川柳を作り始めて40年になる。18歳のときが処女作であるから、いまは58歳という計算になる。十代の少年が、なんでこんなオジン文学に擬りはじめたのか不思議だ。
その当時はニコヨン時代で、労働者の1日の稼労賃金が240円だった。それにひきかえ、新聞、雑誌で募集している「川柳」の入選賞金が200円から500円だった。だから、肉体を駆使して稼ぐよりも、頭脳を駆使して稼いたほうが楽だったというわけである。
そのときの処女作が、映画雑誌、月刊「平凡」で募集していた川柳だった。
人だかり用もないのに寄ってみる
ちょっと選者に朱を入れられての入選であったが、そのときの歓喜はいまでも忘れられない。そして1ヶ月後に、賞金500円也が送られてきたのである。
そのときは学生アルバイトに行っていて、札幌駅構内の除雪作業をやっていた。たしか1日300円くらいはもらっていたと思う。
列車が通過して、次の列車が入るまでのわずかな時間を利用して、雪を捨てなければならない。苛酷などという表現以上の重労働であった。
そんななかの賞金500円なのだから、俺は才能があるんじゃないかとうぬぼれたものであった。
そのうぬぼれがいけなかった。いつの間にか川柳結社に所属して、同人として作句活動をするだけなら許せるのだが、川柳文学運動へと発展してしまった。そして、後へ引けない身となってしまったのである。
川柳生活40年、そのなかから得たものは何であろうか。まだまだ及びもつかないが、世阿弥のいう「心より出でくる能」の気持ちであった。
水溜りいのちが写る空の果て 大雄
人間をうたう川柳に、年輪とともに深まる可能性を求めて、今日も作句に余念がないのである。