石川啄木(1887~1912)は万葉歌に比肩する日本人の生活感情を率直にうたう作品を発表して、ともすれば伝統芸術の技巧的概念に束縛されて気迫を欠いてた明治歌壇に一大変革をもたらした天才歌人です。
はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢっと手をみる
たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽さに泣きて
三歩あゆまず
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ
などはほとんどの人が知っている短歌であり、歴代歌人のなかでもっとも国民に親しまれている歌人です。その啄木が短い生涯の後半生の出発点となったのが函館です。
啄木一家が住んでいた函館市青柳町の居宅跡から200メートルほど離れた市立函館図書館の「啄木文庫」は、啄木資料の一大宝庫として知られています。とくに、自筆資料が数多く残されていることから、文学資料としての価値は極めて高いのです。そのなかには、啄木と函館を結ぶ直接の契機となった短歌同人苜蓿社(もくしゅくしゃ)での短歌競詠草稿をはじめ、「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」とペンで大書した『暇ナ時』、作歌手帖、歌稿ノート、詩稿、小説『漂泊』、創作ノートなどの自筆原稿があります。また、晩年の思想傾斜を知るうえで貴重なトルストイの日露戦争論や幸徳秋水らの大逆事件に関する評論と感想、天才詩人といわれる啄木がいかに勉学に励んでいたかを示すドイツ語や英語の筆写ノートなども所蔵されています。
とくに、啄木の生活と思想を研究するうえで重要であるばかりか、文学的価値の高いのが日記です。函館に所蔵されている日記は、1902年(明治35)盛岡中学校を中退して東京へ文学修行に出かけ、病気のため帰郷した期間の『秋韷笛語(しゅうらくてきご)』、『明星』の与謝野鉄幹・晶子が主宰する新詩社の同人に推挙されて活躍しはじめる時期の『甲辰詩程』(啄木庵日誌)。郷里の渋民村(現岩手県・玉山村渋民)で“日本一の代用教員”を自負して活気に満ちていた時期の『渋民日記』。
北海道時代にあたる1907年(明治40)の『丁未日誌』は、父が住職の任を追われたために一家離散の不幸に遭い、文通しただけの縁しかない苜蓿社の同人を頼って函館で新生活をはじめ、4ヵ月後に大火に遭って、やむなく札幌、小樽へと漂泊していく1年間がつづられています。『明治四十一年日誌』は、釧路で新聞記者生活をはじめたものの馴染めず、文学に専念する決意で上京して創作生活をつづける様子を克明に記録しています。
よく知られるローマ字日記『NIKKI:MEIDI142 1909』。上京後の悲惨な生活が赤裸々に記録され、家庭や家族制度に対する激しい批判は「日本の日記文学の最高峰で、啄木文学の中で最高の文学的達成」と評価されているものです。そして、結核に冒されて力尽きるまでの最後の日記は『千九百十二年日記』。この日記の筆を絶った2週間後に母が死に、啄木も2ヵ月後に波乱の人生を終わります。
これらの日記はノートあり、当用日記帳ありとさまざまで、なかには数ページ記録しただけで残されたものもありますが、その冊数は13冊におよんでいます。
これらの資料を80年近くにわたって維持保存しているのが『函館啄木会』(事務局 040-0044 函館市青柳町14-2市立函館図書館内 電話0138-22-7447)です。会員は啄木ゆかりの人と啄木文庫の後継者で構成され、現在の代表理事は若山徳次郎さん(74=五島軒代表取締役会長)と福田勲さん(83=元市立函館図書館長)、事務局長は岡田弘子さんが務めています。
岡田さんの父、岡田健蔵(1883~1944)は図書裡と号して、1906年(明治39)に現在の市立函館図書館の前身である私立函館図書館を自宅に開いた人です。啄木とは苜蓿社で一度面識があり、啄木の死後、節子未亡人に依頼されて東京から啄木とその母、長男真一の遺骨を函館に運んで墓をつくる一方、啄木文庫の創設に尽力した人。弘子さんは父のあとを継いで図書館に勤務し、啄木文庫の維持保存に努めたあと、いまも散逸資料の発掘、収集と管理をライフワークにしています。
