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1991年03月号/第43号  [特集]    上士幌

雄大な東大雪を背景に農業青年たちが 夢と冒険に情熱を燃やす大空の華麗なロマン
大空に舞う熱気球 上士幌

  
 紺碧の大空に色鮮やかな球体がいくつもいくつも舞う熱気球は、夢とロマンにあふれるスカイスポーツです。大雪山国立公園南東部に広がる農業地帯・上士幌町に、それはいまから18年前、京都大学の学生たちによって持ち込まれました。やがて地元の農業青年たちに愛好され、現在ではわが国でもっとも熱気球の盛んな町のひとつに成長し、この2月28日からは第7回熱気球日本選手権大会が開かれるまでになっています。そこで、農業と熱気球に情熱を賭けて両立させてきた地元のバルーニストたちと町の取り組み、そしてのどかで冒険に満ちたフライトのだいご味などを聞いてみました。

大雪山国立公園のなかに日本一広大な牧場のある町

上士幌町は帯広市から国道241号を北へ35キロ、最短距離の太平洋、浦幌町の海岸線からは65キロ離れた内陸部に位置しています。平野部の海抜は280メートルの丘陵地帯。町の面積約696平方キロの4分の3は大雪山国立公園の南東部に含まれる、大自然に恵まれた町です。

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人口は2200世帯、6600人。このうち農業と酪農世帯は約300戸。農用地の60%が畑地で、ジャガイモ、ビート、豆類を産し、40%は牧草地。牛は約1万4千頭が飼育されており、とくに、市街地から11キロほど西の町営ナイタイ高原牧場は1千7百ヘクタールの牧草地が広がり、3千頭の牛馬が放牧されている日本一広大な牧場です。

観光資源も豊かです。夏の舟遊び、冬のワカサギ釣りで知られる糠平湖。その湖畔にひらけた糠平温泉をはじめ、幌加温泉、亀の子温泉があり、東大雪の秀峰ニペソツ山、石狩岳、音更山、ウペペサンケ山など2千メートル級の山岳が峰を連ねています。

十勝平野の上空で年に3回繰り広げられるフェスティバル

イメージ(地元の農業青年をはじめ、全道全国のバルーニストが集う華麗な空のフェスティバル)
地元の農業青年をはじめ、全道全国のバルーニストが集う華麗な空のフェスティバル

牧草地や畑地が広がる平野部は北海道第2の十勝平野に連なり、朝夕の風は年間通じて穏やかです。この恵まれた地理的条件と気象条件のもとで、8月に熱気球フェスティバル、1月に上士幌バルーンフェスティバル、そして3月には熱気球日本選手権大会を開くなど、上士幌はわが国の熱気球のメッカと呼ばれるまでになっています。夏のフェスティバルは昨年で18回、地元のバルーニストたちが心おきなく楽しむ1月の大会は今年で第10回を数えました。

そして、昨年から地元上士幌町と上士幌気球連盟(糸島寿一会長)が中心になって開催している第7回日本選手権大会が、まもなく幕を明けようとしています。この大会選手にエントリーしているのは全国各地のクラブから集まる60機と、アメリカ、イギリス、オーストラリアからの3機。2年に1度開かれる世界選手権大会出場の夢を賭けての熱い戦いが繰り広げられるため、いま町民挙げてこの大会を成功させようと燃えています。

この町で初めて気球をあげたのは本州の学生たち

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上士幌の空に熱気球が舞うようになった始まりは、20年前にさかのぼります。牧場を経営する那須襄太郎(なすじょうたろう)さん(54)のもとに酪農実習に来ていた京都の横江君という学生が「妹の所属する熱気球クラブがアフリカのケニアで飛んでいるが、北海道あたりに日本の基地が求められないかと言っています。もしそれができたら、必ず将来は観光の目玉になりますよ」という話を持ち込んできたのです。その2年後、こんどは京都大学の物理学教室の学生で、戦後日本で初めて手づくりの気球を作り、のちに日本気球連盟の創設者となる島本信雄さんを同伴してやって来ました。島本さんらは3回にわたってこの町の気象条件などを徹底的に調査した結果「大丈夫のようだから、西地区の大規模草地育成牧場から飛ぼう」ということになりました。

しかし、那須さんにとって心配なのは、放牧している牛や馬が驚いて暴走することはないかということ。島本さんらの話では「ケニアでは猛獣が近寄って来たほどだから、牛もたぶん逃げないだろう」ということでした。「とにかく、やってみよう」ということになり、1974年(昭和49)7月末に京都など本州から5機の気球がやって来て、記念すべき第1回熱気球フェスティバルを開催することになったのです。

