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1991年11月号/第47号  [ずいそう]    

私の処女作
斎藤 大雄 (さいとうだいゆう ・ 北海道川柳連盟会長)

川柳を作り始めて40年になる。18歳のときが処女作であるから、いまは58歳という計算になる。十代の少年が、なんでこんなオジン文学に擬りはじめたのか不思議だ。

その当時はニコヨン時代で、労働者の1日の稼労賃金が240円だった。それにひきかえ、新聞、雑誌で募集している「川柳」の入選賞金が200円から500円だった。だから、肉体を駆使して稼ぐよりも、頭脳を駆使して稼いたほうが楽だったというわけである。

そのときの処女作が、映画雑誌、月刊「平凡」で募集していた川柳だった。

 人だかり用もないのに寄ってみる

ちょっと選者に朱を入れられての入選であったが、そのときの歓喜はいまでも忘れられない。そして1ヶ月後に、賞金500円也が送られてきたのである。

そのときは学生アルバイトに行っていて、札幌駅構内の除雪作業をやっていた。たしか1日300円くらいはもらっていたと思う。
列車が通過して、次の列車が入るまでのわずかな時間を利用して、雪を捨てなければならない。苛酷などという表現以上の重労働であった。

そんななかの賞金500円なのだから、俺は才能があるんじゃないかとうぬぼれたものであった。

そのうぬぼれがいけなかった。いつの間にか川柳結社に所属して、同人として作句活動をするだけなら許せるのだが、川柳文学運動へと発展してしまった。そして、後へ引けない身となってしまったのである。

川柳生活40年、そのなかから得たものは何であろうか。まだまだ及びもつかないが、世阿弥のいう「心より出でくる能」の気持ちであった。

水溜りいのちが写る空の果て  大雄

人間をうたう川柳に、年輪とともに深まる可能性を求めて、今日も作句に余念がないのである。

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