1982年11月、ソビエトモスクワ、レニングラード、エストニア共和国の首都タリン公演を総勢30人で20日間無事終え、帰国した。入国なかばにして、ブルジネフ書記長の訃報があり、モスクワは一週間の喪に服し、あらゆる催し物が中止になったが、文化省特別のはからいで1週間を組みかえることができたので、舞踊団は充分に踊りに集中し、公演活動を充実することができた。
はじめての共産圏公演であり、荷をときながら、ひととき、やっとさまざまの記憶の整理をはじめたとき、二風谷の平取二風谷アイヌ文化資料館館長、萱野茂先生から「もう練習場ができて、雨あらいの行事もすんだから、見にいらっしゃい」と落成式の打ち合わせについての連絡もあり、目がさめたような喜びが、急ぎ二風谷に向かわせる。
平取町二風谷アイヌ文化資料館から30メートルほど北、山林の麓、原野の木々と仲よく呼吸して、木の城ははじめての出会いを待っていた。まるで夢のよう、しばし幻想の中に時を忘れ、木の香りをからだいっぱい、床に転がり受けとめる。私の内なるものにたくさんの宝物が吸い込まれてゆく―。床の桜木目の輝きと、香りのあたたかさに抱擁され、舞い、踊る。私のよろこびは最高である。
落成式は、萱野先生と御相談した結果、アイヌの祝祭とカトリックの祝祭をいっしょにして進行することになった。
舞台でいつもお祈りをしていただく田村神父様を札幌からお招きして、萱野先生と神父様のお話し合いも和気あいあい。十字架がカラマツの壁面にかけられ、長さ2メートルもあるカヤの束はそれぞれ東西のかもいにかかり、200人も集まった村人たちと舞踊団員の熱気のなか、萱野先生の合図で思い思いに柳の弓に「よとぎの矢」をつがえ、地上4メートル、東西のカヤの束めがけ、祈りをこめて放った。そして、祈りは見事にカヤの束の中に居所を定めると、大きな歓声が湧き上がる。
神父様は祭衣をまとい、長い赤銅の鎖のついた香炉を持たれ、人びとのあいだをまわって祝福される。香炉の灯は祝福の祈りとともに揺れて、ほのかな香りはグレゴリアンを歌いながら木の香りと交わり、善良な人びとの上に、そして高々に天井のトドマツ7間の5本の梁の中までも輪を描きながら昇っていった。
子どもたちは餅に頬をふくらませ、村人が心をこめた赤飯と、煮しめは先生の奥さまが中心になっておいしい味につくられ、祝盃もほどほど。頬が赤らみ、笑い声がやがて歌となり、歌は踊りとなって、とうとう全員「ホリッパ」を踊った。そして踊りの輪は、いつまでも時を忘れてつづいた。
あれからもう9年経過した今日も木の香はそのままに、私たちの瞑想の場として創作練習がつづけられている。なにしろ、萱野先生が棟梁となって村の人びとが協力。アイヌチセの造型の妙技がすべての所に結集した芸術作品の城である。四季を通して村人に守られて生きつづけるシシリムカ(沙流川)ピパウシ(二風谷)練習場。感謝をこめて来年は10周年。庭に植えてくださったエゾ赤松3本、凛々と。毎年のクリスマスの祝日の場であるここで、また村人と楽しい祝祭をおこないたいと祈る。