江差の街は、海を見下ろしている。かわらぶきの屋根、土蔵づくりがそこ、ここに残る街並みは、海岸からゆるやかに丘へとつらなる。
江差の街は、海へせり出している。かもめ島を前におき、南から北へ、視界いっぱいに広がる日本海。この港から、どれほど多くの人びとが船出したことだろうか。
早朝。江差の海は凪いでいた。風ひとつ吹いていない。カモメだけが、あァ、あァとせわしなく鳴く。
ここ、江差に港が開かれたのは鎌倉、室町時代――歴史をさかのぼること450年から630年前という。
江戸時代・松前藩政期には、北海道最大の商業都市として港は交易船で埋め尽され、その繁栄を背景に生み出された豊かな民俗文化は、いまなお、街の人びとのくらしに根づき、大切に伝承されている。
道内の民俗文化財は、国、道から指定されているものが10件。そのうち7件が江差町にある。まさに、北海道の民俗文化のふるさとといえる。そして、なかでもひときわ知られているのが江差追分である。
独特の小節(こぶし)、深い情緒と哀調を帯びながらも、格調高く、はりつめた緊張感につらぬかれて唄われる江差追分。「いまや、日本を代表する民謡」と、北海道の民謡研究を積み重ねてきた須藤恭央氏(NHK札幌)は高く評価している。
この唄を、二百数十年の歳月をかけてつくり出し、伝え、育て上げてきたのは、どのような人びとだったのだろうか。その姿と心をまず、江差の街に求めてみた。
「この江差町は、ニシンを中心とする交易で栄えた港町なんです。ニシン漁場で栄えたとよく誤解されるんですがね」と町史編纂委員の宮下正司氏。
豊富な蝦夷地の水産資源、とりわけニシンは松前藩、藩財政の基礎であった。そして、ニシン漁の多くを担ったのは、大商人である場所請負人のいわば下請け、“二八取り”とよばれ、江差とその周辺に居住する中小漁業経営者たちであった。海が明け、ニシン漁が近づくと、“二八取り”は、雇い入れる漁夫・ヤン衆たちへの給金、漁具・資材、食料などを自己資金では賄いきれないため、江差の問屋、回船屋からの“仕込み”をうけて、奥蝦夷地へ向かった。“仕込み”はとれたニシンで決済された。
ニシン漁前には“仕込み”で。漁が終わると奥蝦夷地から運び込まれるおびただしい量のニシン、その買い付けに集まる北前船。さらには懐が重くなったヤン衆たちも上陸して帰国の船を待つ。江差の浜は、ふくれにふくれ上った。
これが「江差の5月は江戸にもない」と歌われた賑わいだったのである。
江差の春は賜わった。しかし、その繁栄を支えた人――船頭、舟夫、漁夫や、地元に住む漁民、職人、商人たちは、必ずしも、蝦夷地へ望んできた人ばかりではない。
出稼ぎにいくしか食べていけない農家の二、三男たち…郷里に帰っても仕事のめどが立たない人たち…。津軽、南部地方が飢饅の年には、蝦夷地に、どっと人が流れ込んだという。
蝦夷地のくらしも、決して楽なものではなかった。仕事は危険をともない、ニシン漁は昨年大漁にわいたかと思うとことしは不漁に泣いた。蝦夷地の冬は寒く、日本海から吹きつける風は厳しかった。労働が激しければ激しいだけ、異郷の地の気候風土が厳しければ厳しいだけ、人びとは、遥かな故郷をしのび、唄にその心をたくしたのではあるまいか。
“ニシンの春”の賑わいと繁栄、一方ではきびしい生活とのたたかい―その中で、いくつかの、すぐれた唄が、民俗文化が育まれ伝承されていったのである。
宮下氏はいう。
「江差追分の代表的なものに
かもめの鳴く音にふと目をさまし
あれが蝦夷地の 山かいな
というのがあります。これは、仕事や新天地を求めて、北海道へ渡ってきた人たちの心情を歌った唄なんですね。
故郷をはなれ、とうとう、こんなに遠くまで来てしまった。ああ、あれが蝦夷地だ。もう、なにがなんでもここで生きていくしかないんだという期待や不安がこめられているんです。
忍路、高島およびもないが
せめて歌棄 磯谷まで
