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1990年09月号/第40号  [特集]    函館

73ヶ国の留学生が家庭で生活をともにしながら得た 感動が世界を心と心で結ぶ
北海道国際交流センター 函館

  
 幕末、日米和親条約の調印によって諸外国に港を開いた函館は、北海道でもっとも国際交流の盛んな都市として栄えてきました。それから125年後の1979年、こんどは諸外国の留学生を家庭に受け入れる事業の幕が民間の手で開かれました。最初、16人のアメリカ合衆国留学生のホームステイでスタートした(財)北海道国際交流センター(大 総一郎代表理事 〒040函館市元町14番1号 電話0138-22-0770)の事業は、12年を経た現在までに73ヵ国、2,000人以上が参加する全道的な事業へと成長しました。その活動は、函館を中心とした道民のボランティアに支えられ、たがいに言葉と文化を理解しあい、心と心を結ぶ温かい交流をつづけています。

進駐軍の兵士に「これからは許しあって友人になろう」

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1945年(昭和20)、太平洋戦争も末期に近づいた7月14日、函館地方はアメリカ空軍の襲撃を受け、連絡船12隻、鉄道車両120両が爆撃され、焼失家屋400戸、死者400人に及ぶ被害を受けました。そして、敗戦。1ヵ月半後の10月4日には進駐軍6,000人が函館に上陸して来ました。「市内のすべての家の玄関や窓を閉じてカギをかけるように」という通達が出され、当時、女学校に通学していた佐藤淳子さん((財)北海道国際交流センター事務局長)も学校から「外出は控えるように。もしアメリカ兵と出会っても、目を合わせないように」と厳重な注意を受けていました。

ところが、その翌日だったか、ひとりのアメリカ軍兵士が佐藤さんの家に訪ねて来ました、家族は恐れて、奥の部屋に逃げ隠れていました。佐藤さんの父が出て行って「どうしたのか」と声をかけると、その兵士は「この近くに教会はないか」と尋ねただけでした。

佐藤さんの父は、戦前は客船の船医であり、戦争末期には函館郊外にあった捕虜収容所に徴用されて、栄養失調に苦しむ外国人捕虜たちの診療にあたっていた人です。そんなことから心を開きあい、進駐軍の兵士たちがときどき佐藤さんの家を訪ねるようになりました。

そのなかには、沖縄で日本兵の銃剣に背中を刺されて、深い傷を負っている兵士がいました。佐藤さんの父は「もう戦争は終わったのだから、許しあって、これからは友人になろう」と話しながら、兵士の傷の手当てをしてやっていたということです。

参加留学生に感動を呼んだ初めてのホームステイ

イメージ(日本語・日本文化講座では書道も習います)
日本語・日本文化講座では書道も習います

それから34年後の1979年(昭和54)、早稲田大学の外国人教授から「国際学部に1年間の短期留学をするアメリカ・オレゴン州立大学生に日本語オリエンテーションを実施したいから協力してほしい」と、同大学の卒業生で、当時、函館市の隣町の七飯町に住んでいた秋尾晃正さんに要請がありました。早速、秋尾さんは農協青年部に相談して、16人の留学生のホームステイをボランティアで受け入れることにしました。このとき、秋尾さんの奥さんと友人だった佐藤さんともうひとりが協力することになったのです。

8月に開催した第1回国際交流のつどい―、日本の農家で過ごした2週間のホームステイは参加留学生たちに大きな感動を呼び、その年の12月にふたたび七飯町を訪れて、受け入れ家庭の家族と日本の正月を過ごしたほどでした。

そのときに、受け入れ家庭と留学生双方の強い希望で第2回も開くことになり、この体験を1人でも多くの留学生に味わってもらおうと、全国の大学に参加を呼びかけることになったのです。

1980年は、国際基督教大学のカリフォルニアグルーブを中心に12か国、44人の参加があり、受け入れ家庭も七飯町のほか函館市、森町、大野町など66世帯に広がりました。

受け入れ母体の名称を『南北海道国際交流センター』と決め、この年から国際交流シンポジウムもスタートしました。テーマは「留学生が興味をもった日本文化」「各国の現代学生気質」「国際相互理解の難しさ」「留学生の受け入れ問題」など。それぞれ直面しているテーマだけに、600人の参加者は思い思いの分科会に参加して熱心な議論を交しあいました。

継続を断念しかけたときカンパ資金を贈ってくれて

3年目になると、参加留学生はさらにふえて33ヵ国、148人に、4年目も34ヵ国、150人にふくれあがりました。参加留学生がふえると、それを受け入れる家庭の数もふやさなければなりません。渡島管内だけでは足りず、桧山管内にも足を運んで263家庭を確保しました。