ところが、前日に集中豪雨に見舞われて宿泊先の山荘は冠水、道路も至る所で決壊するという災害に見舞われて、初日は中止。しかし、なんとか飛んで帰りたいという一心から、翌日、朝霧の立ちのぼるなかで4機がともかくも飛び立ちました。見物に来ていた町民は、色鮮やかな機体が上士幌の空を通過するのを見て「おおっ」と歓声をあげ、面倒をみつづけてきた那須さんも、ほっと胸をなでおろすのでした。

牛馬は暴走し、作物を荒らして町民から非難が続出

それから毎年、フェスティバルは継続されました。しかし、町民側は必ずしも好意的ではありませんでした。

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「牛や馬が暴走するのじゃないか」「牛がバーナーの焚く音に驚いて、乳の出が悪くな驍フではないか」「観光に役立てると言ったって、うるおうのは商店やサービス業者だけ。農家は害を受けるだけだ」。また、当時の学生たちに長髪が多かったこともあって「町の若者が感化される」という声も。さらに、アルバイトをしながら自作機をつくってフライトを楽しんでいる学生たちの経済的負担を少しでも軽くしてやろうと、那須さんが町から助成金を引き出していたこともあって「よその道楽学生に、町の税金を使うとはなにごとか」という非難も続出するありさまでした。そして、その心配どおりのことが起きたのです。

ある年、滞在期間中、来る日も来る日も風が強くて飛ぶことができない。とうとう我慢できなくなったあるチームが強風をついて飛び立ってしまったのです。案の定、高く上がることができず、低空をかなりのスピードで飛んで行きました。ちょうどそのとき、朝の搾乳を終えた20頭ほどの牛が放牧地に向かうところでした。突然、カラマツ林の陰から球径20メートル余りもの物体が現れたため牛がパニック状態になって暴走し、付近のジャガイモ畑やデントコーン畑をめちゃめちゃにしてしまったのです。

牧場の中に着陸して、帰りに牧棚を閉め忘れたために牛が逃げてしまったことや、小豆畑にランディングして何株もの苗を荒らしたり、牧草地に車を乗り入れて踏みづけるなどの被害が出て「気球をやる連中は牧草を作物だと思っていない」と憤慨する酪農家もいました。そのたびに、那須さんは学生たちを伴って詫びて回るのでした。

しかし、被害を少しでも弁償しようと、なけなしの持ち金を集めて差し出すのを受け取らずに「こんどから気をつけて、やれよ」と許してくれる人。「まあ、上士幌の牛乳でも飲んでいけや」とねぎらってくれる人。直接会ってみると、この町の人たちの温かい心に励まされることもしばしばでした。

やがて地元の農業青年たちがバルーンクラブを結成して

そんななかで、夏のフェスティバルは年々盛り上がり、参加機数はうなぎのぼりに増えていきました。1978年の第5回フェスティバルの参加は25機、200人。この年に、地元の青年たちによって熱気球サークルをつくろうという機運がはじめて具体化しました。

「なんどか乗せてもらっているうちに、熱気球というのは、いいものだな思うようになりましたね。あんたたちもやりなさいよ、と誘われて自分たちもクラブをつくりたくなったんです」と話すのは、現在、上士幌気球連盟の事務局長として活躍している山本弘一さん(39)です。

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那須さんを含めて10人の若者たちが集まり、自分たちの気球を持とうということになりました。このころの多くは自作機ですが、自分で作るには高度な数学計算力や力学の知識が要求され、しかも学生と違って農業や酪農の仕事の片手間に作るのは時間的にも無理です。そこで資金を出し合ってイギリスから気球を買うことにしました。しかし、一機450万円もする高価な買い物です。いくら農業後継者とは言っても右から左に出せる資金ではないため、とりあえず銀行からの借り入れで調達することにしました。

出来上がってきた気球は、高さ20メートル、横幅10メートル、容積2,560立方メートル。黄色とチョコレート色のストライプが鮮やかなパンプキンタイプと呼ばれるカボチャ型の気球で、さっそく「アースウィング号」と名付けました。しかし、肝心のパイロットが地元にはいません。日本の女性第1号パイロットの市吉トシコさんを東京から招いて訓練に励み、1980年の第7回フェスティバルに地元機としての初参加を果たしました。パイロットは市吉トシコさん、クルーとして搭乗したのは、地元の山下暁彦さんら。メンバー全員がグラウンドクルー(地上員)などで大活躍でした。

なによりも喜んだのは町民たちです。いままでは“よそ者の大会”で、地元は縁の下の力持ちばかり務めてきただけに、アースウィング号が大空に浮かんだときは、思わず歓声が起こりました。そして、このときを境に、これまでともすれば冷やかな目を向けていた一部の町民たちも、熱気球に対する認識を変えていきました。

翌年はミルキーランド、ひがし大雪と地元のバルーンクラブが相次いで生まれ「アースウィング号」につづいて「すずらん号」「すいせい号」の3機が競技に参加しました。また、本州勢のフライト技術も向上し、マナーにもじゅうぶん配慮するようになって、地元の苦情は目に見えて少なくなっていったのです。

