1963年(昭和38)、札幌市が市民憲章を制定しようとしたとき、その成文化にあたっては「市民の願いを土台に、わかりやすく、格調高く、まちの個性を生かしたもの」という条件のもとに論議が交わされていました。そして、ようやく札幌市教育委員長だった字野親美さんの提案で「わたくしたちは、時計台の鐘がなる札幌の市民です」という一章が採用されたのです。
それは、まさに札幌の歴史とロマンを彷佛とさせ、「市民の誇りと自覚を高らかにうたい上げた表現」と、起草委員のひとりだった児童文学の長野京子さんは『さっぼろ文庫(6)時計台」(札幌市教育委員会編)のなかに書きとめています。
開拓使は、1876年(明治9)に開校した札幌農学校(北海道大学の前身)の学生たちにも北辺警備にそなえた訓練をしようと、1878年(明治11)、クラークの後任だったウイリアム・ホイラー教授に命じて「演武場」を建設しました。
その開業式の時、黒田清隆長官は屋上の鐘楼を見てその貧弱さを指摘し、時計塔の設置を思いついたとされています。
「明治10年から20年代にかけて、日本は時計塔時代でした。兵営、官庁、学校、商店、はては遊郭まで時計塔を飾るほどのブームだったのです」と、札幌市文化財保護指導員の武井時紀さんは語ります。ホイラー教授は、それから10日後に、3面に文字盤と鐘の鳴る装置を有し、市内の標準時となるべき正確な時計をという条件を添えて、アメリカ・ボストン市のE・ハワード時計会社に塔時計を発注したのです。
翌年8月、同社から時計機械が到着しました。ところが、送られてきた時計は大きすぎて、とても鐘楼に取り付けることはできません。対策に困った開拓使札幌本庁は東京の黒田長官に指示を仰いだところ「ホイラー教授にきびしく問いただしたうえ、注文違いなら送り返すように」と怒ります。それに対してホイラー教授は次のような大意の陳述書を送って「われわれは閣下の命令を謹んで遵守し、受注会社も閣下の意をたいして製作したものです。注文書は私が作成したが、名義は貴庁になっています」と明快に弁明しています。結局、建物の前部を改造して一辺約3メートルの時計塔を載せ、鐘の重りを下げる地下を掘って機械を据え付け、ようやく1881年(明治14)10月16日に、時計は動き始めたのです。
この時計は、名称を「時打四面重錘式塔時計」といいます。重りで動かすため、運針用には小石を詰めた約50キロの木箱と、錘を打つために玉石を詰めた約150キロの木箱が取り付けてあり、石は豊平川から採取したものといわれています。
文字盤の直径は1.67メートル。分針の長さ85センチ、時針の長さ63センチ、ともに杉材を用いています。
調速機の振り子は、長さ2.55メートルのマホガニー材振り竿の先に鉄の振り球が付いており、周期は約3.15秒です。
鐘は青銅製。銅・錫・亜鉛の合金で、高さ73センチ、底面直径71センチ、重さは約226キロあり、あの美しい音を1日に156回打ち出します。
この時計について、井上和雄さんは製作者のエドワード・ハワードのことを次のように話します。
「彼は幼いときから時計屋に年季奉公に入って時計師としての天才的な腕を磨き、1842年に独立してボストン市郊外のロックスベリーで時計の製造を始めます。1850年、アーロン・デニスンとともにウォルサム市に時計工場を建てました。この工場がアメリカ時計会社、のちのウォルサム時計会社です」。
創立から4年後の1854年、ウォルサムはボストン市郊外のチャールズ・リバーの河畔に待望の理想的な工場を建設します。「ここでつくられた最初のムーヴメントは『リバーサイド』と名づけられました。この呼び名はやがて時計のペットネームに変わっていきましたが、ウォルサムのこだわりによって、ごく限られた高級時計にだけ受け継がれたのです。やがてハワードはウォルサムを退き、ハワード時計会社を設立して、高級懐中時計、塔時計、置時計の製造に専念しました。彼は1863~81年まで社長を務めますが、この間につくられた塔時計のひとつが札幌時計台の塔時計で、製造番号はNo.738と彫られています」。
さらに和雄さんは、この時計の完成度に驚いています。
「父(清さん)もつねに言っていましたが、すべての構造に無駄がないんですよ。それでいて、性能・精度については非の打ちどころがない。各部品の強度計算(耐久性)それは安全率の高さでもあるのですが、驚くほど充分につくられています」。
そして、金属材料の冶金技術の高さも敬服に価すると語ります。
「金属の磨耗・疲労は、すべて冶金技術の優劣で決まるのです。110年を経過した現在でも、先端技術の粋をつくした現代のクォーツに一歩もひけをとらない精度を維持しているのは、そのためなんです」。
また、時計の駆動力が重りであることが、常に一定のトルク(重りの力)を供給するのに優れています。これは円筒に巻かれたワイヤーの先端の重りが、重力の作用で降下するにつれて円筒の回転が起こるのです。
