1944年(昭和19)の夏、『一歩園』の2代目園主・故前田正次氏は阿寒湖畔に移り住むため、妻の光子さんを初めてボッケ岬に連れて来て、持っていたステッキを大きく振って「前田家の山林は、こうだよ」と教えたということです。
その山林というのは、雄阿寒岳の山ろくを除いた阿寒湖岸を北~西~南へと帯状に取り囲む3,800ヘクタールに及ぶ広大な森林。面積は阿寒国立公園の4%強ですが、観光資源としてもっとも重要な部分のひとつを占めています。72%は天然林で、地形の高いところにはダケカンバやウダイカンバ、低い地形にはトドマツ、エゾマツ、ミズナラ、イタヤ、シナノキなどが生い茂る針広混交の林相を呈しています。人工林には、1969年(昭和44)から毎年植樹してきたアカエゾマツが順調に成育しています。全林が水源かん養保安林、風致保安林の指定を受け、森林鳥獣の保護区でもあります。
初代園主の故前田正名翁は、1850年(嘉永3)に薩摩藩・指宿で、貧しい漢方医の家に生まれた人。1869年(明治2)、日本を富ますには外国に学ばなくては―と、フランス留学を志します。しかし、金がないため『和譯英辞典』を編んで内務卿に買い上げてもらい、それを渡航資金にあてたというエピソードが残っています。
正名翁は西南戦役のさなかに帰国し、大久保利通に目をかけられて東京・三田の薩摩藩種苗所長に迎えられますが、再びフランスにたち、欧米視察を繰り返します。
山県有朋内閣のとき農商務次官に任ぜられましたが、陸奥宗光大臣と意見が合わず、わずか4ヵ月でその職を辞して在野の人となったのです。その間の事情について、故正次氏の甥で現財団理事長である前田三郎さん(67)は次のように説明します。
「正名翁の所説は、中小企業である日本の伝統産業の協業化をすすめ、貿易によって外貨獲得をはからなければならない、というものでした。それが、欧米の機械工業を導入して富国強兵をめざす、時の政府の考えに受け入れられなかったのでしょう」。正名翁は貴族院議員や山梨県知事を務めながら、中小企業や農業の振興をはかるために長期・低利の融資をする勧業銀行の必要性も説いていたといいます。翁はわらじ履きで全国をめぐり、宮崎県や富士山ろくなどを開発して『前田一歩園』を築いていきました。釧路に前田製紙工場(十條製紙(株)の前身)を興こし、阿寒の山林5千ヘクタールの払い下げを受けたのは、1903年(明治36)のことです。この山林から、紙パルプの原木を確保するとともに、牧場と農場を開くのが目的でした。しかし、欧米の開発思想を知る正名翁は「ここはスイスに勝るとも劣らない景色だから、切る山ではない、見る山だ」と観光開発の意志を示して一部を十條製紙に譲渡し、残りの山林の無計画な伐採をやめたのでした。
1922年(大正11)、正名翁の死去でこの山林を相続した正次氏も、その遺志を継いで森林の保全にカを注ぎました。
正名翁は「前田家の財産は、すべて公共の財源とす」という家憲を残しています。私財を投げうって興こした事業のほとんどは人手に委ね、阿寒の山林だけが残ったのです。そんな父を尊敬していた正次氏は、父の遺志を光子さんに託すのでした。
1912年(明治45)に栃木県鬼怒川で生まれた光子さんは、宝塚音楽歌劇団で“タカラジェンヌ”として活躍していましたが、25歳年上の正次氏と結婚したのは、1936年(昭和11)、24歳のときでした。
正次氏の夢は阿寒を本格的な観光地にすることでしたが、病弱なために東京に戻ることが多く、その留守を光子さんがひとりで守る日がつづくのでした。
国立公園とはいえ、戦後も施設は貧弱なものでした。正次氏は「本州から本格的な業者をよべばアカ抜けした施設をつくるだろうが、それでは父の代からササを踏んで手伝ってくれた地元の人のためにはならない。特別伐採の哩ツを取って木材を出せば、みんながクギや金づちくらいは持って旅館などを建てるだろう」といって厚生大臣に直談判して製材所を始めたりもしました。しかし、1957年(昭和32)、正次氏は志し半ばで世を去り、光子さんがその跡を引き継ぐことになったのです。
高度経済成長期になって、木造の旅館から鉄筋のホテルヘと転換を迫られ、地元の業者はみんな資金難に苦労していました。「奥さん」といって、光子さんのもとに相談に来ますが、不動産はあっても金がなくて保証人になれないのです。そんなとき、いっしょに銀行に行き「わたしの判よりも、四季それぞれの雄大な美観を求めてお客さんが来てくれるこの大自然が、大きな保証の判を押していると思って欲しい」と、を説得するのが常でした。そんな光子さんを、地元の人たちは“阿寒の女王”と慕っていたのです。