現在は上士幌バルーンクラブ(那須襄太郎代表)グリーンランド十勝バルーンクラブ(泉田耕作代表)ひがし大雪バルーンクラブ(曽我誠代表)ミルキーランドバルーンクラブ(糸島寿一代表)バルーンメート(清水栄作代表)の5グループ。気球の数は、町と(株)熱気球上士幌町観光公社の分を加えて11機あり、主婦や若い女性クルーを含めて60人近いバルーニストたちが大空のアドベンチャーを楽しんでいます。

プロパンガスとバルーニストの熱気をはらんで浮かぶ空の美少女

イメージ(大空は冒険とロマンの世界 若者たちの夢は熱気球ともにふくらむ)
大空は冒険とロマンの世界 若者たちの夢は熱気球ともにふくらむ

熱気球は、球皮とゴンドラとバーナーに分けられます。球皮は耐熱布を使った下端の開口部を除いて、ナイロンやテトロンの化学繊維でできていて、熱気が逃げないようにアクリルやウレタンでコーティングし、張力に耐えられるようじゅうぶん強度計算をして作られます。形は、より小さい表面積で最大の浮力が得られる電球型がほとんど。傘の骨組みのようにテープを縫い付けて、荷重を支えています。これが膨らむとカボチャのような形になるため、パンプキンタイプと呼ばれます。

人が乗るゴンドラは籐でできています。ふつうは1辺が1メートル前後の箱型ですが、三角形もあります。ここにはパイロットやクルーのほかに、軽量化されたプロパンガスの20キロボンベが4本程度、それに高度計、昇降計、温度計などの計器が積まれています。気球の大きさは、3人乗りの場合は高さ20メートル前後、横幅17メートル前後ですが、1人乗りから20人乗りくらいまで、大きさはさまぎまです。

熱気球の心臓部は、バーナーです。ふつうはステンレス製のシングルバーナーで、家庭用と同じプロパンガスを用いますが、家庭用レンジの150倍もの勢いで燃焼させるため、20キロボンベは40分のフライトで使い果たしてしまいます。ですから、1時間飛行すると家庭の1ヵ月分のガスを消費することになりますが、燃料代は8千円程度と、比較的安い費用で飛べます。

飛行方法は、このバーナーで空気を熱して球体の中の空気を軽くして浮力を得ます。ですから、空気の温度を上げるほど高く上昇することができるわけです。

ランチサイト(離陸場)に到着して折りたたんだ気球を広げ、バーナーを横に向けて焚き始めてから20分ほどで気球は満杯に膨らみ、離陸可能になります。飛行中はバーナーをON、0FFさせて気球内の温度を調節し、高度を変えていきます。

競技はスピードレースよりも安全・正確に飛ぶかが勝負

上士幌をはじめ、世界じゅうでおこなわれる競技にはスピードレースはほとんどなく、より正確、安全に目的地に近づくかを競います。1月に地元のバルーニストたちが中心になって楽しんだ競技は、キツネ狩りと呼ばれるフォックス・アンド・ハウンズでした。ターゲットを探しあてて空中からマーカーを投げ落とし、その距離によって得点を競うものです。同じような競技にヘア・アンド・ハウンズ(野ウサギ狩り)ウルフ・ハントなどがあり、いくつかの競技を組み合わせた複合タスク(競技)のほか、さらに上級大会では高度な飛行技術を要求する競技がおこなわれます。

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一方、長距離飛行にだいご味を求める人もいます。中学生時代に熱気球の魅力にとりつかれて自作機ジョニーエンジェル号をつくり、上士幌のバルーニストとの交流も深い八戸朗夫さん(30=札幌)は、日本第3位の長距離飛行記録を保持しています。1984年に、上士幌のランチサイトから別海町の友人宅の敷地までの154キロを無着陸で飛んだのです。飛行時間は4時間38分。日本の最長距離は418キロですが、無着陸飛行は八戸さんの記録が最長だろうといわれています。

「1年がかりで過去5年間の高層気象をコンピューターに入力してチャートグラフをつくり、何月何日がもっともフライトに適した日かを割り出していきます。それが決まると、仲間と手分けして何カ所ものエリアに飛行許可申請を提出します。そして万一、不時着した場合の救護対策、無線機の点検など万全の準備を整えて飛ぶのです。層雲を突き切って高度1万フィートまで上昇し、再び雲を突き切って下降する。ようやく目標の町が見え、道路が見え、1軒1軒の家並が見え、そして出迎えの友人が下で手を振っているのが見えてくる。そのときは、やはり感動ですね。そのアドベンチャー性が、ぼくにとっては最大の魅力です」と語ります。