調速機の振り子の振幅が小さいため、周期誤差が少ない。加えて、振り球の重量が重いために慣性モーメントが高く、重力、空気抵抗、振動など外的な乱れの影響を受けにくく、周期(等時性)が安定しているのです。
直進式脱進機を使用しています。脱進機というのは、往復運動を一方向の回転運動に変換するもので、さらに往復運動を維持させるためのエネルギーを与えます。
保力器(メンテニング・パワー)を備えています。重錘駆動式の輪列は巻き上げ中に重りの力(トルク)が伝わらなくなりますが、保力器によってこの間も輸列にトルクを与えるものです。これがないと、時計は止まってしまいます。
優れているのは機械だけではない、と井上さんはいいます。「機械の配置と取り付けをした日本人技術者はすごいと思いますよ。当時、札幌には時計の専門家はいないのに、メーカーの説明書だけを頼りに、あれだけの配置と取り付けをしたのですからね。それがしっかりしていなかったら、とても今まで動いていなかったと思いますよ」。
それには、武井さんも同感しています。「演武場を設計したのはホイラーとされていますが、彼はきわめてラフなメモ書きのような図を書いたにすぎません。それをもとに基本設計図を書き、さらに実施設計図を書いて施工するのは、ぜんぶ日本人です。その中心となったのが、豊平館をはじめ開拓使の主要な建築物の設計をした安達喜幸です。彼は、代々江戸の棟梁の家に生まれた大工さんで、ひじょうに高い技術水準にあった江戸職人の伝統を受け継いでいた人だったのでしょうね」と語っています。
しかし、優秀な時計もメンテナンスが悪ければ、止まってしまいます。
1933年(昭和8)、時計台の隣町内で時計店を開業していた井上清さんは、時計塔の小窓のガラスの破れているのに気づきました。「これはいかん。このままでは機械が錆びてしまう」。清さんは市役所に飛び込んで「時計を診せてくれ」とかけあったのです。
「予算がないから修理はできない」
「金をくれとは言わない」
「奉仕でも、手続きして許可がなければ見せられない」
「冗談じゃない、放っていたら時計が壊れてしまう」
そんな押し問答の末、塔に登ってみると、案の定、機械に錆が出ていました。大工を連れ、家族を動員して内部の掃除から始めたのが、長年にわたって時計台の保守奉仕に身を投じることになるきっかけでした。
それからの50年間、清さんは3日おきの日程で塔に登り、重りのワイヤーを巻き、注意深く機械を点検しつづけました。「時計台通いは趣味ですよ。労働だと思ったらつづけられません。愛情ですね。わたしの生きがいですよ」と語っています。
清さんは、息子の和雄さんが一人前の時計師になって一緒に店の仕事をしているのに、時計台のメンテナンスのほうは、手伝わせることはあってもなかなか任そうとはしません。「ひとによってハンドルの引き方、押し力などが微妙に違うんですね。ですから、同じ人が延々とやっていたほうが機械も人も馴れて落ち着いた感じになるんです。父もそれを知っていたから、からだがつづくかぎり、だれにも任せなかったんだと思います」。そして、和雄さんにようやく全面的に任せるようになったのは1982年(昭和57)、清さんが85歳のときでした。「それでもなんどか塔に登っていました。今も皆無ではありませんが、さすが93歳、ようやくあきらめたようです」と和雄さんは笑います。
和雄さんは、現在、札幌市の非常勤嘱託・時計台大時計保守管理の身分で、文化財保護指導員でもあります、毎日、半日ほど時計台に通い、木曜日と日曜日に自分の力で動力の巻き上げ作業をします。
「なぜ電気巻きにしないかと聞かれますが、手巻きだと機械のいろんな調子がからだに伝わってきて、具合の悪いときもすぐわかるのです。電動だと今はセンサーがあるとはいうものの、機械のどこかに不具合があってもモーターがどんどん巻いて、故障させてしまいます。手巻きなら、すぐ止めて直してやれます。原始的にやっていることの良さはあるんですよ」。
巻き上げハンドルの回転数は、運針が56回、鐘を打つほうは125回です。「なかなか力がいるんですよ。ですから、筋力トレーニングは欠かせません。私は、からだは小さいけれど、腕相僕は強いです。ピンセットしか持ったことのない時計師にはできないことですね。しかし、困るのは時計台の保守をするために腕力をつけると、小さい時計をいじるときに力が入りすぎて、壊してしまうのではないかと気になることです」と笑います。「保守の心構えは、(1)体調をくずさないこと(2)人間のミスを機械に与えないこと(3)故障しないように事前拝見することですね。不可抗力の場台は許してもらえるでしょうが、自分のミスで壊したら切腹ものです」と、真顔で話します。
塔に上がるたびに、決めてある点検個所を回って機械の様子を確認し、注油をしてやります。
時間の調整は、腕時計を電話の時報に合わせておいて、鐘の鳴り出しの音に合わせます。
「誤差は進み10秒までとしています。きょうは、4秒の誤差でした」と和雄さん。
