北海道中央部に広がる石狩低地帯の南、太平洋に面して開けた苫小牧市は、人口16万人、大規模工業開発が進む街です。市の面積は5万6000ヘクタール。北西部の樽前山麓から広がる林野面積は3万3300ヘクタール。道内10万人以上の都市では札幌、旭川に次いで森林の多い都市です。
その森林帯の東、市街地の北に隣接して広がる2715ヘクタールの森林が、北海道大学付属苫小牧演習林です。天塩、中川、雨竜、檜山と和歌山県など6ヵ所にある北大演習林のひとつで、林内の25%はカラマツ、トドマツなど針葉樹が主体の人工林、35%は過去に皆伐したり成績の悪かった造林地に再生した広葉樹主体の二次林が占め、残る37%が天然林です。
この天然林はミズナラ、ハリギリ、シナノキ、イタヤ類などのなかにエゾマツが混じる広葉樹が主力の混交林で、林内全体で106種と道内では樹種の豊富な森林です。とくに都市近郊に残された森林には珍しい海抜5~90数メートルの地点に広がる平地林であることと、林床にササがほとんどないため林内を自由に歩き回れるのが特徴です。
この森に生息したり訪れる野鳥はクマゲラをはじめ113種、哺乳類は20種が記録され、ヒグマも樽前山麓の奥から時折やって来ます。また、林内の川と沼にはハナカジカ、フクドジョウ、イバラトミヨ、エゾウグイなどの北方系淡水魚と野性化したニジマスが生息するなど、道内森林の動植物がワンセットで存在するといわれます。
この森林には「演習林」という古風な名が付いていますが、演習という言葉は大学のゼミナールのことで、明治時代から現在まで大学のカリキュラムに残っている“生きた遺産”です。1904年(明治37)「森林経営に関する諸問題を社会学的および自然科学的観点から究明するための実際的研究ならびに学生の実地演習の場」として創設されたものです。苫小牧より先に設置された雨竜をはじめ、他の演習林が最初は「基本林」と呼ばれて大学の経済的資産の性格が強かったのに対して、苦小牧の場合は最初から「演習林」と名付けられていました。これは本校のある札幌に近いため、ここを学生の実地学習の場にしようというねらいが最初からあったようです。
その札幌農学校は、明治中期になると廃校の危機が再三にわたって押し寄せます。最初の危機は、1885年(明治18)に来道した大書記官金子堅太郎が提出した「巡視復命書」。これによって3つの県に分かれていた北海道は統合されて北海道庁が設置されることになりましたが、その復命書のなかで、札幌農学校は「その組織および教科の課程はことごとく高尚に過ぎ、開墾の実に暗い」と報告し、廃校論が唱えられました。そのときに、クラークから直接教えを受けた第一期生で、内村鑑三や新渡戸稲造らの先輩である佐藤昌介(のちの総長)が「農業教育なくして開拓が実行できるとお考えか」と北海道庁長官に迫り、組織改正の意見書を提出してその危機を救っています。しかし、1890年(明治23)に帝国議会が開設されると、ふたたび財政難を理由に議会で廃校論が持ち上がったのです。その防戦に奔走した佐藤は「北海道もここまで発展したので、もう農学校はいらないかもしれないが、帝国大学は必要である」という論旨にすり変えて、やがて東北帝国大学農科大学に昇格させるとともに、学校の財政基盤となる6万ヘクタールの山林を、道北を中心に「基本林」の名で確保してのけたのです。
「現在の苫小牧演習林は、ほぼ300年前に形成されたもの」と、林長の石城謙吉さんはこの演習林の生成過程を次のように語ります。
300年と、天然林にしては比較的新しいこの森の下の地層は23層に重なり、それがぜんぶ火山灰層です。しかも、その層の中には5つの植物体の腐植層が含まれているとのことです。そのことは、なんどとなく繰り返された噴火によって森は埋まりながらも、またそこに新しい森を形成してきた植物群のしたたかな歴史を物語っているのです。
