏交流協会関係者や旭川スウェーデン協会、国際ソロプチミストの女性会員がマンツーマンで対応する態勢です。しかし、通訳ひとつにしても参加国は10ヵ国に及びA英語圏ばかりではないため、その苦労は大変なようです。
スタートして約18分後、5キロのオープンクロスカントリーの走者がゴールヘ駆け込んで来ます。その記録集計に大活躍するのは、旭川マイコン教育研究会の教師たちです。6台のコンピュータで処理すると、16種類が5分以内に集計されてきます。それらは公式記録としてFlSとSAJに報告されるたいじな記録なのです。
会場までの足の確保も大変です。30分間隔でバスが運行されますが、マイカーで駆けつける数も膨大。約120人の交通安全指導員らが交差点や路上に立って交通整理にあたり、駐車場では地主さんも加わって約70人が整理に大わらわとなります。
汗をかき、息を弾ませてきたのどを潤すお茶やスポーツドリンクの味は格別です。そんな参加者たちを130人の主婦たちが7ヵ所の給食所で温かく迎えます。
大会の費用は約7千万円。参加料と市の負担金、道と基金協会からの補助金などでまかなわれます。基金協会が受け皿となる協賛金は、スポーツ用品や自動車メーカー、新聞社などの大口と一般協賛金。広告収入もあります。それに加えて一般市民からの募金も大きな支えです。協会では500個の基金箱をつくり、市内の商店や飲食店に配置していますが、その収入が600万円を超しているのです。ここでも、この大会を自分たちの手で支えようという市民の志が示されているということができます。
たいへんなビッグイベントだけに行政が中心となって組織固めをしていますが、その手足となって活躍するのは地元企業や市民グループの人たち。そして参加者となり、声援する多くの市民によって、この大会に魂が入れられるのです。
関係者や市民をうれしがらせているのは、来春の第10回大会にスウェーデンからカール16世グスタフ国王(42)の来旭が決まったこと。若い同国王は、かつてスウェーデンのバーサーロペットで89キロを完走しており、旭川でも50キロオープンクロスカントリーに参加して記念の大会に花を添えてくれることになっています。
「これを機会に、バーサー3ヵ国サミットを旭川で開いて大いに友好を深めたいものですね」と、遠藤さんはこの吉報にまたひとつ夢をふくらませています。
自ら「なんでも屋」といい、第5回大会から裏方の最前線で働いてきた三浦正好さん(小学校職員)は「半年間の作業をつらいとか、長いと感じたことはない。むしろ短いくらいです」といいます。
塩田さんが裏方をつづけているのは「かつて選手時代にお世話になったことへの恩返しのつもりと、参加者のなかから1人でもオリンピックをめざす人が出て欲しいと願ってのこと」といい、三浦さんは「みんな大会の成功を願って、涙ぐましいほどの熱気でやっています。大きな仕事を与えられ、きっとぼくの人生でもっとも充実した仕事になると思います」と話しています。
「毎年、午後4時に、参加者たちが引き上げ、後始末をしている人だけがわずかに動いている競馬場の会場に行くんです。ガラーンとしたスタンドの片隅に独り座って、思わず『この大会を支えてくれたボランティアの諸君よ、ありがとう』といいます。スタートの花火が上がった時、三浦君が仲間と肩を抱き合って泣いていた。あの12,500人のうねりを見ると、ガーンとこみ上げてくるものがある―それは、裏方だけが味わう思いですよ。その日はどこへも寄らずに家に帰り、風呂に入って寝るのです。わたしにとっては、バーサーの終わった日が正月だと思っています」。発案者のひとりであるだけに、遠藤さんの感慨もひとしおのようです。
北海道の風土・文化誌“カムイミンタラ"の特集号を通じて、第9回旭川国際バーサ一スキー大会の準備をしている方々や参加するみなさんにあいさつできますことは、うれしいかぎリです。
まずはじめに、旭川国際バーサースキー大会は、ウインタースポーツの一大イベントであるということです。毎年、12,OOO人の人びとが旭川でのさまざまなスキー大会に参加します。このことは、日本の人びとのウインタースポーツに対する関心がかなり高いことを浮き彫りにしていますが、同時に、日本人の非常な勇敢さのあらわれです。
次に、国際バーサースキー大会は、スウェーデンと日本の親密な友好の絆の一大シンボルでもあります。バーサースキー大会の由来は、1521年、のちの国王グスタフ1世となったグスタフ・バーサーが自由なスウェ一デン国家を築くために、スキーに乗って侵略軍から逃げのびたことから始まっています。スキーレースの言い伝えは400周年祭に取り上げられ、今日ではしっかりと確立されて、スウェーデンのスポーツカレンダーにも載ってい骼蝸vなイベントです。旭川国際バーサースキー大会は、この9年間にスウェーデンと日本の人びとのあいだの友好のシンボルとなっています。
第9回旭川国際バーサースキー大会を支えるすべての人びとに感謝し、この大会の主催者や選手のみなさんが最善を尽くされるよう希望します。3月21日の大会が成功することを祈っています。
スウェーデン王国大使
オーべ・ヘイマン
SWEDISH EMBASSY Tokyo,February 13,1989
Message to "Kamuimintara",Hokkaido Magazin of Nature and Culture
It gives me great pleasure to address myself to the organizers and the participants of the 9th International Vasa Skiing Conpetition in Asahikawa through this special issue of "kamuimintara",the Hokkaido Magazin of Nature and Culture.
Firstly,the International Vasa Skiing Compretition in Asahikawa is a major manifestation of winter sports. Every year 12,000persons participate in the various ski race in Asahikawa,underlining the great interest of the Japanese people for winter sports, but the Japanese into focus.
Secondly,the International Vasa Skiing Competition is a major manifestation of the closs and friendly ties that exist between Sweden and Japan. The Vasa Skiing Competition finds its origins in 1521,when Gustavus Vasa,the future King Gustavus 1st,escaped on skis from invasion forces in ordre to setablish a free Swedish State. The tradition of a ski race was taken up on the 400th anniversary,and is now firmly established and a major event in the Swedish Spoets' Calender Since nine years the International Vasa Skiing Competition in Asahikawa has becom a symbol of the friendship existing between the peoples of Sweden and Japan.
I wish to thank all those who support the ninth International Vasa Skiing Competition in Asahikawa and Iwish the organizers and all the participants of the Competition the best,and hope for a successful competition on the 21st of March!
Ove Heyman
Ambassador of Sweden