時間の誤差は天候に左右されます。一日のうちでも、急に暖かくなったり寒くなると、瞬間的に狂ってしまう。時計台の時計には秒針はないのですが、そんな日にはすぐ直しに行きます。
「時計が狂わない時代になって、秒単位で時間を合わせないと気がすまないんですね。必ず何秒違うといわれます。大勢の人に見詰められていますから、あれはプレッシャーですね。どだい、100年前の時計と最新型のクォーツとを並べて時間を競うのは無理な話なんでしようがね」と苦笑します。
和雄さんは、時計台の時計は、私の全部です」と断言します。「私の体調も都合も、すべて時計台に通うことが最優先します。ですから、このスケジュールをくずすような旅行をしたことがないのは昔から当然だと思っていますし、酒をすすめられてもお断りしています。なにごとも無理なことはしないほうがいいと思って、ほかのことは怠けているんですよ」。
「世界じゅうの由緒ある時計塔の近所には、必ずそれを守っている人はいるんです。私たち父子もそのひとりにすぎません」と語ったときの和雄さんの顔は、幸福そうに見えました。
その時計台は高度経済成長の波にもまれて、ビルの谷間に埋没しかけています。1962年(昭和37)と1966年(昭和41)に“時計台移転論”が起こり、賛否両論の火花を散らしました。結局、この論戦は1966年(昭和41)の市議会で「現在地での永久保存」を決議して決着がついているはずなのに、今も時折ぶり返されます。そのために、1975年(昭和50)に「時計台をまもる会」(現・九島勝太郎会長)が発足しました。事務局長の河上哲男さんは、かつて、ここに札幌農学校があり、欧米文化・教育の発祥の地なのです。今それを伝えるのは時計台だけです。私たちは、移転論から時計台を守るために日常的に啓蒙活動をつづけているのです」と力をこめて語ります。
武井さんも「時計台がビルに囲まれて可哀そうだというより、それが札幌の発展の生の姿として見るべきです。そして、時計台の移転を主張するよりも、周りのビルを移転させるくらいの発想を持つことのほうが大切です」と語ります。
そして「時計の身になって代弁すると、周りのビルのおかげで長寿を保っていられるのです」と和雄さんは強調します。
「時計の機械は、風雪にも直射日光にも弱いのです。それを周りのビルが適当に保護してくれています。鱗の時計台ビルも、向かいのMNビルも綿密な風圧実験をして、時計台に影響のないように高さにも間隔にも細心の注意を払って建ててくれました。もし、風や日照の強い郊外の公園などに移転したら、たちどころに時計の寿命を縮めてしまいます。時計台にとって、あの場所が安住の地です。昔よりも時計が安定しているのは、そのためなんです」。
そして「このままだいじに世話をつづければ、まだまだ数10年は大丈夫です。人間よりはるかに長寿なのは確かですよ」と語る和雄さんの思いやりが印象的でした。
和雄さんが毎日気づかっているのは、あの鐘の音です。時計台の鐘の音はハ長調のラ。これはイ短調の基音で、日本人にはとくに好かれている音です。
「鐘の音は、毎回チェックしています。ハンマーと鐘の打たれる面との間隔を正確に保っていないと、音色が狂ってしまいます。柱にボルトで取り付けてありますが、それが緩んでいたり、柱の木が変化すると微妙に音が変わるんですよ」。
かつては4キロ四方に聴こえた鐘の音も、今は街の騒音にかき消され、近くでなければ聴けなくなりました。しかし、高階哲夫作詞・作曲『時計台の鐘』のメロディーとともに、あの鐘の音は市民の心に深く染み込んでいます。そして「あの鎌の音が、札幌といふ街の精神です。札幌といふ街が美しいのは、あの鐘の音が美しいからです」と書き残した随筆家・森田たまの想いに、市民は今も共感しています。
札幌歴史館館長 佐藤和良さん
時計台は札幌のシンボルとして全国の人に親しまれ、観光施設としてひじょうにポピュラーです。しかし、この建築物は旧札幌農学校の校舎の一部として3番目に建てられた施設であり、開拓の歴史を今に伝える史跡であるというとらえ方をすることが大切です。
演武場はミリタリーホールとして北辺の警備の礎となる学生を育てるという黒田長官ら開拓使の考えと、新時代を築く優れた人材を育てようとするクラーク博士、そのあとを受け継いだホイラー教授らの意思がここにはこめられています。また時計台は明治21年に札幌の標準時とすることが告示され、つねに市民に正確な時間を告げてきました。
現在、時計台の入館者は80万人におよびますが、そのうち札幌市民の入館者は4%です。それを「札幌市民は時計台に関心がなさすぎる」と話題になりますが、私はお客を案内して来てくれる貴重な数だと思っています。そして大多数この周辺に来たときに、チラッと時計を見たり鐘の音を聴いて「ああ、自分たちの時計台は健在でいるな」と安心して通り過ぎて行きます。
時計台は市民にとって空気のような存在であり、市民生活の中に定着しています、このかけがえのない施設を、私たちは貴重な文化遺産として永久に守っていくために努力しようと思っています。