また、会員の岡田一彦さん(市立函館博物館勤務)は健蔵氏の孫で弘子さんの甥にあたる人。資料保存のエキスパートとしての役割をはたしています。
福田さんは、健蔵氏の弟子といわれた故田畑幸三郎氏の後輩。啄木会は現職の図書館長を会員に迎えることになっていますが、福田さんは退任後も会員にとどまって会の運営にあたり、図書館からは現在内藤秀夫館長が参加しています。函館の文化振興に深い理解と積極的な活動をつづけている若山さんは、病床にあった田畑氏から後事を依頼されて代表理事を引き継ぎました。
会員の中に、啄木一家と縁続きの人が2人います。その1人は函館市内に在住している堀合郁雄さん。節子夫人の弟、故堀合了輔氏の子息にあたる人です。もう1人は東京在住の石川玲児さん。啄木の長女、京子さんの子息で、啄木の孫にあたる人です。そして、宮崎郁雨(1885~1962)の子息、捷郎さんも現在は東京に在住しています。
啄木会の構成メンバーは以上の8人。会の目的について福田さんは「近代文学史上欠くことのできない貴重な文化遺産としての啄木資料を寄託された節子夫人の遺志を守り、身を挺して保存整理してきた先輩たちの偉業を継承し、資料を通じて啄木への正しい理解を深めていくことにあります」と話すように、いわゆる文学サークルとは目的を異にしています。したがって、啄木愛好者などからの入会希望も少なくないのですが、現在のところは会員を増やさない姿勢を維持しています。
「1913年(大正2)4月13日、立待岬のふもとにある共同墓地入口の称名寺地蔵堂で、啄木の一周忌追悼法要がおこなわれました。参列したのは、その3週間前に病床の節子夫人の依頼を受けて東京から啄木とその母、生後24日で死亡した長男真一の遺骨を函館に持ち帰った岡田健蔵、かつての苜蓿社同人の宮崎郁雨、岩崎白鯨の各氏でした。その席上、白鯨の発意で、ここに集まった人たちで『啄木会』をつくろうということになったのです。それは、会則もない任意の集まりでした」と、福田さんは発足の経緯を語ります。
その法要が済んだ3週間後の5月5日に、肺結核に冒されていた節子夫人は啄木の後を追うように世を去りますが、死の直前に節子夫人は「啄木は焼けと申したのですが、私の愛着が結局そうさせませんでした」といって、日記や歌稿、創作ノートなどの遺品を郁雨と健蔵の両氏に寄託したのです。ただ「その中の一冊だけは父の形見として子どもに渡したいから」といって『明治四十四年当用日記』だけを手元に置き、現在も石川家に所蔵されています。
かねて私立図書館の充実に執念を燃やしていた岡田氏は、さっそく『啄木文庫』を設立。さらに情熱を持って散逸資料の収集に奔走し、こんにちの文庫にまで充実させたのです。やがて、その岡田氏も世を去り、初期の会員は郁雨位置1人になりました。そこで、その後継者らによって再発足したのが1956年(昭和31)のことです。そこには啄木研究者の歌人、故阿部たつを氏や歌人の故土井多紀子氏も加わり、会則も決めて啄木文庫と啄木資料の保存整理に深く参与することになったのです。
「これほど読んでおもしろい日記を書いた作家はいない」といわれるほどの啄木日記ですが、日記というものは極めて私的な内容を持つものであるため、寄託を受けた啄木会や図書館の保存や公開のあり方に対する慎重さは並々ならぬものです。このため「貴重な研究資料であり、国民的な文化遺産である資料の公開を拒む」として、たび重なる批判が向けられてきました。大正末年には、啄木と交友のあった人から「おれが死んだら焼いてくれといった啄木の遺志に従って焼却するために、遺児の京子氏に返却を」と要求されたことがあります。それを岡田氏は「職務上の責任と、啄木は明治文壇の重要な存在であるから、焼却に絶対反対する」といって応じず、万難を排して死守する覚悟を固めていたのです。
それから10年後「日記その他の出版要求が強くなっているので、在京の友人に保管中のすべての日記を割愛して欲しい」という要求も出されました。これに対しても岡田氏は「たとえ啄木とどんな関係にある人であっても、寄託者にあらざる第三者からの申し出には応じかねる」と拒否したため、新聞で叩かれるという事態まで招きました。それにも屈せず、岡田氏の存命中は厳然として公開を拒否しつづけていました。