当時、神威岬以北は女人禁制であったため、女房、あるいは馴染みの女たちは、ニシン漁に男一人を送り出さねばならなかった。これは、その苦しさ、辛さを歌った唄です。せめて歌棄、磯谷まででもいいから一緒に行きたいという気持がこめられているんですね」
「追分」というのは、そもそも道が左右に別れている所、分岐点の地名から由来している。そして、「追う」という言葉には「親しいものに追いつく、従っていきたい」と願う気持ちの意味があり、追分節は無数の人々の惜別の情を歌いあげた唄なのだ。この港町も、ただ、人が集まるだけではなく、また、別れの場所でもあった。
北海道指定民俗文化財の「横山家」を守り、古き良き時代の江差商家の生活を伝えている人がいる。横山家の女主人である横山けいさんだ。
「いま思えば申し訳ないことですが、追分を歌うことにも昔は階級がございました。働きにきた人たちが歌う唄でしたのでね。私ども、主人側は聴くだけで歌いませんでした。」
けいさんが子供のころはもう、ニシン景気は去っていた。しかし、なにか宴があると追分が歌われていた。そのほとんどが別れの宴であったために、子供心にも追分という唄は悲しい唄なのだと記隠しているという。
「ランプの光の下でお酒を飲みながら、大人たちが涙で頬を光らせて歌う唄は、せつせつともの哀しい唄でした。
泣いたとて
どうせ行く人 やらねばならぬ
せめて波風 おだやかに
この歌声はもう忘れることができません」そうした中で、みんなが追分節を大事にし、それぞれ、自分が愛する唄・歌詞を自分の持ち唄として持っていた。別れの席や大きな仕事がすんだという時に歌った。その時に唄に込められた情感には、どれほどのものがあったであろう。
「当時の追分は今のように、何分間で歌うなどといった決まりもなく、もっと情緒があったように思います。唄が長い人もおりましたし、息のつぎかたもそれぞれ違っておりました。
今の方が音楽的には完成しているのでしょうけれど、子供のころに聴いた追分は、もっと悲しいといいますか、エレジーだったように思います」
江差の問屋、回船屋の旦那衆はよく宴の座敷で追分を歌わせたという。賑やかであるはずの酒の席でなぜ、こんなにもの哀しい唄を、と不思議だった。しかし、思い返してみると、彼らにしても追分にこめられた心は、決して他人事ではなかったのである。いまでこそ繁栄の中心に座を占めているとはいえ、ほんの一昔前、あるいは数代前のわが身はどうであったか当時の心情をしのび、追分の歌声にわが心を重ね合わせていたのではあるまいか。
江差の商人たちは、蝦夷地に住みつく在郷商人が中心であった。その点では、城下町福山や幕府直轄支配地・箱館の商人が、本店を近江など本州出身地に置く出張(ではり・出店)商人であったのとは大きく性格が異っていた。農家の二、三男に生まれ、商家の奉公人、手代となり、蝦夷地で店を任され、やがて独立という道をたどった人が多かった。
このような商人たちであったからこそ、追分の心をしのび、江差の地に豊かな民俗文化を育てる担い手の一員となりえたのであろう。
北前船(きたまえせん)と呼ばれる交易船は、冬に大阪湾を出て、春に瀬戸内海を回って塩を乗せ、日本海へ出て若狭、北陸、奥羽を経て米や酒を積み、蝦夷地へと北上した。そして、こうした生活物資とともに、船頭、舟子たちを通じて、各港から見聞きしたさまざまな文化を運んだ。江差追分の種子もそのひとつであった。
江差追分の起源は諸説あるが、長野県の北佐久地方を中心とした馬子唄にはじまるというのが定説になっている。中仙道の追分宿で歌われた馬子唄が、旅人や飯盛り女たちによって越後に伝えられ、山の唄が海のしらべをおび「越後追分」が生まれ、やがて船頭衆や舟子たちに歌いこまれて蝦夷地に運ばれ「江差三下がり」となって歌われるようになった。一方、伊勢の「松坂くずし」が越後に入り、松崎謙良が編曲し広めたといわれるケンリョ節が江差に伝わり、この二つの唄を母体として、さらに北海の荒い波濤や愛別離苦などが加わって、独特の情緒、哀調をもった「追分節」が作られていったのだろうと考えられている。
