それはちょうど、去年の新緑のころでした。昭和40年前後に、数年間、店のアルバイトをしてもらったK君が、久しぶりに来店しました。
その頃、いろいろと雑念に疲れを感じていましたので、彼にふと、「30年も越えたのでそろそろ店を閉じたい」などと話の合間に語りましたところ、「それなら、昔通ってくれた常連を集めて、同窓会でもしましょうよ」という話になり、Sさんと相談してみると帰っていきました。
新聞掲載で、30年近い過去の若いころを思い出したのか、8月15日の盆の多忙な中を30数人のかたが「ウィーン30周年記念の集い」に参加してくれたのです。
それは男女、もう40代から50代の思い出のある顔でした。
私は、うれしさと気恥ずかしさの交錯した気持ちのなかで喜びを感じていたのです。K君、Sさん、ほんとうにどうもありがとう。
喫茶店の同窓会―こんにち同窓会ばやりのなかでも、あまり耳にしません。
それは皆久しく、以前いっときでも交流したもの同士であれば、集いの参加も幾分気楽でしょう。が、お互い見知らぬもの同士、よほど店に、音楽に、あるいは青春の記憶にか、その個人の心の思い出の一節に刻まれていなければ参加にためらいがありましよう。つまり、横に連なる“同期の桜”みたいなものがまるでないからです。
そのようななかでの参加者は、心の中に大きく「ウィーン」が記憶されているのかもしれないと考えるとき、私は喜びと感謝の気持ちをかみしめないわけにはいきません。そして、そのかたがたが書いた過去の憶い出を文集に、この春、ウィーン30周年記念誌『冬の旅』が発行されたことは、ほんとうに喜びに堪えません。
昨日も1冊。学生のころに記憶のある顔が、以前と異なり、かなり禿げ上がった丸い顔で、それもご夫妻で来店。
「おれが、生まれてはじめてお茶を飲みに入った店が、ここの店なんですよ」と。