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1991年05月号/第44号  [特集]    

道内唯一の総合文芸誌として優れた才能を掘り起こし北海道に文学の灯をともしつづける
月刊文芸誌『北方文芸』

  
 経営がむずかしいといわれる、地方での月刊文芸誌を23年にわたって発行をし、すぐれた作家と作品を多く輩出している『北方文芸』(発行所=北方文芸刊行会=060-0061 札幌市南1条西11丁目第3一条ビル内、電話011-241-3992番)は、北海道の文学舞台として貴重な存在です。そこで、この文芸誌発刊の基礎をつくり、現在も発行人として同誌発行の責任を担う作家の澤田誠一さんの話を中心に、直接、編集にたずわって地方で文芸誌発行の灯をともしつづける人、支援する人、そしてそこから才能の芽を伸ばしていった人の姿を追ってみました。

壮大な創刊の理念をうたいあげて、矢を放つ

イメージ(よい作品を誌面にと、編集会議は熱がこもる)
よい作品を誌面にと、編集会議は熱がこもる

『創刊をアピールして以来5ヵ月、誇張ではなく老若男女を問わぬ質問や激励、また投稿が編集部を欣喜させた。いかに、月刊文芸誌が待望されていたかを物語る証左であろう。それ故に本誌が、日本のなかの北海道、北海道のなかの日本を照射し表現する文学運動の拠点たらねばならぬ責務は重い。力を尽して期待に応えてゆきたい。矢は放たれた。日本現代文学への批判と提言、鮮烈、独創的な創作の顕示、その地が生み、なお埋もれている“知られざる傑作”の発掘紹介。これらを主たるねらいとし、キメこまかな企画に生かしてゆきたい。およそ文化や芸術に関心を抱くすべての読者に、親しみやすいかたちで浸透させてゆきたい。風雪に耐え抜いた先達の貴重な営為や、未来を志向する世代の新鮮な活動を紹介してゆきたい。
 そうした願いをこめて、創刊号を江湖の読者にお届けする』。

これは当時の編集人、小笠原克さん(現59・藤女子大学教授)が編集後記に残して、よく知られた創刊の理念です。

1968年(昭和43)1月、その創刊号はB5判、144ページの誌量をととのえ、5千部を印刷して、勇躍、大海へ船出したかにみえたのでした。

形而下的な発刊の理由は 郵便料金の値上げに窮して

しかし、発刊理由の実態はもっとべつのところにもあったのでした。

その2年前、郵政省は郵便料金の大幅な値上げを決定したのです。とくに書籍の開封割り引き料金が廃止されたため、同人誌の発行が窮地に立たされたのです。このため、当時、道内で同人誌を発行していた人たちは「書籍郵送料金の値上げは、文化を底辺から破壊することになる」として『郵便料金値上げ反対・北海道文学団体連合』を組織したりしました。

また当時、同人誌『札幌文学』を主宰していた澤田誠一さん(現70)も、北海道一区選出の衆議院議員に窮状を訴えたり、新聞に「日本の文芸・文化を、政府は糧道を断つがごとくにして、つぶす気か」という論旨の投書をしたりの反対活動をしだということです。しかし、いったん国会で議決された法案はくつがえらず、その大きな負担だけが同人誌活動をする人たちの肩に重くのしかかってくるのでした。

「その負担に耐え、野にある文学者たちの発表舞台をいかにして確保するか」。

澤田さん、小笠原さんらが酒場の隅で酒を汲み交わしながら話し合っていてるところへ、札幌市内で「なにわ書房」を経営する浪花剛さん(現66)が、こともなげに「それなら月刊雑誌をつくって、第三種郵便物の認可を受ければいいではないか」と言いだしたのです。

それは、その場にいただれもの胸に、ひそかに燃えていた炎でした。

澤田さんは発刊の端緒を思い起こしながら「小笠原君の編集後記は気宇壮大な形而上的な言葉だか、内実は安い郵便料金で雑誌を発行したいという形而下的な理由だったのだな」と笑います。

