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1990年05月号/第38号  [ずいそう]    

九谷焼をめぐって
水田 順子 (みずた よりこ ・ 北海道立近代美術館主任学芸員)

明治初頭にかけて、ヨーロッパにもたらされた数多くの浮世絵版画が印象派の画家たちに少なからぬ影響を与えたことは、よく知られています。当時の日本美術愛好の風潮は想像以上に広まっていたらしく、陶磁やガラス工芸の分野でも新しい芸術様式を生みだすひとつの引き金になったようなのです。

ふとしたきっかけで、加賀の九谷焼が明治の初めころ大量にヨーロッパに向けて輸出されていたことを聞き、ぜひその経緯を詳しく知りたいと思いはじめて、金沢を訪れました。あいまいな知識しか持ち合わせていなかった九谷焼そのものの特質と歴史にも触れてみたいと思いました。美術における東西の影響関係を実証的に考えるには、なによりもまず日本の美術の特質を深く認識していなければならないと痛感していたからです。

さて、17世紀に半世紀ほどで廃窯になった幻の古九谷は、桃山時代の豪快な美術をも思いおこさせ、その雄渾で斬新なデザインに目を奪われました。九谷の生命は、赤、青、黄、緑、紫の五彩を巧みに組み合わせた絵付けにあり(赤を使わない青手と呼ばれる名品も多い)、骨書きといわれる下絵の黒く細い線が全体を引き締める役割を果たしています。1世紀を経て復興を期した再興九谷も古九谷の気風を再生させようとさまざまな試行錯誤がなされたことがわかります。

ところが、輸出向け九谷は、本来のもっとも優れた九谷の色や作風を離れて金をふんだんに使った絢爛豪華な様式にすり変わっているのです。当時、それこそが日本的なものとして彼の地の異国趣味を満たしてきたのでしょうか。技術的には驚くほど精緻に絵付けしたものもありますが、やがて増え続ける需要に対応しきれず、粗悪品も多く流れて行ったようです。

九谷の歴史を訪ねながら、金沢周辺の陶器店を方々歩いてみました。おびただしい観光相手の華美なみやげものの中に、ほんとうに良いものを捜し出すのは容易ではありませんでした。

百年ほど遡る美術の交流についてはもっとさまざまな角度から調べてみなければなりませんが、時代を問わず、せっかく優れて日本的な美意識をもちながら、外国向け、あるいはみやげもの用として、どこか間違った好みの押し付けがおこなわれているようで、考えさせられました。

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