正次氏と光子さんとともに、40年間も阿寒の森を守ってきた同財団常務理事の新妻栄偉(さかえ)さんは「光子さんの哲学は“自然は保護するものではない。壊さないことだ”ということでした」と語ります。財団設立趣意書にも、「いつも思うことは、自然保護という人間の思いあがりです」と述べています。「自然の保護を受けているのは人間のほうであり、生命の糧である。そのことをわきまえて、いかにこの大切なものを永存すべきかを深く考えることが自然保護の理念であるべきだ」と主張しているのです。だから「これだけの山林を守って、偉いですね」という人には、「わたしは守っているんじゃなく、いじっていないだけ。なにもしないでいたから、こうして今日でも自然が残っているのね」と答えるのでした。
それは、たいへんな謙遜でした。かつて“乗っ取り魔”といわれた東急の故五島慶太社長が、阿寒の買い占めをねらって面会を求めてきたとき、毅然と拒絶した光子さんです。山林の施業計画にそって、まだ調査を済ませていない樹を切ったときは「自分の手を切ったと思え」ときびしく戒め、伐採した本数と同じ苗木を植えさせましたし、自分も山に入って植樹していました。
「光子さんの信念と名言は、この山林の至るところに残っていますよ」と、新妻さんは語ります。
「仕事では厳しい面があったが、心のやさしい人でした」と、中島君子さん(52)は語ります。中島さんは正次氏に請われて、中学を卒業してから三十余年間も光子さんの身のまわりの世話をし、現在は光子さんの居宅だった前田一歩園記念館『一歩荘』の管理をしている人です。
「とくに、障害を持つ人や老人、子どもへの思いが深い人」だったといいます。それが端的に示されたのは、アイヌの人たちへの支援でした。
狩猟民族の血をひくアイヌの人たちは、必要以上の貯蓄心を持っていません。だから、和人の経済社会に組み入れられてからは下働き程度の仕事にしかつくことができず、それで得た金も一時に使い果たしてしまうような生活がつづいていました。
「それでは、いつまでたっても貧しさから抜けだせない。あなたがたの民族はすばらしい芸術的才能を持っているのだから、木彫をして自立の道をひらきなさい。作業場や店はわたしの土地を提供します。もともと先住民族であるあなたたちの土地なのだから、遠慮はいらないよ」といって、いま阿寒観光のメインにもなっている“アイヌ部落”の基礎をつくったのです。そのため、アイヌの人たちからはハポ(やさしい母)と慕われ、毎年、忘年会を開いてくれました。光子さんはこの会をとても楽しみにしており、ほかでは絶対に歌うことのない宝塚時代の「すみれの花咲く頃」を歌ったりピアノを弾いて聴かせるのでした。
ほかの2人の所有者とともに、この山林と9つの温泉の鉱泉、それに現金などいっさいの資産を投じて宿願の前田一歩園財団設立を果たしたとき、光子さんは釧路の病院で悪性リューマチと心臓衰弱のため重体の床にありました。それを知った朝日新聞社は、第1回朝日森林文化賞特別賞の授与を決めたのです。枕元に訪れた使者が「副賞に何か欲しいものはありませんか」と尋ねると、光子さんは「航空写真が欲しい」と答えました。それは、山林の施業の様子を空から見るためです。同社は、早速、阿寒の森の航空写真を撮って贈り「100年後にも同じ写真を撮って贈りますから、長生きしてください」というのをうれしそうに聞いていたと、新妻さんは語ります。
1983年(昭和58)4月、財団設立の18日後に、大自然のようにおおらかに生きた(中島さんの言葉)71年の生涯を閉じ、阿寒町葬をもって送られました。
財団の基本財産は、運営が軌道に乗り始めた1985年(昭和60)の時点で、現金、山林、温泉術の宅地、鉱泉地、立木など約47億5千万円にのぼります。これをもとにして、阿寒の森の保全と自然保護思想の°yや人材の育成など各種の事業をすすめていくのです。
財団の大きな使命は、基本財産の山林を適正に保続するために風致施業をすることです。新妻さんの説明によると、最初に施業計画を組んだのは1940年(昭和15)でした。しかし、翌年に太平洋戦争がぼっ発して軍用材の供給を迫られ、物資不足から地元民の燃料にするため、木はどんどん切られていきました。
施業計画が実質的におこなわれるようになったのは1949年(昭和24)ごろからです。牧場を経営するために皆伐されていた1千ヘクタールの土地に植林をしようとしたのですが、苗木が少なく、寒風害、霜害に加えてネズミの被害も大きく、植えた苗木が全滅するという失敗の繰り返しでした。とくに、苗木を道央から買っていたため、寒冷地の阿寒の気象に合わないということもありました。そこでアカエゾマツを実生で植えようということになったのです。それなら生態系にマッチした植林ができるのですが、1ヘクタールに2,500本ずつ植えるのですから全部で250万本、しかも単一樹種ではだめなので、あいだに広葉樹も植えていきます。莫大な手間と資金が必要なため「財団になってからではできないから、わたしの生きているうちに植林を終わらせましょう」という光子さんの執念が実って1983年に完了することができたのです。