道内に文学機運が燃え上がった1960年代の後半期

1965年(昭和40)、道内に文学碑ブームが起こります。佐藤春夫(豊頃町)吉田一穂(古平町)、知里真志保(札幌市)の詩碑、小林多喜二文学碑(小樽市)が相次いで建立され、翌66年は石川啄木(札幌市・釧路市)、北見恂吉(余市町)、沙良峰夫(岩内町)らの歌碑、八田尚之の詩碑(小樽市)が建立されました。

また、65年は亀井勝一郎が菊池寛賞、渡辺淳一が新潮全国同人雑誌賞、木原直彦が北海道文化奨励賞をそれぞれ受賞。翌66年は寺久保友哉が全国学生小説コンクール佳作一席に選ばれたりしました。

イメージ(丹念に赤筆を入れる校閲作業)
丹念に赤筆を入れる校閲作業

そして、なんといってもエポックだったのは、66年10月に開催された「北海道文学展」です。伊藤整をはじめ中央文壇で活躍する本道出身作家らが大挙して来道し、北海道の文学にたずさわる人ばかりか、一般道民にも大きな刺激を与えたのです。そして、これが起爆剤となって北海道で初めての文学通史『物語・北海道文学盛衰史』が北海道新聞に95回にわたって連載され、文学展のオープニングには伊藤整、中野重治、大江健三郎の文学講演が大きな感銘を市民に与えたのでした。

さらに、1967年には北海道新聞文学賞が創設され、佐藤喜一(旭川市=小熊秀雄研究)が第1回同文学賞を受賞。4月には北海道文学館の設立総会が開催されました。また、この年も平野謙、本多秋五、八木義徳、阿部知二らが来道して、在道文学者らに励ましと教唆を与えていったのです。『北方文芸』は、そうした文学機運沸騰のなかで生まれたのでした。

採算を懸念する声のなかで「会計は私がみよう」と浪花さん

しかし、ここの声をあげるまでにも、多くの危惧の念が語られました。

「北海道文学展の準備で集まった連中と、『月刊雑誌をやれたらいいんだがな』という話しをしていたら、和田謹吾さんなども『そんなこと、できっこないよ』という。小笠原君だって、初めは逃げ腰でしたよ」と澤田さん。

「なかには『そんなことをしたら、道内の同人誌をつぶしてしまうことにならないか』という話も出ましたね。そんなことはあるまい。同人誌をつぶすような運動なら、ぼくはしない。むしろ、月刊誌が出ることで刺激を受けて、北海道の文学活動は奮うにちがいない。それを期待しようではないかということになったのです」。

それでもなお、経営の困難さを心配する声は強いものでした。

中央の出版社が発行している文学雑誌のほどんどが赤字なのが実情です。まして地方での発行など、無暴にちかいと懸念するのは当然といえたのです。そのときに、浪花さんが「会計は私がみんなみてやる。だから心配しないで、やりなさい」という力強いことを言い出したのです。

消極的だった小笠原さんも、創刊に向けて「冷静に考えてみましょう」と言い出しました。和田謹吾さんも積極的な態度に変わっていました。山田昭夫、木原直彦、原田康子、木野工、小松宋輔らのみなさんも「よいではないか」と積極的な意見。そこで、創刊への機運は急速に具体化していったのです。

発行人に浪花さん。当時、藤女子大学内で文学研究評論の同人誌『位置』を主宰していた小笠原さんが編集人。そして澤田さんとの3人が牽引者となり、前記の5人が編集スタッフに加わりました。さらに、伊藤整、船山撃、山下秀之助など在京の作家が編集顧問に顔を連ねて、『北方文芸』はようやくここの声をあげ、荒海へと船出をして行ったのです。

有島武郎特集と充実した評論、創作を盛る創刊号

創刊号は、北海道の文学に多大の影響を与えた有島武郎特集を軸に、高野斗志美が「北海道―その思想的磁場と文学主体」、亀井秀雄「佐藤春夫のこと―中野重治と伊藤整」、佐藤喜一「北海道文学史と私」、原田康子「文学と現代」などの評論と、長見義三「白雲木」、金子きみ「枯れ草」の小説2編が掲載されました。

また、文芸春秋社の池島信平や山下秀之助のほか、同誌の経営面を支援して大きな力のあった故西村真吉((株)ニシムラ前社長)、工藤欣弥(当時、道立美術館長)らの各氏が随筆を寄せています。それは、みごとなデビューでした。