イメージ(国籍を超えて留学生同士の友情もうまれます)
国籍を超えて留学生同士の友情もうまれます

しかし、日魯ビルに事務所を無償で借りましたが、それも手狭になり、諸経費もかさみます。ボランティアと寄付金に頼る運営は、限界にきていました。
「お金もないし、4回もやったのだから、来年からやめよう、とスタッフで話し合ったんですよ」と、ピンチを迎えたときの様子を佐藤さんは語ります。
「その年の交流のつどいも無事すんで、いつものように青函連絡船で去って行く留学生たソを見送りに行ったときです。留学生たちが私たちをとり囲んで『これは、私たちでカンパしたお金です。少ないけど、なんとか頑張って、交流のつどいをつづけてください』といって、55,900円を手渡してくれたのです。5万円じゃ、とてもつづけられないけれど、あのときの留学生たちの気特ちは、ほんとうにありがたかったですね」。

道から財団法人の認可を受け 参加留学生は2,300人に

そんなことがあって、函館市に住む大総一郎さん(ダイカ(株)相談役)のもとに、資金面の援助を要請しました。

「国際都市をめざす函館の将来を考えたとき、この事業はつづけなければならない」と、大さんは国際交流のつどい実行委員のおもなメンバーと相談し、協力をかって出たのです。そして、財団法人の認可を道教委から受け、組織を固めました。道をはじめ、七飯町、函館市などの参加自治体、関係団体、企業などからの補助金や寄付金がより以上に寄せられるようになりました。やがて、活動が全道に広がったことから、名称を『北海道国際交流センター』に改め、財団法人も北海道教育庁認可となりました。現在、理事13人、評議員12人、専従職員6人。それに加えて市内の有志や企業で同センターの後援会、国際交流のつどいの実行委員会もできています。

12年目を迎えた今年の交流のつどい参加留学生は30ヵ国、351人になりました、これまでに受け入れた留学生は73ヵ国、約2千3百人に達しています。

だれもが参加できるようにとホームステイの費用は4万円

イメージ(農家にホームステイした留学生は農業も手伝います)
農家にホームステイした留学生は農業も手伝います

国際交流のつどいに、東京に集合して参加する場合の費用は4万円。これにはフェリーの旅費と傷害保険料、会費や諸経費分が含まれています。函館に集合する東北・北海道からの参加者は12,000円。これで2週間のホームステイとさまざまなプログラムの地域交流を体験するのです。受け入れ家庭での食事は、ホストファミリー側の負担。自分の小遣いのほかは、いっさい不要ということになります。
「この程度の費用でなければ、参加できない国の学生や、私費留学で苦学している学生がたくさんいるのです」と話す佐藤さんには、忘れられない学生がいると話します。「2年前、べトナム難民だったひとりの学生が参加してきました。彼は北海道のホーステイに参加したくて、3年くらいアルバイトをして蓄えたお金でやって来たのです。それは、すばらしい学生でした。いまは神戸にいて、一生懸命ベトナムの文化を日本人に紹介し、ボートピープルでやって来て日本で生まれたベトナム人の子どもに、ベトナムの言葉をボランティアで教えています」。

日本の生活文化と日本語をふれあいのなかから学ぶ

同センターの中心事業は、国際交流のつどいです。毎年8月中旬から2週間のホームステイをするのです。今年は12回目。昨年までに受け入れた外国人留学生は71ヵ国、1,901人でした。今年はさらに2ヵ国が新しく加わリ、30ヵ国、351人が北海道にやって来ました。この留学生たちを受け入れたホストタウンは、延べ14支庁管内95市町村にのぼり、受け入れ家庭は3,247軒に達しています。

今年8月20日の早朝、300人の参加留学生が東京からフェリーに乗船して苫小牧港に到着しました。港にはホストファミリーやホストタウンから出迎えに来たバスや乗用車が待っていました。笑顔いっぱいに初対面のあいさつを交したあと、それぞれの市町村へ。各地では思い思いの交流プログラムを用意して歓迎しました。

網走管内置戸町の場合は、町内2つの小学校で児童との交流をはじめ、新ジャガイモ掘りの労働交流、ふるさと銀河線のビール列車に乗ったり美幌・阿寒の観光地めぐり、自治体対抗ソフトボール大会に参加したりして、楽しい10日間を過ごしました。