始祖といわれているのは、当時(1680年代)江差の町を門付けして歩いた美声の佐ノ市と伝えられている。
追分のはじめは 佐ノ市坊主
芸者のはじめは 蔦屋のカメ子
と古謡にもうたわれているが、佐ノ市については琵琶法師であるとか、隠密であるとか諸説あり、実在の人物なのかどうかも確証はないが、江差追分誕生の重要な役割を果しているのは否定できない。
やがて追分節は江差の繁栄とともに、ひとつは浜唄、浜小屋派となり、漁夫の浜流し唄として、もうひとつは座敷唄、詰木石派、新地派として船頭・親方衆に歌われ発達した。また、花柳界では艶節を加えたものを芸者節と称して流行していく。
これらは古調追分節といわれ、現在の正調追分節の元唄になっている。
繁栄を誇った江差も、交通機関、とりわけ動力船の発達から、小樽、函館、札幌へその座を明け渡していく。近郷のニシン漁も、明治30年に入ってから、ぱたりととだえる。
経済の衰退、その中で沈滞していく人びとの心に新風をおこそう、郷土の誇り・江差追分を見直そうという人びとが出てくる。三味線の師匠で詰木石派に属した小枡ばあさんに師事した平野源三郎、尺八の小路豊太郎らである。
明治42年(1909)、「正調江差追分節研究会」が結成された。五節の古調が七節歌いに創作され、「正調追分節」の形が整えられる。伴奏もそれまでは三味線が主流だったのが尺八の幽愁の音色へと代わり、この感傷的な竹の音がさらに追分の性格を浮き立たせた。
「この時、それまでの江差追分から芸術的に練り上げられた完成度の高い歌、もはや民謡というよりむしろ、大衆的芸術的歌曲に創作されたといえるでしょう」と北海道教育大学・音楽科の谷本一之教授はいう。
江差町・追分会館で、古調と正調の追分節を聞き比べてみた。古調追分節は正調の元唄とは思えないほど、なだらかで、まさしく山の唄であった。正調の方は、海の動、激しさである。高低起伏に富み、哀調が土地の自然、風土ととけあっている、谷本教授によれば、一つの民謡がこれだけの変遷を一気にとげるのは例がないという。追分節の実演も聞いてみた。紋付、袴姿で立つ姿には格式がある。両手を握りしめて、顔からは汗が流れていた、高い緊張感が聞き手にも伝わってくる。目を閉じていると、打ち寄せてくる波、引いていくさまなどが浮かび、なるほど、海の唄だった。
難曲である追分の普及と指導に半生をかけた人もたくさんいる。初代近江八声氏もそのひとり。氏はだれでも歌えるようにとバイオリンをひいて曲譜を工夫し、タクトを振って教えるという独自の指導法を編み出した。成人学校や江差高校にも出稽古し転勤で出入りの多い役所関係の人たちに「追分は荷物にならない土産だから」と熱心に指導したという。現在では、息子さんの二代目近江八声氏(第1回全国大会優勝者)が志を受継いで、後進の指導にあたっている。
「先代もそうだったと思いますが、この歌の魅力は、やはリ波の調べに人間の喜怒哀楽の気持ちをあわせて歌っていることでしょうね。昔の楽しみったらたまに酒を一杯飲んだり、ささやかに唄を歌うことぐらいしかなかったんでないでしょうかね。だから唄にも哀愁があったし。みんな、追分を歌うための“かんごえ”っていう響きのある声を出すために、かもめ島とかでね、北西の海に向かってのどから血がでるまで声をだしたもんです。
地元では「追分を歌いなさい」という言い方はせず「ほれ、一つ、のせ、のしてみろ」という。腹に力を入れて、一つふんばってみろという意味だそうだ。
現在、江差町には9つの追分道場がある。その支部は全国各地に広がリ、会員は4千人とも5千人ともいう。町内で道場に通う人は6百人。人口が札幌市の、100分の1なのだから、札幌市にあてはめると、6万人規模の人たちが、日夜、練習を重ねていることになる。
