ひとりで酒場に通い詰めるようになったのは、30歳になろうかというころだった。当時のわたしは「結婚、出産、おまけに離婚と、20代で女がすることは全部やった。あとは子育てと仕事だけ」といいふらし、生意気にも開き直っていた。今なら恥ずかしくて、冷汗が出る。
しかし、個人的に多大な借金を抱え、吹けば飛ぶような小さな編集プロダクションでは明日も心もとない。ウツウツとした毎日を過ごし、オフィスと同じビルの地下にあった居酒屋へ通うのが、ひとときの安らぎだった。
その店は「海へ」という名前で、店主の武岡幹雄さんは、頑固親父の典型だった。夕方4時に開店して夜9時30分には閉店、正月の三が日は絶対休まない。毎日のように小樽へ列車で買いだしに出かけ、春には菜の花のおひたし、初冬にはタチ汁と、季節ごとにさまざまなメニューを出してくれた。
なかでも、「共食い」というのはユニークだった。狸小路市場の手作り豆腐を半分に切り、大匙の大きさにくり抜き、そこにスポッと納豆を入れこむ。それを洋ガラシでたべるのだが、ビールに合ってなかなか美味しい。
もちろん酒の肴もいいが、その店に集まる個性豊かな人種が楽しかった。作家、画家、彫刻家、詩人、編集者など、それぞれにひと癖もふた癖もあって、大いに刺激されたものだ。また、自信も何も無かったが、心意気だけはわかってくれたのか、常連はとても優しく接してくれた。まるで山口瞳さんの小説『居酒屋兆治』に登場する「佗助」みたいな店だったのである。酒場体験の処女スタートは、ここからといってもいいだろう。
しかし、店主の武岡さんは、とあることで店を手放すことになった。開店から7年目の2月26日に最後のパーティーを開き、店を閉めた。その後、肝硬変にも拘らず、好きな焼酎を飲み続け、東京で亡くなったという。まさしく頑固一徹な人で、アル中らしい最後を遂げた。
今でも、自宅で豆腐と納豆を見るたびに武岡さんを思いだし、同時に不遇だったけれど、楽しかったあのころを思い出す。酒飲みになって良かったとつくづく思うのである。