「森林の生命力はすごいですね。あのガラガラな火山灰の上に、なんどもなんども森をつくりかえている。自然の森というのは、どんな土壌であれ、雨と温度さえあれば再生できるのです」と石城さん。
この地のもっとも大きな噴火は、いまから3万2000年前の氷河時代に支笏湖をつくった大爆発。そのときに降った膨大な火山灰がこの地方の基盤になっています。その後もなんどとなく噴火が繰り返され、ウルム氷期が終わった1万年くらい前の完新生期になると、北海道も温暖化してグイマツやシラカバが疎らに生える林が形成されました。
しかし、このころに樽前山が大噴火して森を埋めてしまいます。そのあとに入ってきたのがエゾマツ、トドマツなどの針葉樹。そして、縄文海進によって海が広がった6千年前ごろには広葉樹が主体の森林が形成されていったのです。このころの苫小牧演習林はまったく海沿いの森林であり、その名残として敷地の南側は海岸段丘になっています。
「この演習林は千年、2千年と続いてきた森ではありませんが、火山灰と植物が繰り返し展開してきた興亡の歴史があります」と、石城さんは地質時代からの自然界のドラマに思いをはせます。
だが、ドラマはまだ続きます。こんどは入植してきた日本人と森との攻防のドラマです。
この地方は、縄文早期からアイヌ文化期に至るまで、さまざまな人たちが豊かな自然の恵みを享受しながら暮らしていました。アイヌと日本人の交易が始まったのは15世紀半ばからといわれ、18世紀に入るとさらに活発化して場所請負制度が成立します。日本人が移住したのほ19世紀初頭に八王子千人同心の一行が最初といわれますが、この時代の人びとにとって森林利用はさほど重要ではなく、したがって伐採されることはほどんどなかったようです。しかし、明治期になって開拓が始まると同時に、森林伐採の歴史が始まります。
「それまでの北海道は、森の島でした」と石城さんは説明します。
北海道の森林は、大きく見ると冷温帯に起源を持つ落葉性の広葉樹と、亜寒帯性の常緑針葉樹が混ざり合う中間地帯に位置します。北欧の森林は意外に巨木が少ないのですが、北海道は雨量が多いうえに、冬は寒いが夏はかなり気温が上昇するという気象上の特色があるため、ミズナラ、カツラ、ハリギリ、ヤチダモ、シナノキ、ドロノキなど幹径が1メートルを超えるような巨木になる樹が主役でした。また、針葉樹も「昔は十丁取りの木がいっぱいあった」と山林で働いてきた古老が語っていたほど、巨木が多かったのです。
“十丁取り”とは、12尺の丸太が十本以上取れるということです。12尺は3.65メートルですから、それが十本も取れるとなれぱ樹高40数メートルの木ということになります。そして、当然、幹の太さは2メートル以上はあったろうと思われます。林内の管理棟前にもその巨木をしのばせる標本が置かれています。ですから、北海道は“森の島”というよりも“巨木の島”と呼ぶにふさわしい豊かな自然に恵まれていたのです。
そして、その森林はまたひじょうに肥沃な土壌をつくっていましたから、その土地を求めて開拓が始まります。しかし、開拓農民にとって、そこに生えている巨木は敵でした。斧と鋸だけの簡単な道具を使うだけの手労働で切って根を掘り起こし、運び出さなければなりません。いまでは想像を絶するほどの悪戦苦闘だったのです。そんなスタートで、この百余年、日本人と森のつきあいは始まり、開拓者たちのたくましいエネルギーによって北海道の巨木は次々に切り倒されていったのです。
苫小牧演習林が創設されたとき、ここはまだ原始の姿のままでした。しかし、当時の林学、林業の考え方は2つの流れが主流を占めていたと、石城さんは語ります。
「そのひとつは、本州の伝統的なスギ・ヒノキ林業です。これは広葉樹の雑木林を、建築材として優れたスギ、ヒノキにかえていく林業です。また、当時の学者の多くがドイツに留学してドイツ林学を学んでいました。ドイツの林学、林業はトウヒを主体にした考え方です。この2つに共通しているのは、針葉樹を主体にした林業だということです」。