財団の山林は(1)択伐を成長量の3分の2までにとどめ(2)針葉樹と広葉樹の比率を7対3に保って、針広混交の複層林を誘導する(3)マリモや鳥獣生息地の水を汚濁させるような伐採はしない―などの施業を固く守っていく計画です。
財団は、風致施業を確立するための基礎的な環境調査をおこなっています。この調査は北海道森林防疫協会、北海道森林保全協会、北海道自然保護協会の手によっておこなわれています。阿寒湖地区の自然環境、野生動物の生息環境を調べ、鳥獣の生息環境と森林施業との関連についての調査研究をおこなうもので、第1回調査研究報告が一昨年公表され、近く第2回報告がまとまることになっています。
委員には、高橋延清東大名誉教授、長内力森林施業研究所長、辻井達一北大農学部教授をはじめとした林業関係の学識者多数が参加して財団の事業を科学的な立場で協力しており、この調査報告は北海道の森林施業の指針にもなるものです。
財団は、自然保護思想の普及と、その人材育成も主要事業に位置づけています。そのひとつが、初年度から毎年実施している『前田一歩園賞』の顕彰です。第7回のことしは、町内「小鳥の村」で巣箱かけや野鳥観察をつづけている阿寒小学校の受賞が決まりました。
ナチュラリストから自然の好きな主婦までが参加できる『自然セミナー』は、年4回に分けて開講しています。著名な講師の講話をじかに聴き、いっしょに自然観察のできるのが好評で、毎年、延べ250人ほどが参加しています。最初はナチュラリストをめざす人材の養成が目的で『一歩園大学』と呼んでいましたが、最近は主婦などの参加がふえて内容に変化がみられます。
『一歩園林間学校』は、子どもたちの自然愛好グルーブなどを招き、湖畔でキャンプをしながら自然学習をするものです。ことしは地元の小学生を招いたので、津別町のチミケップ湖畔に出かけ、YMCAの協力で楽しい2泊3日の学習をしていました。
そのほか、山火事防止のための消防器具をはじめとした寄付や、自然保護パンフレットを作成するための助成もおこなって、自然保護思想の普及啓蒙に貢献しています。
『一歩園』の名は、正名翁が武者小路実篤の「如何なる府にも自分は思う もう一歩、今が大事な時だ もう一歩」という言葉に共鳴して名づけたものです。そして、
後の世の春を頼みて植えおきし
人のこころのさくらをぞ見る
と詠じています。その心は財団の職員、それを支援する人たちに受け継がれて、後世に豊かな森を残すための努力がつづけられています。
「この手で苗木を植え、だいじに育てても、その樹が1人前に育つには200年、300年の歳月が必要です。人間はそれを見届けることはできません。森林の管理は人間の寿命を超えた、ロマンのある仕事です」という新妻常務の笑顔が印象的でした。
“どろ亀さん”で親しまれる高橋延清さんが、前田一歩園の森林施業計画をつくるにあたって次のような詩を寄せています。
一歩一歩の
あゆみ
めざす
原生林の
黒い森
神やどる
大樹の森
願いをこめて
(財)前田一歩園財団 理事長 前田三郎
私が理事長に就任して、初めて記者質問を受けたときに「自然保護と開発についての明確なラインはないと思う。その時代の要求に応じて、フレキシブルに考えていったらよいのではないか」と答えたことを覚ヲています。
その考えは、いまも基本的には変わっておりませんが、ひとつだけ望んでいることは、地球的規模で自然破壊が進んでいるといわれる現在「ここまでは開発してもいいだろう」といった“だろう、だろう”の発想でこの問題を進めていくのではなく、もっと科学的に判断し、みんなが納得いくような答えを早く出せるようになって欲しいということです。学識者のみなさんは、「それは無理だ」といわれます。しかし、「地域的には、その森林を伐採してしまったらどうなるかという判断は、相当な確度を持って答えを出せる」ということだそうです。
私は、いずれの日にか、自然保護と開発の問題が、感情的にではなく、科学的な裏付けを持った結倫の出せる時代が来てくれることを強く願望しています。
湖水を含めた阿寒の景観は道民の、というよりも国民共有の財産だと思っています。私どもの一歩園財団が自然保護のお手伝いをする部分は小さなものですが、この山林のこま切れを精いっぱい防いで、美しい阿寒の風致を将来にわたって残していくのが、私どもの任務だと思っています。