置戸町は、常呂川の最上流にできた谷底平野に市街地がひらけたまちです。網走管内の最南西部にあって、十勝地方の陸別町や足寄則と隣り合わせており、北見市へは30キロの距離に位置しています。三方を標高1千メートル前後の山に囲まれ、町の面積の85%は森林に覆われています。
町名は、アイヌ語のオケトウンナイからとったもので「鹿の皮を乾かす沢」という意味。黒曜石の原産地でもあって、常呂川沿いに97ヵ所を教える遺跡の大半が先土器時代のもので占められ、続縄文・擦文時代も漁労と狩猟の場所であったようです。
北見市の前身である野付牛村から分村独立したのは1915年(大正4)、1950年(昭和25)に町制がしかれました。
このまちをささえてきた産業は林業と林産業、農作物ではビートとジャガイモ、それに豆類とタマネギです。しかし、高度経済成長と外材輸入がすすむにつれて農林業の不振がめだち、ピーク時に1万2千人を超えていた人口は現存5千2百人弱にまで落ち込み、過疎化への対応が町の大きな課題となっています。
置戸町の存在が全国的に知られるようになったのは、日本一、本をたくさん読むまちになったことと、馬にかわって若者が丸太を引く勇壮な「人間ばん馬」。それが綱引き大会で全国優勝したことです。
近年は、建築の構造村にしか使い道がないと思われていたエゾマツやトドマツを素材にして、木目の美しい白い器などをつくるオケクラフトが、ウッド志向を反映して人気を呼んでいます。
そのオケフラフトを軸にして、それに盛る農畜産品の製造、地場産品の白花豆(しろはなまめ)や山ぶどうを原料にした焼酎とワインの販売にも取り組んでいますが、これらはどれも公民館活動の発展した姿です。そして、なによりもこのまちが高い評価を得ているのは、戦後から40年間にわたる社会教育活動なのです。
1945年(昭和20)の敗戦によって、軍隊や軍需工場に動員されていた青年たちが村に帰って来ました。しかし、その青年たちは敗戦による虚脱感もあって何をすればいいのかわからず、放心状態でした。そんななかで、民主主義とは何か、米軍が来ると英語が必要ではないか、これからの村づくりはどうすればいいのか―と、わからないことづくめ。それには勉強をしなければならないという機運が青年たちのあいだに起こり、翌46年(昭和21)に村の連合青年会が結成され、置戸夜学会がスタートしました。そこで法律と英語の講座を教えたのは、東京の大学から学徒出陣したあと復員してきた小林猛雄さん=現置戸タイムス社代表取締役(68)=でした。
「役場からの補助金は1円もなかったけれども、ハーモニカ楽団をつくったり芝居をやったり、祭りや運動会を主催したりで、行事活動が中心でした。しかし、それだけではもの足りない。田舎にいても若い者が勉強して知識を身につけなければ日本の復興はない、と考える青年が大勢いました」と、小林さんは当時を思い起こします。
小林さんが読書会の結成を呼びかけると30人ほどの青年が集まりました。
当時は書物の飢餓時代でした。自分たちの本を持ち寄って読み回ししても、すぐ読みきってしまいます。そこで、青年たちはリヤカーを引いて町内を回り、献本運動を起こしたのです。最初の運動で、180冊ほどの本が集まりました。小林さんたちは当時の阿部重美村長に願い出て消防番屋を借り、集まった本の貸し出しを始めました。
「週1回、風呂敷に詰めた本をかついで番屋の2階に持ち込んで並べると、棚が空っぽになるほど借りられることもありました」(小林さん)というほどの盛況でした。それに力を得た青年たちは、輪読会、読書感想会、レコード鑑賞会、娯楽会などを開き、機関紙を発行するまでに発展しました。
やがて、献本を受けた数は500冊以上にもなりました。消防番屋には常時、本を置いておけないので、毎週、大風呂敷に包んだ本をかつぎ上げる、それは青年たちにとってもたいへんなことでした。そんなとき、役場の教育係長で読書会会員でもあった佐久間光一さんから「新しい国の制度に公民館というものがあって、村長も公民館の設置を公約している。それには図書室も含まれる」という話を聞き、小林さんらは、早速、33歳で公選に初当選した阿部村長に図書室の設置を要望したのです。当時の村財政は新制中学校の建設で精いっぱい。しかし「なんとか希望にそうようにしよう」と答えてくれました。
とりあえず消防番屋を借りて、1949年(昭和24)の第1回成人の日に公民館がオープンしました。その年のうちに他の3つの集落にも役場出張所を中心にした分館活動が開始されました。それは、社会教育法が制定される一年前のことでした。
4つの公民館はほどなく新築されてそれぞれ本館に昇格すると、たがいに活動の充実をめざして競争が始まりました。各館長、運営審議会の委員はもとより、教員などがボランティアで駆りだされて、青年には国語、英語、数学などを教え、成人一般には憲法や行政・経済、農業技術を中心にした産業教育、婦人には和洋裁、料理、家庭の封建性打破をめざした生活改善などの科目がとり上げられました。「だれもが手さぐりの活動でしたが、これがまちづくりの源流をなす動きになったと思いますね」と小林さんは語ります。