この演習林が大学の管理下に置かれたときは、広葉樹主体の天然林でした。そのため、広葉樹を皆伐して針葉樹の一斉林に植え替えていくという「林種転換」の林業が進められてきました。そして、それは1970年代初めまでの70年間も続けられてきました。それはまた、経済成長をめざす社会的要求にもこたえるものであり、炭材に、鉄道敷設の枕木や炭鉱の坑木などの用材にとどんどん切り出され、その跡には針葉樹の人工造林地をつくっていったのです。
しかし、それはほとんど失敗に終わりました。植えては枯れ、枯れては植えと再造林を繰り返し、針葉樹の植栽面積は延べ1200ヘクタールにもおよびましたが、現在なんとか人工林として台帳に残っているのは6百ヘクタール、それも成績はひじょうに悪いということです。苫小牧演習林は、すっかり荒れていました。
1973年(昭和48)4月、林長に着任したばかりの石城さんは、「これではいけない」と思ったといいます。
まず第一に、広葉樹の天然林を切って針葉樹を植えていくのは、この森にとって正しくない。この地にはミズナラ、ハリギリ、シナノキなどすばらしい広葉樹が育つはずであり、林業的にみても、広葉樹は価値があること。
次に、後氷期以降の1万年間、幾多の試練を受けながらもこの地に広葉樹主体の森が形成されてきたということは、この火山灰地や海洋性の冷涼な気候風土にも広葉樹の適応性が優れているということ。
そして3つめに、この演習林が時代の経過とともに都市近郊林としての役割を担うようになっていること。それなら、豊かな季節感があり、豊かな木陰を提供してくれる広葉樹こそ大切にしなければならない。
そう考えた石城さんは「広葉樹を切って針葉樹を植えるのは、断固、やめよう」と決意して、広葉樹を育てる森林づくりに着手したのです。
「そう宣言したら『おまえは山造りをやめるのか』と、あまり評判は良くありませんでしたね」と笑います。広葉樹をこれ以上滅らさないために針葉樹を植えるのをやめるということが、山造りをやめるということに直結する思想が社会にはあったのです。それは、山造りは植林から始まるという一種の信仰が常識となっていたのです。そして、森の現実を無視した林業が経済効率と合致して進められてきた、わが国林業の長い歴史の縮図がここにもあったのです。
石城さんが敢然と進めてきたもうひとつの事業は、演習林の開放です。
演習林は大学の所有であり、林学の実習のためにあるものですが、森林はだれの所有であれ公益性のあるもので、社会全体のものという考えが石城さんにはありました。そこで、農学部林産学科の独占物ではなく、研究林としては全学に開放することにしたのです。森林は大きな世界です。理学部、水産学部の学生、あるいは低温研の大学院生などにも開放して、すべての自然科学の研究の場にしようという考えです。
もう1つは、都市近郊林として市民への開放です。市民のだれもが自由に林内を散策して森林浴を楽しみ、野鳥や昆虫、森で出会う哺乳動物たちと親しむ場にしようということでした。
「そこで問題となったのは、研究林としての理想的な森と、休養林としての理想的な森とが両立するかということです。それは、両立すると思いましたね」と石城さんはいいます。ドイツの高名な林学者の言葉に「美しい森と役立つ森は一致する」というのがあり、石城さんはその言葉に強く共鳴しているのです。
また、この2つの開放は管理面でも両立するかという危惧がありました。しかし、「森林の本来のあり方からすれば、両立させることに管理者の能力と努力のテーマがある。できるかできないかを問うのではなく、両立させることを職員全体の課題にしよう」ということで実行したのです。それは、国内でもほとんど例のない試みでした。
全林内は、4つの地区に分けられています。南側から都市林造成地区、天然のままに残す熊の沢保存林地区、エゾマツ復原地区、十勝の札内川と並んで美味な水が湧き出す幌内川の水源林地区。それに、管理研究棟の前には“森の応接間”と呼ばれる樹木園があります。