毎年9月、江差町で江差追分全国大会が開かれ、ことしは第22回を迎える。200人をこえる参加者は、大会の1週間前から江差に泊り込み、江差の海に向かって最後の仕上げをするという。そして、全国大会参加者は、本当に怖いのは、審査員より町の聴衆だという。しくじれば、会場内からすぐに溜息などの反応が出、優れていれば、拍子喝采がわき起こるという。大会場内ばかりでない。大会の全期間、会場の様子は町内に街頭放送される。町民が、仕事のかたわら演奏に耳をかたむけ、そのよしあしを話し合っているというのだ。たとえ「私は歌いません」という人びとでも、追分を聞く耳は、常にみがかれていく。
江差追分には、追分道場や全国大会はあるが、プロの歌手はいない。師匠たちは、江差の街でそれぞれ道場を主宰しながらも生業は別にある。それは「プロになると、どうしてもキレイに歌おうとする。しかし、追分は限りなく奥が深く、自分の唄に酔っていられないからだ」と皆が答えた。
幼いころから江差追分を耳にして育ち、わが街の唄として愛してやまない人びと。江差追分の心を受け継ごうと、日夜、研鑚を積み重ねる人びと。江差追分は、江差町民の心の中に、しっかつと根づいているのであった。
国道ぞいに、江差追分会館が、昭和57年(1982)に完成した。番屋風のデザイン、ゆとりのあるレイアウト。木造の役場庁舎と比較にならない、現代的な建物である。
町を訪れた年間3万人の観光客が足を運ぶ。江差の町の歴史と追分の変遷を豊富な資料で示す資料展示室。百畳敷の演示場では、地元の師匠たちが交替で出演、江差追分、江差沖揚げ音頭など、郷土の民俗芸能を演奏している。「1人でも多くの人に、江差追分を知ってもらいたい」という町民のねがいが、ここに示されていた。
最初は馬子唄という山の仕事唄であったのが、北国で海の調べを帯び、一方では座敷歌となり、やがて他には例を見ないほどの発展を遂げて、全国に広がった江差追分――この唄は、江差町民がいる限り、その光を失うことはないであろう。(写真 千葉茂、江差観光協会)
〈前歌〉
国を離れて蝦夷地ヶ島ヘヤンサノエー
幾夜寝覚めの浪まくら
朝な夕なにきこゆるものはネ
友よぶかもめと浪の音
〈本唄〉
かもめの鳴く音にふと目をさまし
あれが蝦夷地の 山かいな
〈後唄〉
沖でかもめのなく声きけばネ
船乗り稼業がやめられぬ〈以下前唄、後唄はそれぞれにあるが省略〉
忍路高島及びもないが
せめて歌棄 磯谷まで
荒い波でもやさしくうけて
心うごかぬ 沖の岩
泣いたとてどうせ行く人やらねばならぬ
せめて波風おだやかに
恨みあるぞえお神威さまよ
なぜに女の足とめる
櫓も櫂も波にとられて身は捨小舟
どこにとりつく島もない
蝦夷は雪国さぞ寒かろう
早く御無事で帰りゃんせ
松前江差の鷗の島は
地から生えたか 浮島か
紫の紐にからまるあの鷹さえも
落つりや蝦夷地の藪に住む
恋の道にも追分あらば
こんな迷いは せまいもの
雪にたたかれ嵐にもまれ
苦労して咲く寒つばき
板一板 下が地獄のアノ船よりも
舌の二枚がおそろしや
江差の5月は江戸にもないと
誇る鰊の春の海
江差三下り(北海道無形民俗文化財)
追分節の元歌の1つ。江差の花柳界で唄いつがれてきました。文化年間に踊りが振付けされ、その後、明治初期に江差商人の芸好きを現した道行き姿で今日に伝承されています。
江差沖揚音頭(北海道無形民俗文化財)
建網にニシンがのると船をこぎだして網をおこし、大タモでニシンをくみ出し、前浜までこぎ帰るというニシン漁の出船から帰港までの様子を労働形態に即して忠実に歌ったものです。
江差餅つき囃子(北海道無形民俗文化財)
ニシンで栄えたころ、年の瀬が近づくと親方衆は1軒で5俵、10俵、夜通しで餅をついたといいます。ひと晩でつくのは大変で、囃しやユーモラスなしぐさを取りいれ、眠気や疲れに負けないようにしたということです。
五勝手鹿子舞(北海道無形民俗文化財)
その昔、ヒノキを伐採していた杣夫の山岳信仰として伝承されてきたものです。青、赤、黒、白の雄鹿子4頭が1頭の雌鹿子を争い、闘い、和解していく勇壮で格調の高い踊りです。