中学3年の夏、たしかコカコーラの小冊子だったと思うが、小型の熱気球がフットボールのグラウンドから飛び立とうとしている写真がなぜか大変気に入り、そのページを切り取り、下敷きの間に忍ばせ、毎日眺めていました。
熱気球の写真を眺め、気球の飛ぶ姿や気球から見える世界に空想をめぐらしていると、楽しくて仕方ありません。熱気球に乗って空から見る景色は、きっと今まで経験したことのない別世界であり、想像を絶するすばらしいものに違いないと、夢は膨らむばかりでした。
そして、1週間もすると熱気球を作るため、気球の写真や資料を手当たり次第に集めていたのでした。購入するのではなく、あくまでも自分で作るということになんの違和感もなく、金銭的な力のない中学生には当然の選択でした。
2ヵ月もするとかなりの資料が手元に集まり、球皮(上部の袋の部分)だけで4、5階建てのビルぐらいの大きさがあり、スピンネーカーと呼ばれるテトロンもしくはナイロンで作られていることなど、知識がつけばつくほど熱気球を作って空を飛びたいという衝動を押えることはできなかったのでした。
早速、東レと帝人の札幌営業所へ頻繁に足を運び、「熱気球を作りますので、ナイロンを売ってください」と得意満面になって言ったことを覚えています。
いま思えば、中学生相手にどんなに迷惑なことだったろうと思うが、私の話に耳を傾けていただけたことに大変感謝するとともに、大変壊かしく楽しい思い出です。
熱気球を作るには、スピンネーカー以外に、補強テープ、糸、バーナー、プロパンボンベ、ゴンドラをはじめさまざまな小物が必要で、使用する量も大量なため、毎日のように自転車でさまざまな問屋めぐりとアルバイトが高校時代の日課でした。
熱気球を縫製するミシンも、毎週、大型ゴミの日を楽しみにしているうちにそろいました。高校3年の夏にほとんどの資材が集まり、いよいよ縫製ですが、夜間借りた小学校の体育館に資材を搬入するのに、高校生の私には運搬手段がありません。そこで、8千円のリヤカーを1週間かけて3千円にまけてもらい、その後、自転車につけたリヤカーは片道10キロ程度の移動は日常茶飯事で、資材の移動とともに廃品回収のアルバイトとフル稼働でした。
夢にまで見た縫製は、受験を目前に控えながらも、学友がおおぜい手伝いに来てくれたおかげで毎日18時間ミシンに向かい、ほぼ3週間で形となりました。
縫製の段階で2名の有志が集まり、BALLOONCLUB“RAYLA“(レイラと読み、アイヌ語で風の意)が結成されました。
4年がかりの夢は、その後、調整や手直しに半年を要し、完成したのでした。
初飛行は羊蹄山の麓、真狩村で30分間歯を食い縛って飛行のすえ無事着陸し、気が付くと、仲間はみんな泣いていました。
それから十数年たち、このジョニーエンジェル号は140回の飛行の末、今は眠っています。BALLOONCLUB“RAYLA“は、就職のため解散し、今は愛娘の名になりました。
私の飛行回数も昨年で200回を超えましたが、初飛行の感動は今も新鮮で、まだまだ熱気球からは離れられそうにありません。