自然を自分のものにして三次元の世界に遊ぶ魅力

熱気球は、風まかせに飛んでいるのではありません。バーナーを焚いたり消したりしながら高度を変え、目的地に向かって吹く風をとらえて気球を導いていきます。

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「人間は、だれもが自由に空を飛びたいという夢を持っています。風をよむために感覚をとぎすませ、バーナー操作の技術だけで上下、水平にと自由に三次元の世界に遊ぶことができるんです。数千フィートも上昇する。上士幌の町など手のひらに入るほど小さくなり、防風林で碁盤の目のように区切られた十勝平野の彼方に太平洋が光って見えます。雲の上に行くと、その雲に気球と自分の影が虹色の輪に包まれて見えるブロッケン現象にも出会う。じつに幻想的で、自分が雲の上の人になった痛快さを感じます」と語る山本さんは「1年じゅう自然の中で働いている農業青年は、風をよむのがうまいですよ。私は40ヘクタールの畑作を経営していますが、農作業にも熱気球にも情熱を燃やす。それが生きがいにもなっていますよ」と眼を輝かせます。

熱気球を操縦するには、現在はパイロットの資格が必要ですが、クルーは資格がいりません。離着陸の衝撃もほとんどなく、上空では風といっし蛯ノ飛ぶため風圧を感じません。だから、真冬でもほとんど寒さを感じない、安全でのどかな乗りものです。「足もとに360度の風景が見えるって、不思議な気持ちになります。自然と一体になって空を飛ぶのは、ほんとうにすばらしいことです」と、女性にも適したスポーツであることを強調する狩野さおりさんは、クルー経験3年目。パイロットの資格を得るための訓練中です。

夢は世界選手権大会を開き日本一のバルーンのまちに

上士幌バルーニストたちの夢は、わが町で世界選手権大会を開くこと。一昨年、佐賀市で第9回世界選手権大会が開催され、昨年は太平洋選手権とレディースワールドカップも開かれ、上士幌は国際大会に遅れをとっています。フランスで開かれた第5回世界選手権を視察に行った中川吉明助役と那須さんは、北海道地図50冊と上空の写真を36ヵ国の代表に配ってピーアールしたこともあります。しかし、市と県が一体になってすすめる佐賀と十勝の小さな町との力の差は歴然としています。

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しかし「将来は必ず上士幌で」との意欲を失ってはいません。そのためにも、こんどの日本選手権大会を成功させようと意欲的に取り組んでいます。だが、その準備がたいへん。町の商工観光課の職員と地元クラブの全員が分担しても人手不足はカバーしきれず、延べ420人にのぼる競技役員、オブザーバーの確保に苦戦しています。しかも自分たちは裏方に徹し、晴れの競技にはほとんど出場できない。2ヵ月も前から連日連夜の準備作業は、ボランティア活動の限界と矛盾の壁にも突き当たります。しかしそれらの解決は今後に残しつつも、空に賭けた夢、わが町の活性化のためにと気持ちを奮るい立たせて頑張り抜いています。

熱気球をメインにしたスカイスポーツの町に

上士幌町長 高橋正一

農業青年たちの活躍のおかげで「熱気球の飛んでいる町」といえば、全国どこへ行っても「ああ、北海道の上士幌という町ですね」と言ってもらえるまでになりましたね。私たちは18年前から熱気球に取り組み、いまでは年間3回のバルーンフェスティバルを開催するまでになっています。昨年、初めて日本選手権大会をこの町の主催で開きましたが、実質3、5日間の開催期間中に3万人を集客するほどの盛況で、観光面でも期待どおりの効果を上げています。

熱気球を柱にして、この町をスカイスポーツのメッカにしようと、平成2年度から3年計画で「航空公園整備事業」に着手しました。総予算7億円余を見込み、初年度は500メートルの滑走路と駐車場を造成しましたので、熱気球基地がいっそう整備されるとともに、バルーンフェスティバルに合わせて軽飛行機などの大会も同時に開催できるようになります。また、将来の構想としては「バルーンカレッジパーク」をつくりたいと考えています。最近は全道各地に新しいバルーンクラブが生まれ、パイロットのライセンスを取得したいと希望する人が増えていますので、このカレッジ構想が実現すれば、その人たちにこの町の優れた指導者のもとで思う存分トレーニングする場を提供することができるようになります。

ここへ来るまでにはいろいろ問題もありましたが、最近は町民が一丸となって「わが町の一村一品に育てよう」という機運を高めていますし、近隣町村もひじょうに好意をもって協力していただいています。

雄大な大雪山国立公園を背景にもち、もっとも恵まれた立地条件のなかで繰り広げられる熱気球は、夢とロマンに満ちたスポーツです。熱気球をメインにした観光開発も基幹産業のひとつとしていっそう力を入れ、町の活性化につなげていきたいと思っています。

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