そのうちに「知識の習得や文化活動中心の活動から、もっとまちが良くなるような具体的な活動をすべきだ」という意見が出て『部落づくり運動』が始まりました。その推進役だったのも小林さんです。「当時の農村は、借金で疲弊していました。そこで農村の貧乏の追放は心の貧乏の追放から”をキャッチフレーズに、夜、部落ぐるみの学習会をしたのです。それも、一家から1人だけの出席ではなく、爺さまも婆さまも全員が出席して、みんなで意識を変えなければだめだと呼びかけたのです」。
また、農業青年を十勝などの先進農家に1週間くらいの泊り込み研修に出し、反省会の日には親を連れて行って、なまの話を聴かせるようにしたともいいます。
こうした実践を主体にした活動は道内外から注目され、1954年(昭和29)に全国優良公民館として文部大臣表彰、1959年(昭和34)には北流道文化奨励賞を受賞、さらに道の社会教育モデル町に指定されたのです。
置戸町の社会教育活動がこれほどまでに伸びた原動力は、いろんな分野にすぐれた人材がいたことです。とくに青年読書会の発起人である小林さんはのちに町の教育長に、佐久間さんは中央図書館の館長に就任してその基盤を築いた人でした。
また阿部町長は、人材への投資を惜しまない政策をすすめた人でした。「公民館活動がいつまでもボランティアに頼っていてはだめだ。やはり専門家を常駐させなければ」といって、1951年(昭和26)に管内ではただひとり教育主事の資格を持っていた玉手忠男さんを網走教育局から、また図書館司書の資格を持っていた山川精さんを東藻琴公民館からスカウトしてきました。そして、職員6人という町村としては破格の専従体制をとったのでした。しかし、阿部町長らの引き抜きだけでなく、教育主事の資格取得のための職員教育にも力を入れました。道内では「社会教育をやるなら置戸へ行って勉強して来い」とまでいわれ、置戸で学んだ多くの教育主事が他町村に輩出しています。
置戸町の図書館は、1950年代は公民館での間借り生活ながら図書館法に基づく図書館となり、青年読書会から寄贈された図書と、同会の青年たちが中心になった図書館協議会委員によってめざましい活動をつづけていました。とくに、当時の管内他町村の公民館費を上回る図書購入費をあてて、書架の充実をはかっていきました。
1965年(昭和40)、文部省から農村モデル図書館に選ばれて、待望の新館建設が実現。同時に移動図書館車「やまびこ号」も導入されました。
その2年前、モデル図書館の運営のためには人材が必要と、札幌から沢田正春さん(現教育長)が迎え入れられました。その沢田さんは図書や目録カードの整理などの開館準備のために寝袋を持ち込み、インスタントラーメンをすすりながら作業する日がつづいたということです。
1972年(昭和47)、沢田さんは3ヵ月間イギリスの図書館を視察するために研修留学し、本場の図書館運営を学んできました。貸し出しのときにチケットを使うことによって、記名のわずらわしさをなくし、貸し出し冊数の制限を廃止する一方、やまびこ号が農家の軒先まで行って貸し出すなどのサービスをはかります。また、ほとんど利用されない図書を思い切って除籍し、そのあとに新しい図書を購入していつも新鮮な書架にするなどの方法も採用されました。
その成果は早速あらわれ、この年に住民1人あたりの貸し出し率全国3位になりました。aX年は2位。1976年(昭和51)に、見事1位になりました。そして、その後の7年間に、なんと全国1位を5回も記録するという快挙を成し遂げたのです。全国平均が1人あたり1.5冊なのに対して置戸では8.9冊もの貸し出し率です。『図書館雑誌』1975年9月号で「農村モデル図書館はモデルたり得たか―10年間のデータで見る」という記事のなかで「モデルの役を果たしたのは置戸のみである」と書かれたことを文字どおり証明したばかりでなく、小さなまちの図書館運営のあり方の実証が、道内はもとより全国の図書館にも大きな影響を与えたとして、1985年(昭和60)には日本図書館協会功労賞が贈られています。
「社会教育は一般的な文化活動だけでなく、町民の暮らしを豊かにする生産に直結するものでなければならない、と職員たちとよく議論したものです、そんな先輩たちの話を、沢田君は横で黙って聞いていましたね」。それは、小林さんの教育長時代のことでした。
齊藤町長時代になってからの1980年(昭和55)、置戸町を見直すなかから策定された第3次社会教育5ヵ年計画によって、生涯教育がスタートしました。置戸町が木材のまちであることを再認識し、毎月18日を“木に親しむ日”に決めたのです。また、廃屋になっていた町職員住宅を木工趣味の家『ぶきっちょ』と名づけ、手づくりおもちゃ教室を中央公民館の分館に位置づけて開設しました。しかし、塗装のしかた、ヤスリのかけ方ひとつにしてもわからないことばかり。そこで、図書館は木に関する図書を手あたりしだいに集めて“木とくらしの書架”を設置しました。そうして読みあさっているうちに工芸デザイナー秋岡芳夫東北工大教授の考え方に共鳴し、早速、講演に招きました。その成果が、地域産業開発センター開設へとつながるのです。