イメージ(北海道文学の歴史でもあるバックナンバー)
北海道文学の歴史でもあるバックナンバー

「創刊号の有島武郎特集のあと、第2号は小熊秀雄、第3号は小林多喜二と特集をつづけましたよ。中央の人もよく協力してくれ、第2号には阿部知二さんが寄稿してくれました。どちらかというと、小説よりも文学評論や研究のすぐれた作品が中心だったように思います。しかし、まもなく三好文夫、朝倉賢、佐藤泰志などの新人が台頭してくることになります」と、澤田さんは充実した内容の作品と執筆者が初期の誌面に輝いていたことを語ります。

「経営の面倒は私がみる」といった浪花さんの活躍もめざましいものでした。

広告欄を見ると、岩波書店、河出書房、学習研究社、光文社、筑摩書房、平凡社といった一流出版社の広告が競うように、大きく掲載されています。それらは、みんな浪花さんの営業手腕で出稿してくれたものだったのです。

そんななかで、澤田さんの長編小説『斧と楡のひつぎ』が第2回北海道文学賞を受賞、直木賞候補にも推挙されます。

しかし、漕ぎ出した『北方文芸』の航路は多難でした。

1年4ヵ月で経営難に陥りついに休刊のやむなきに

やはり、文芸雑誌発行の風土は、けわしいものでした。関係者の努力にもかかわらず、号を重ねるごとに赤字は累積していたのです。「1年間発行してみて、赤字は当時の金額で600万円くらいにまでかさんだのではないでしょうか。それは、予想以上の赤字で、すでに一書店経営者の負担の限界を超えているわけです。浪花さんにそれ以上の負担はかけられない。発行を継続することは無理だということになったのです」。

その時です。座礁しかけている『北方文芸』の前に、浪花さんにつづく救世主ともいえる人が登場して来るのは―。

復刊にカを注いでくれた関口次郎さん

澤田さんが木村敏男氏とともに北海道新聞文学賞を受賞した日に、当時、北海道新聞社で学芸部長を経て常務取締役だった故関口次郎さんに誘われて、食事を共にしていました。その席で「ぼくはまもなく道新を辞めるから、そうしたら『北方文芸』に封筒の糊付けを手伝いに行くからね。そう思っているので、『北方文芸』をだいじにしてくださいよ」と語ったのが今もありありと思い浮かぶ様子で、澤田さんは話をつづけまます。

「その言葉どおり、関口さんはその年に北海道新聞社を退任したのです。北海道の演劇活動の振興に熱心だった西村真吉さんは同じ活動で親交があって『あの人こそ紳士だ』と評価していたほどでした」。

澤田さんらは『北方文芸』の進退をはかるため、関口さんのもとへ相談に行くのです。

イメージ(文学まつり恒例のモチつき)
文学まつり恒例のモチつき

「たしか元日のことだったと思いますね。しかし、関口さんは迷惑顔ひとつ見せず、真剣に相談にのってくれました。そして、『じゃあ、だれがいいかな』と考えながら、更科源蔵、田上義也、国松登、九島勝太郎…といった、札幌に在住する文化人といわれる、われわれの先輩たちの名をあげるのです。そして後日、それに八森虎太郎、富岡木之介、工藤欣弥の各氏が加わって、再建委員会がつくられました。いずれも多忙な委員たちに1週間に1回ずつ集まってもらい、まず『北方文芸』の経営分析から始めてくれたのです。そして状況を把握したあと、次に“経営可能な方向は何か”ということを具体的に検討してくれました。『これなら発行をつづけられるということになったから、澤田さん、おやりなさいよ』ということになったのです」。

編集・発行の当事者にとって、その言葉はどれほど励みになったことか。

「だからぼくは、何かでこの雑誌が行き詰まると、関口さんがあれほど熱心にやってくださった志を無にしてなるものか。つぶすようなことがあっては、浪花さん、関口さんをはじめ、支援してくれた人たちに面目がないという思いが、ぼくには残りましたね」と語ります。