ところが戦後まもなく、晩年の啄木の家庭問題をめぐる中傷めいた報道があって、その誤解を解くためにも公表はやむを得ないということになり、出版に踏み切ったのです。それに際して、郁雨は「焼けと言った啄木の遺志に反して現世に残した過誤は批判されるだろうが、情理を超えた愛着の強さと、人力を絶した運命の奇しさに深く考えさせられる」と、痛切な思いを述べていたということです。
これほどまでに啄木を敬愛し、信頼して生前も、没後も物心両面にわたって支えてくれた友を得た函館の人と啄木の縁は、はじめは薄いものでした。その間の経緯を福田さんは大意次のように説明します。
啄木が20歳のとき、処女詩集『あこがれ』を出版して天才詩人と評され、恋愛中だった堀合節子と結婚して活気にみちた生活が前途に待っているはずでしたが、このとき父が寺の宗費滞納によって住職を罷免され、一家扶養の責任が重くのしかかってきました。そのため、啄木は渋民村に戻って代用教員になります。そこでは「日本一の代用教員になる」を自負して、当時では考えられないような生徒の個性と主体性を重視した教育をする一方、父の復職のために奔走します。しかし、それがかなわぬことが明らかになったとき、啄木は北海道に渡る決意をするのです。その理由のひとつは、小樽の駅長をしていた姉の夫に妹を預けるためでした。もうひとつは、北海道では唯一の文芸雑誌『紅苜蓿(べにまごやし)』を発行していた苜蓿社の松岡蕗堂と『明星』での投稿を通じて文通しており、苜蓿社が専任の編集者を求めているのを知ったからでした。
「紅苜蓿の編集を手伝ってもよい」という啄木からの手紙に、若き同人たちは「鶏小屋に孔雀がくる」と喜び、さっそく快諾の返事を送って啄木の来函を待ちます。
啄木が函館桟橋に上陸したのは、1907年(明治40)5月5日の午後でした。互いに初対面の一同は「清潔な知識人」といった印象の天才詩人にさっそく心服し、啄木も温かい歓迎ぶりを快く思い、その日から打ち解けていきます。郁雨らは毎夜啄木のもとを訪ね、時を忘れて語り明かします。若い歌人たちの語る話題は文学と恋愛のこと。啄木が節子夫人との恋愛を語るのを、胸をときめかせて聞き入っていました。やがて歌会がひらかれ、『紅苜蓿』の編集にとりかかります。歌会には、だれとはなしに南部煎餅と夏ミカンを持ち込まれるのが常でした。
数日して、啄木に手持ち金がなくなっているのを知った同人のひとりが、当座の小遣いを貸し与える一方、とりあえず商業会議所の臨時雇の仕事を世話します。乳飲み児を抱えた妻と母を呼び寄せたいという啄木の思いを聞いて、さらに安定した収入の道をと同人たちは手分けして就職先を探し、弥生小学校の代用教員、函館日日新聞社の遊軍記者をあっせんします。
この間に青柳町に貸家を借りてやり、離散していた一家を呼び寄せて安定した生活ができる道をひらいてやりました。しかし、まだ当座の生活費に事欠く状態にあったため、家業が味噌の醸造業をやっていて比較的裕福だった郁雨が必要に応じて金の面倒をみてやるのでした。その郁雨は、7月には志願兵で旭川の第七師団に教育訓練のために入隊します。その間にもなにくれとなく啄木一家の面倒をみていたのは郁雨の母堂だったようです。
同人たちは啄木を敬愛し、家族に親切にして足しげく彼のもとを訪ねては歌を詠み、恋愛を語るなどして、生活苦を忘れる日々がつづくのでした。啄木は函館に来るまでの2年ほど短歌の道から離れていたのですが、ふたたび作歌をはじめるようになり、砂山のある大森浜に遊び、碧血碑のある谷地頭の林を好んで散策していました。
そんな生活も8月25日、市街の3分の2を焼き尽くした大火のために打ち破られます。啄木が2号編集した『紅苜蓿』は第7号をもって廃刊になり、就職が決まっていた新聞社も被災して再建のめどが立たないため札幌の新聞社に就職をあっせんしてもらい、家族を残して9月に函館を去り、以後、札幌、小樽、釧路、そして東京と、漂泊の道をたどるのです。函館の滞在期間は、わずか132日間でした。しかし「啄木にとっては、生涯でもっとも充実した生活を函館で送ったと思いますね。だから後年、郁雨への手紙に『死ぬときは函館で死にたい』と、書き送っているのです」と福田さんはいいます。