昨年までに各地で交流した学校数は延べ1,004校、交流した児童生徒は27万6千人、地域交流人数はじつに106万人を超えています。

イメージ(華道・茶道講座で日本の伝統文化を知ります)
華道・茶道講座で日本の伝統文化を知ります

もうひとつのメイン事業は「日本語・日本文化講座」です。6月から8月までの8週間、ホームステイをしながら集中セミナーを受講するのです。今年は39人が参加し、日本語の学習のほか、生け花、習字、茶道、和服の着付けなどを習いました。日本文化をテーマにした講演もおこなわれますが、すべてが日本語。留学生同士の日常会話も、できるだけ日本詰でとすすめています。期間中に、函館港まつりに参加したのも留学生たちの楽しい思い出のひとつ。今年は赤ふんどし姿で御輿をかついで、市民の大喝采を受けました。函館名物のイカ踊りもすっかり覚えました。修了したあとは、お礼にと留学生たちがボランティアで日本人に英会話を教えて帰ります。

日本人を対象に「日本語教師養成・派遣講座」を開いています。これは日本語教授法を身につけたあとアメリカの大学へ派遣され、そこで日本語を教えながら奨学金を受けて大学院で学位を取得するために学ぶものです。国際交流で得た成果を発表するシンポジウム、日本語スピーチコンテスト、小中学生の作文表彰もおこなわれます。

11月には「アセアン・フェスティバル」を開催します。これはアセアン諸国の映画を巡回上映し、料理講習会や音楽、本の紹介をして、その国々の理解を深めます。また、道内の小学生がマレーシアでホームステイする企画も組まれています。

自分の息子・娘として受け入れるホストファミリー

センターの事業は、参加留学生を家庭に受け入れるホストファミリーの温かいもてなしによって支えられています。外国語が話せる必要はありません。たた、留学生を自分の息子や娘として迎えればいいのです。

イメージ(ホームステイはその家庭の息子・娘として日常生活をともにします(函館・福本さん宅で))
ホームステイはその家庭の息子・娘として日常生活をともにします(函館・福本さん宅で)

函館市内で8年前からホームステイを受け入れている福本克博さん一家には、今年もアメりカ人女子学生のパム・エレン・シャンクスさんが2ヵ月間、韓国の男子学生キム・クアンジュさんが2週間、それにグアムと台湾の学生が3泊宿泊で訪れました。「これまでにうちの“息子と娘”になった外国人学生は、20数人なりますね。福本の家に行けば夜中でも泊めてくれると、大学や学生達に紹介されてやってくるんですよ」と、克博さんは笑います。ところが、たいへんなのは奥さんのほうです。
「最初はゲストとして気遣うものですから神経がすり減って、たった2週間で3キロも痩せてしまったんです。これではホームステイはやれないと思いましたね。それで、自分の2人の子どもと同じように接することにしたんです。すると、すっかり気が楽になって。食事だって特別な気遣いはしません。ふだんのままの料理を出しています」と、照子さんは語り、そばでエレンさんもニッコリとうなづいています。
「うちの子なんだから冷蔵庫も自由に使っていいし、門限だってないもね」と克博さんが語りかけると、工レンさんは「ほんとうの父と母みたいにやさしい」と答えます。

しかし、こうしたホストファミリーが確保できるようになるまでには、佐藤さんたちスタッフのたいへんな苦労もあったようです。
「外国人はこわいとか、言葉も通じないのでどう対応していいかわからないといって尻込みする家庭が多いのです。4、5年目まではホストファミリーを確保するために全道を巡回して歩きました。やっと納得して引き受けてもらっても、事務所に帰ってきてみたら、病人が出たというような口実で断りの電話が来ていることもしばしばでした。ところが、最近では希望者がオーバーして、100軒もお断りしなければならない年もありました。それに、どうしても理解しあえない場合もあるんです。それは人間同士、しかたのないことですから、私は絶望しません。次のときは、必ず心を通じあえる人にめぐりあえるのですから」と、佐藤さん。

「北海道の人たちは温かくて故国にいるような安心感が」

イメージ(2ヶ月間の集中セミナーを終えて、うれしい終了証が)
2ヶ月間の集中セミナーを終えて、うれしい終了証が

2ヵ月間函館に滞在したエレンさんの実家は、アメリカ北中部のメーン州にあります。「北海道の風景が似ているので、とても暮らしやすい」と話していました。しかし、似ているのは風景だけではないようです。熱帯のマレーシアのガン・シャウ・ヤーンさんは「北海道に来ると、すごく精神的に落ち着くのです。それは自分の田舎の気風とすごく似ているからです。何かわからないことがあっても、すぐやさしく教えてくれたり、その場所に連れて行ってくれたり、とても温かい人たちです」。ガンさんは交流のつどいに参加したあと、なんどか函館に来ているうちにボランティアで手伝うようになり、今年も東京からフェリーに添乗して来たのでした。