ふつう、こうした施設の運営は商工課や農林関係の所管となるのですが、ここでは教育委員会の所管であることにユニークさがあります。それは秋岡教授の紹介でその後毎月指導に来町している時松辰夫同大講師の考えに基づいて「郷土の基幹商業を教育の観点でとらえ、地場資源に付加価値をつけて自らの生活文化を向上させるための活動」とする発想であり、それによって人づくり、物づくり、まちづくりが生きたものになることを目標にしているのです。
白い器のオケクラフトが誕生しました。白い器に盛るための料理研究グルーブ『とれびあん』や農畜産物加工グループ『ふきのとう』、木製遊具を製作研究した『LLOG(ログランドオケトグループ』がうまれ、活躍しています。土づくりのために飼育しているヒツジから羊毛を取り、ニット製品の作製に取り組んでいる『あんで~る羊(よう)』の主婦グループもあります。
町内7ヶ所のオケクラフト工房では毎日技を競ってすぐれた作品をうみだしています。昨年完成した森林工芸館でも、若い研修生が腕を磨くための修行をしています。
全国に勇名をはせた人間ばん馬と人づくりの結びつきについて、小林さんはこんなエピソードを語ります。
1954年(昭和29)に北海道を襲った台風15号によって、置戸町の森林は莫大な風倒木被害を受けました。その被害高は400万石を超え、このまちの10年分の伐採高に相当する数にのぼったのです。その処理を急ぐため全国から造材帥や人夫が集められ、人口は急増しました。また、それまでは人力で木を切り、ばん馬がバチで木材を運搬していたのですが、とても人力では処理しきれず、チェーンソーやトラック輸送などの機械化が急速にすすみました。それでも人手が足りなくて主婦までがかり出され、町内にカギっ子がふえて、その子らをどのように守るかが問題になりました。そこで公民館の委員たちによって、もっとも問題をかかえている地区で町内学級を開き、子ども会活動を地域ぐるみで始めたのです。夏休みにキャンプをしたり、親子でソフトボールや童話会もやりました。当時としては珍しい活動でした。
2学期になって、先生から「夏休みの報告をしなさい」といわれたとき、もっとも元気よく手をあげ、目を輝かせて楽しかった子ども会の様子を報告したのは、問題児とみられていた子どもたちでした。それを契機に、子どもを守る活動は全町に広がりました。そのころの子どもたちのなかから、いま、オケクラフトや山神祭の人間ばん馬などで、まちおこし活動に活躍している青年たちが育ったのです。
今年13回を迎える人間ばん馬は商工会青年部が中心になって、郷土を見直し、開拓の心を取り戻そうと始めたものです。その気概を全国に示したのが1981年に開かれたNHK新春綱引き大会での優勝です。そして、翌年、翌々年の全日本綱引き選手権大会に連続優勝したのでした。
置戸町の過疎化はいまもつづいています。しかし、道内でもっとも活力のあるまちのひとつです。それは自らの生活を豊かにするために燃えることのできる心をA町民のだれもが持っているからだといえるのです。
置戸長教育長 沢田 正春(50)
置戸町の社会教育は、戦後、青年グループの活動を母体に歴代の町長や教育長が力を入れてきており、がっちりとして基盤ができていました。しかし、1980年代を迎えるころから過疎化の波が置戸町を襲ってきました。もし、この重い課題に背を向けていたら、社会教育そのものの基盤がくずれるということで、町の社会教育第3期5カ年計画にあえて地域課題への取り組みを最重点事項に据えたのです。それは、置戸の基幹資源である針葉樹の活用でした。
「木の文化」を切り口にして、社会教育の中に生産教育の推進を取り入れたことが、農畜産をも含めた今日のオケクラフトにつながっているのです。
オケクラフトで生計を立てていく人を育成するためには技術教育と流通環境を整備しますが、それだけでは単なる物づくりに終わってしまいます。そこでこれらを教育としてとらえ、町民の生活文化を高める動きと一体化しながらすすめていくことがだいじだと思っています。
今年から情報化時代に対応するため、中学校にワープロ、道立高校にはパソコンを導入しました。これを学校開放として一般市民も利用できるようにしています。また国際化時代に合わせて、2学期には外国人講師を招いて中・高校、社会教育の場で学習と交流をすすめていきます。
第4期5ヵ年計画は今年で達成されます。時代の潮流にそった生涯学習体系へ移行するため総合的再編成が必要ですが、まちづくりは住民自身の活動です。
幸い、卓抜な発想と行動力のある人たちがその核になっていることが、置戸町の将来に心強いものを感じています。