晴れやかな夏の朝、私は友達の秀さんの家で目覚めた。東京からのお客様、K先生を大雪に案内するため東川の奥にある秀さんの家を宿にさせてもらったのだ。
私は朝食の前に拭き掃除を始めた。するとパタパタという小さな音が忙しなく聞こえてくる。何だろうと裏口の土間に降り立つと、戸の硝子に向かって蝶がしきりにもがいている。素通しの硝子の向こうの青い空に向かって懸命に両翅を震わせ、硝子に体当たりしている。その翅が陽の光りに紫色に光った。コムラサキだ。
私はそおっと両の翅を指と指で挟み、つまみあげた。蝶は一瞬ピクリとしたが、安心したようにされるがままになっている。
「秀さん、コムラサキがおめでとうって言いにやってきたよ」私はそう言って蝶を静かに秀さんの方に持って行った。
その日は秀さんの誕生日。「蝶は亡くなった人の化身と昔から言われているのよ」とK先生が昨夜語ってくださったことが心を離れず、12年前に亡くなった秀さんの夫、治さんのことを思い出してしまったのだ。
秀さんは、コムラサキを私の指から自分の指に移すと、そおっと出窓に置いた。蝶は少しのあいだ翅をひらひらさせたが、疲れたのか美しい紫色を私たちに見せて休んでいる。
しばらくその姿を眺めやってから窓を開けると、蝶は庭の薔薇の花に向かってゆるやかに翔んでゆき、葉の緑に溶けこんでしまった。艶のある紫を翅にきらめかせて、思慮深い表情のコムラサキは、若くして逝った治さんの面影に似ているような気がする。
秀さんは、屋敷の裏を開墾して広い無農薬の野菜畑を作っている。本業の織物で使う藍も育てている。キャベツは幾重にも葉を巻き、見事な成りだ。サヤエンドウは白い花を星のように点け、大根は深く深く掻かれた大地にのびのびと根を伸ばしている。
風も光りもたっぷりだ。水も空気も澄んでいる。コムラサキが喜んで祝いにやってくる筈ではないか。
(コムラサキは雄のみが光線の反射によって翅が紫色に光る)。