19世紀から国際交流の歴史がある函館

函館の国際交流には、長い歴史があります、ロシア使節のラクスマンが箱館(現函館)に入港したのは1793年(寛政5)のことでした。高田屋嘉兵衛が箱館を本拠にカムチャッカ海域で活躍したり、ロシアの艦長ゴローニンの受け入れなどがあったあと、1854年(安政元)に日米和親条約、日露和親条約によって、長い鎖国を破り、開港都市となったのです。このころ、港には5隻から8隻の外国船が停泊しており、多いときは千人近くの外国人が上陸したといいます。そして、外国人たちは函館を「ハコダディ」と呼び、町の人たちもスプーンのことを「スピン」、スープを「ソップ」などと、たがいに函館弁なまりの言葉でなんとか会話を交していたといいます。

1858年(安政5)にロシア領事が置かれたのに始まり、イギリス、アメリカ、フランスなど各国領事が着任して外国人居留者もふえていきました、明治期になると、教会が建ち、やがてそれらに付属した学校も設立され、市民の子女も入学するようになります。貿易が活発になり、商店街は洋物店が大繁盛していました。

そんな歴史的背景と函館人の開放的なバイタリティーはいまにも脈々と受け継がれています。

現在、市内には同センターも含めて22の国際交流団体が民間の手で結成され、それぞれ、さまざまな交流活動をつづけています。函館市も、8年前にカナダ・ハリファックス市と姉妹提携をしており、市民のだれもが函館は北海道を代表する国際都市であることを自負しています。北海道国際交流センターがここまで成長してきたのは、けっして偶Rでなかったことが、その背景からもうかがい知ることができます。

“国際交流会館”を設立し間借り生活の解消が望み

創設設12年を経て、いまなお悩みなのは事務所が間借り生活から抜け切れずにいることです。
「3年目に日魯ビルに3坪のスペースを借りて事務所を開設したのですが、テーブルを置くと向かい合って座ることができないほど狭くて、不自由しました」と佐藤さん。まもなく隣にもう1室貸してもらいましたが、手狭な状態は解消されません。東京にも連絡事務所が必要になりましたが、これも個人の家を使わせてもらいました。

翌年、キングベーク社長の石館とみさんの好意で、同社の社員寮の一室を無償で借りました。現在の旧白百合高校の校舎を道から借りて移転したのは1988年のことです。これで日本語・日本文化講座が開けるようになり、さまざなまな行事もこの建物のなかでできるようになりました。しかし、これも老朽化を理由に3年間の期限付きでした。今年、2年間の延期を認めてもらいましたが、それもやがては契約切れになる運命です。

「これからのわたしの最大の仕事は、半永久的に使える事務所を確保すること。いま、このセンターを中心にした国際交流会館の建設運動を起こしているところです、建物さえ確保できたらセンターの交流活動もいま以上に幅を広げることができます。函館の活性化に役立つことなので、なんとしても実現したい」と大さんは意欲的です。その大さんは、いまの校舎を改修するために、先祖代々の土地を売ってその資金を提供しました。

道民と留学生、留学生同士の交流の輪が将来の大きな成果に

「私たちの活動は外国人留学生と道民の交流だけでなく、世界各国から集まる留学生同士の交流に少しは役立っていると思うのです。その成果は、目に見えてあらわれるものではありませんが、やがて彼らはその国の指導的な人たちになっていくでしょう。そのとき、ここで得た人間理解の体験が生かされ、平和な世界をつくるうえに役立ててくれるものと信じています」と佐藤さんは自信をもって話しています。

東京から苫小牧に向かうフェリーのなかで、スタッフたちによって作詞作曲されたばかりの歌が大合唱されました。

えがおもなみだも
わすれずにいよう
あいするこころは
うみをこえていく

すばらしいくにで
みつけた
このことばを
あなたに ささげる
“I LOVE YOU”

この歌詞は英語、中国語でも作られ、最後の言葉は、日本語で「すきだよ」と、中国語で「我愛ニ(ウォー・アイ・ニ)」と、たがいに呼びかけあいます。たいへんな盛りあがりでした。その場で、スペイン語に訳すという人があらわれました。そしてドイツ語に、韓国語に、インドネシア語にと翻訳の輪が広がり、いま、センターのテーマソングとして世界の留学生たちに歌われはじめています。

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