1984年(昭和59)、函館啄木会の総会で啄木の自筆資料のすべてをカラーコピーにすることを決めました。岡田弘子さんが中心になり、2年がかりで完成させたコピー資料は8千枚を超えました。その費用は、市内の財団法人相馬報恩会が全面的に協力しました。現在、旧日本銀行函館支店跡の建物で、北方民族資料とともに、そのコピー資料を収蔵、展示しています。「とかく閉鎖的だと批判されてきた啄木資料を、やはり1人でも多くの人に公開して、啄木の事績を顕彰し、正しく理解してもらおうという目的のほかに、資料の寿命も考えてのことでした。約80年間大切に取り扱ってきたので、和紙に書いたものは問題がないのですが、明治時代の西洋紙を使った日記類は、紙自体の寿命が百年くらいといわれ、傷みがすすんでいますし、インクも薄れてきています。しかし、かなり精巧なコピーができたので、仮住まいではあるけれども、函館市文化・スポーツ振興財団によって常設展示できるようになったのは、よかったと思っています」と、福田さんは語っています。
東京、大阪、札幌に加えて、地元でも生誕百年記念、青函博などで啄木展を開催しており、オリジナル資料は市立函館図書館の啄木コーナーに常設展示しています。また、啄木の命日4月13日は、毎年、地蔵堂で『啄木祭』をおこない、法要をしたあと啄木に造詣深い人の講演を聴き、苜蓿社の歌会ゆかりの南部煎餅と夏ミカンを前にしながら啄木を偲んでいます。
一昨年は啄木愛好者を誘って、啄木の足跡をたどろうと郷里の石川啄木記念館、啄木新婚の家、渋民小学校跡やゆかりの寺などを訪ねました。今年秋には、啄木が函館を去って道内を漂泊して行った跡をたどる旅行会を計画。排他的といわれてきた姿勢からの脱皮をはかる活動をつづけています。「会員の主要メンバーがそれぞれ老境に入っていますし、会員の構成についても考え直さなければならない時期に来ています。ただ、市に永久保存を寄託した資料の維持管理と正しい取り扱いに参与するという使命があるので、むやみに門戸を広げていいというものでもなく、いま検討中です」と福田さん。
この数年来、若山さんが中心になって函館文学館の建設を市に陳情してきました。その運動が功を奏して、市は「地域づくり推進事業一兆円構想」の一環で建設することを決め、すでに建物の調査は終わり、今年度中に補修、展示の実施計画をまとめて、2年後に完成させる作業が進んでいます。建物は1921年(大正10)に建設された旧第一銀行函館支店跡で、(株)ジャックスから市に寄贈されたものがあてられます。ここには亀井勝一郎、久生十蘭、林不忘、長谷川四郎など出身文学者の資料も集められますが、計画には函館啄木会の意向がじゅうぶん反映されていきます。
啄木は函館にもっとも信頼できる友を得て、その仲間によって作歌への意欲を取り戻して、やがて口語体、三行書きの生活あふれた心境を詠む新形式の叙情短歌を生みだして『一握の砂』を東京で発表し、郁雨と東京の友、金田一京助に献じています。そして、函館で初めて新聞社に勤めようとしたことが生涯の仕事の場になるのです。
「宮崎君あり、これ真の男なり、この友とは七月に至りて格別の親愛をえたり」
(『函館の夏』1907年9月6日記)
「午后、旭町に宮崎君を訪ふ。相見て暫し語なし。宮崎君と寝る。ああ、友の情!」
(『明治四十一年日誌』4月8目)
「宮崎君の手紙を思出して、函館が恋しかった。“君が必ず最も此処を思出すだらうと友の書いた大森浜! 海水浴」
(『明治四十一年日誌』4月8日)
啄木は、東京での窮乏のなかで函館時代を懐かしみ、のちに節子夫人の妹と結婚して義弟となった郁雨に物心ともに甘えた生活をつづけますが、死の間際に家庭内の問題から交際を絶ったまま世を去ります。しかし、郁雨の啄木に対する敬愛の情は少しも揺るがず、2人の子どもを抱えて肺病に冒された節子夫人を実家のある函館に連れ帰り、その死を看取るのです。立待岬にある石川啄木一族の墓は、郁雨の私費によって建てられたものです。
誠意の限りを尽くして後援しつづけた郁雨、岡田健蔵らの遺志は年がたち、代がかわっても確かに受け継がれ、今また文学館の建設に結晶しようとしています。