維持会員を募集してその会費を経営の支えに

関口さんが提示した再建策の骨子は『維持会員をたくさん持ちなさい』ということと、定期購読者の獲得に力を入れることでした。とくに維持会員は年1万円の会費を納めて、経営基盤を支えようという人たちです。当時『北方文芸』の定価は月200円です。年間購読料は、送料を加えても2600円です。維持会員は行事案内がたまに送られてくる程度で、これといった特典もなく、高い雑誌代を払いつづけることになるのです。しかし、そのおかげ、休刊の憂き目をみたのは、1969年5月号1冊にとどめ、翌6月号から復刊したのです。

第一次オイルショックでふたたび経営危機に

こうして組織的経営形態が整い、『北方文芸』は5年間ほど波静かな航海をつづけていました。しかしその進路に、こんどはオイルショックの嵐がやって来たのです。狂乱物価の不安にだれもがおののき、札幌もススキノのネオンはもとより、市内の広告灯はすべて消えてしまったのです。

石油関連商品は軒並み高騰し、用紙をはじめ印刷資材は暴騰して『北方文芸』の経営はふたたび窮地に追い込まれました。まさに第二の経営危機です。

それに、きわめて明快なアドバイスを示してくれたのが、現在は著述家の山川力さん(現77)でした。

山川さんは「印刷費用が2倍以上にはね上がったのなら、雑誌を半分に薄くするしかない。物価が上がっているのだから『北方文芸』の定価も値上げするしかないよ」というものでした。

「ひどい話ではあるけれども、それならもういちどソロバンを置いてみれば、なんとかなるかもしれない」。1冊180ページまで伸びていたページ数を98ぺージに減らしました。

「あとは、中身を良くするしかない」。それまでは、随筆などにもわずかではあるが原稿料を払っていたのを、シャーペンシル1本にかえていきました。小説も原稿の枚数に関係なく、1本いくらと決めて執筆者にも耐えてもらうことにしたのです。

「その大きな波を超えたあとは、経営が苦しくなったら、維持会員を募集して経営の安定をはかり、今日に至っているのです」と澤田さんは笑います。

1979年(昭和54)12月号の編集をもって、小笠原さんが編集人の座を退きました。そして、現在は一執筆者として健筆を寄せ、同誌の航海に側面から支援をつづけています。

そのあとを、澤田さんが引き継ぎました。しかし、その澤田さんも1985年(昭和60)に、過労がもとで帯状疱疹という病を得て編集人の座を後進に任せ、現在は発行人としての責務を負うにとどまっています。

現在は同誌を愛する人たちの“3人編集制”で健在を示す

イメージ(和気あいあいの文学散歩 左から2人目が川辺さん)
和気あいあいの文学散歩 左から2人目が川辺さん

澤田さんが、現在は編集実務に参加できない健康状態にあるため、それを引き継いで編集にあたっているのは、川辺為三(国学院女子短期大学助教授=63)、森山軍治郎(専修大学北海道短期大学教授=49)、鷲田小彌太(札幌大学教授=48)の3人です。川辺さんは小説、森山さんは民衆史、鷲田さんは哲学が専攻ですが、ひとり1号責任制で、交代で担当します。したがって3ヵ月に1回ずつ担当が回ってくるのですが、月に一度の編集会議には3人が顔をそろえて、むこう1年、2年先の執筆依頼をどうするか、次号発行の進行状態などを報告しあいます。

責任編集のときは、書き下ろしされてきた原稿を読み、必要によっては編集者としてのダメを押して書き直してもらったりして、決定稿を決めていきます。

イメージ(右から2人目が森山さん)
右から2人目が森山さん

行数を数え、レイアウトを決めていくのは、すでに6年前ほどから事務所を守り、文芸誌の編集作業をマスターした森尾豊子さんが担当しています。校閲は筆者校正が原則ですが、それでも棒打ちで上がってきたゲラ刷りに目を通しますし、責任校正を任される原稿もあります。そして、印刷会社との折衝。まったくのボランティアである3人の編集人の負担を少しでも軽減しようと森尾さんも頑張るのです。