都市林では毎年約2000立方メートルの樹木を択伐、間伐して病虫害木や傾斜木などを取り除き、優良木を残して森林を育てています。都市林は広葉樹の育成に力を入れていますが、針葉樹をまったく否定するのではなく、地元の木であるエゾマツを植えています。これは林業としての蓄積量を増すほかに、景観に深みをもたらす効果にも配慮してのことです。
市民にもっとも親しまれている樹木園は、単に樹木収集の場ではなく、研究者には精密観察と野外実験の場に。林業技術者には樹木と森林の取り扱いの場に。そして市民には、森林とのふれあいの場になっています。給餌場や巣箱が設けられ、クマゲラ、コノハズクなど市街地に隣接した場所では見ることのでないの野鳥のほか、テン、エゾリス、キツネなどがふつうの状態で見ることができます。
この樹木園の重要な要素となっているのが、林内から湧き出す幌内川です。この川の水は、林内に設置されている市の水道施設によって毎日8000トンが市街地に供給されています。
そして、その川には手を加えて沼や瀬を整備して、そこにイワナやヤマメの放流も進めています。
そうした石城さんら職員の努力にこたえるように、この森を拠点にした市民活動も生まれています。1987年(昭和62)に発足した『森の集い実行委員会』です。代表の長谷川充(みつる)さんは「石城林長の都市林づくりに共鳴して、市民もこの森でいろいろな体験をしながら人間と森林の望ましいつきあい方を考えたいと思った」と、その動機話しています。
集まった㈱ヤは21人。日本野鳥の会、天文同好会の会員、自然観察指導員、写真家、市の科学センターや公民館の職員など、みんな自然活動に経験と知識の深い人たち。準備作業も怠りなく、第1回のフォーレスト・フォーラムを市民に呼びかけて開催したのはその年の6月でした。それはたいへんな好評で、その年は9月まで毎月フォーラムを開催するという熱のこもりようでした。
このグループがもうひとつ力を入れて取り組んでいるのが、幌内川でのホタルの放流です。一昨年、ヘイケボタルの幼虫700匹を初めて放流しました。ことしも6月9日に、28世帯のホタルの里親のもとで育てた幼虫3000匹を親子連れなど40人の手で川に放しました。
「昨年も1000千匹を放流しており、あちこちでホタルを見たという知らせが来ています。ことしは数も多いので、どれだけ成虫になって光ってくれるか、楽しみです」と、長谷川さんは真夏の訪れを待ちかねている様子です。
一般市民の森での様子や、こうした市民の自然活動の様子を見ながら、石城さんは「この18年間、研究林と都市休養林の両立を信じてやってきましたが、ほぼ両立していると思いますね」と、率直に答えています。
やはり、心配だったのはモラルの点でした。石城さんが着任したとき、林内はゴミが散在していました。職員一同がゴールデンウイーク返上で拾い集めると、ダンプカーに何台ものゴミが出たものです。それがいま、林内には屑かごは皆無でもゴミは落ちていません。訪れる人みんなが注意しあっているのです。
研究林としての成果もあがっています。この演習林をフィールドに発表された論文や著作物の数は900点におよびます。
「身近な自然はいろいろ手が入って破壊されやすいものです。しかしまた、身近な自然は復活するのも容易です」と石城さんはいいます。それに、都市に近い自然は秘境の自然に比べて自然度が低いという見方も、石城さんは否定します。
石城さんは、研究林と休養林のほかに、人間の手で破壊してきた自然を、同じ人間の手で第一級の自然に復元しようと全力投球をしてきたのでした。それを「執念だね」と知人にいわれると「いや、情念ですよ」と答えるのだそうです。「情念とは、言葉では説明できないけれども、理念などより確かな、心の深いところから湧き出す思いなのだと答えることにしています」と笑いながら、その心境を語っていました。