文学をより身近にと文学散歩や文学まつりも

『北方文芸』は、文学をする人の発表舞台を提供するだけでなく、一般市民が気軽に参加できる恒例行事もつづけています。

そのひとつが「文学散歩」。文学にゆかりの地を訪ねながら、その文学が生まれた時代や作家の当時の生活ぶり、心境などに思いをはせてもらおうというものです。

「文学まつり」毎年11月に開催し、趣向をこらしたプログラムに打ち解けながら、作家などとの交流を楽しみます。

通巻280号のなかで誌上に光を放った作家と作品

『北方文芸』を舞台にして小説に、評論・研究にすぐれた作品を発表して高い評価を受けた作家、文学研究者はかなりの数にのぼっています。

北海道新聞文学賞の受賞者からあげると、澤田さんに次いで「襤褸」の木野工、「停留所前の家」の寺久保友哉、「紙飛行機」の中沢茂、「光る女」の小桧山博、「岬から翔べ」の川辺為三、「マドンナのごとく」の熊谷政江(藤堂志津子)、「回帰」の朴重鎬、「背中あわせ」甲斐ゆみ代(山本由美子)などが輩出しています。

また、評論もすぐれた新人が出ました。伊藤整、中野重治研究の亀井秀雄、現代文学研究の高野斗志美、民衆史の森山軍治郎、近代北海道文学研究の小笠原克、地図紀行の堀淳一、有島研究の高山亮二、中国文学ほかの中野美代子、伊達藩研究の坂田資宏、山川力、須田禎一などが研究成果を発表し、それらは東京の出版社から単行本としても刊行されています。

イメージ(創刊20周年記念集会であいさつする小笠原さん)
創刊20周年記念集会であいさつする小笠原さん

『北方文芸』は、100号、200号と、創刊20周年を記念して「北方文芸賞」作品を全国に呼びかけて募集しました。その100号記念の受賞者が小桧山博「出刃」でした。これは芥川賞候補にノミネートされた作品です。200号記念の受賞者は藤沢清典「川霧の流れる村で」と澤井重男「雪道」。その選考委員は、野間宏、八木義徳、吉行淳之介、井上光晴という豪華さでした。

月刊誌だから才能を掘り起こせたという存在意義が

澤田さんは、きびしい現実に耐えながら、この5月号で通巻280号を発行しつづけてきたことに感慨も新たのようです。

「書き手が育ちましたね。とくに評論・研究には息の長い仕事をして、いい研究を残した人が数多くいます。この雑誌に発表しつづけることがライフワークになった人もいるのを思うと、その人にとってもいい仕事になったし、北海道にとっても貴重な仕事です。これは月刊雑誌だからできたことです。新聞連載では1回の分量が少なすぎるし、書き上げたつど自分で発表していくのでは切れ切れになって間延びもしてしまう。やはり、1ヵ月ずつ締め切りに追われながら出していくから、あのようないい仕事ができるのだと思います。この雑誌があることで、力のある人たちの北海道での勉強の場になったのではないでしょうか」。そして澤田さんは、やはり関口さんが語った言葉を、また思い起こすのです。

イメージ(創ァ20周年記念文学賞授賞式で司会をする鷲田さん)
創ァ20周年記念文学賞授賞式で司会をする鷲田さん

『築地小劇場がなかったら、日本の新劇は育ちませんでした。小説の場合も、発表する舞台がなければモノが書けないのです。役者が台詞を語り、自由に舞台の上を歩き回ってよい演技をするように、小説家にもよい舞台を提供しなければなりません。澤田さん、この雑誌は、ぜひやりましょう』。「この23年間、ぼくらは、そのいい言葉に励まされてやってきたのです。あの創刊の時に、ぼくらの胸のなかにひとつの氷点ができたのだと思いますよ。そのことによって、北海道で文学をする氷盤ができたのかもしれません。氷は水中にチリがなければ凍らないといいますね。ぼくらのしてきたことが、そのチリの役割を果たしたのかもしれませんね」。

近年、芥川賞や直木賞は東京の文芸雑誌主体に選考されることが多いなかで、地方文芸誌である『北方文芸』の作品が毎年のようにノミネートされているのが、北海道に文学の灯を絶やすまいと編集をつづけている人たちの労苦に報いる、なによりの贈りものです。

澤田さんは、『北方文芸』が継続されていくなかで、これからも水の表面で光るような作品ではなく、どんな波にもゆらぐことなく、水底から光を放つ作品の出現を待望している、と話すのでした。

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