ウェブマガジン カムイミンタラ

1992年01月号/第48号  [特集]    遠軽

北の大地と森の中で独自の理念に燃え 少年の心のとびらを開く教護活動をつづけて77年
北海道家庭学校 遠軽

  
 網走地方のほぼ中央部に位置する遠軽町の北東部、留岡地区に建つ北海道家庭学校は、わが国近代化社会事業の先覚者である留岡幸助が1914年(大正3)に創立した全国ただ1カ所の私立教護施設(男子)です。崩壊家庭など恵まれない環境に育った少年たちが入学して、愛に満ちた独自の教育理念によって見失いがちだった生き方を学び、やがて見違えるほど成長して家庭へ、社会へと巣立っていく。谷昌恒校長から、職員の指導の様子と少年たちのこの学校での生活ぶりを聞きながら、教育のもうひとつのあり方を考えてみました。

奇勝・瞰望岩で知られる北見地方の中堅の町

(02)

遠軽町は、上川から北見に至る交通の要所で、湧別川など数本の河川の合流する肥沃な土地に発展した町。西部と南部では数百メートルの里山が豊かな森林を形成しています。人口は約1万9千人。網走支庁管内の町村では、美幌町に次ぐ第2の人口を有する町です。市街地の西南には、アイヌの人たちが「インガルシ(見晴らしのよいところ)」と呼んで神聖な場所としていた瞰望岩が地上75メートル(標高約161メートル)の高さにそそり立ち、町のシンボルとして知られています。

1892年(明治25)、囚人によって多くの犠牲者を出しながら開削した道路が開通して無人の駅逓所が設けられ、新潟の人によって初めて開拓の鍬が入れられたのは1895年のこと。宮城県のキリスト教信者が学田農場を設定して、この地に理想郷をつくろうという試みなどもあって、その後徐々に入植者は数を増していきました。

空知集治監に赴任、少年の教護事業を志す留岡幸助

それから約20年後の1914年(大正3)、留岡幸助師はこの地に大きな理想をもって農場と少年の教護施設を建設したのです。

(06)

留岡幸助(1865~1934)は、岡山県高梁市の商家に生まれ、若くしてキリスト教に帰依し「神の前に人間は平等である」という教えに強く心をひかれたといいます。同志社大学の前身である京都神学校を卒業したあと、1891年(明治24)に北海道空知集治監に教誨師(きょうかいし)となって赴任しました。ここで囚人とじかに接して導くうちに、犯罪者のほとんどが最初の罪は幼少のころに起こしていることを知ったのです。そして、少年の教護事業を一生の仕事にする決意をするのです。3年後にアメリカに渡って、監獄学を研究。青年刑務所で若い囚人と生活をともにしたり、各所の処遇の実際を視察して回りました。帰国した幸助師は、1899年(明治32)、東京・巣鴨に「家庭学校」を創設しました。まもなく内務省の地方局嘱託を任じられて農村の実情を知るにつけ、幸助師の心は少年の教護事業に加えて、地方農村の振興に大きな関心を寄せるようになりました。

北の大地1千町歩を求め農場経営と教護の両立を

その志を実現するために、幸助師は1千町歩の土地を求めようとしました。このとき、幸助師の心には次のような考えが固まっていたと、谷昌恒現校長(69)は語ります。

「少年の教護には早熟な南の土地はふさわしくない、と幸助先生はいうのですね。教護を必要とする少年は大自然の中でゆったりと育て、一歩一歩固く踏みしめながら前進すること。北海道の冬は長く、雪は深い。春、地下深く凍結していた土地は、深く耕さなければならない。建物を建てるにも基礎工事をしっかりと、慎重に施工しなければならない。それは、幸助先生の教育理念に大きな教唆になったと思います」。

北海道に1千町歩の土地払い下げを受けるときになって、その土地をどこに求めるか。十勝地方や日高地方の土地が候補にのぼったのですが、それらの土地はすでに鉄道が開通していて便利すぎる。もっと不便なところを、ということで選ばれたのが遠軽町サナフチ川流域の地だったのです。

(05)

幸助師の計画は、営農可能な5町歩ずつを150軒の農家に提供し、1千町歩のうちの残る250町歩を学校用地にし、農家集団の支援を得ながら学校経営にあたろうというものでした。しかし、北辺の未墾の地を開いて直ちに営農に成功し、余剰を生んで家庭学校に差し出すまでには、とうていいきません。1軒1軒が死ぬか生きるかの生活と闘っているのです。この地方で初めてホルスタイン種の乳牛を導入し、やがて稲作にも成功するのですが、幸助師が毎日書き残した膨大な日記には、農家経営の苦労ばかりを心配している様子と、東京に出張して寄付金集めに奔走する姿がページを連ねています。

1934年(昭和9)、幸助師は理想の志をじゅうぶん達成できないままに世を去ります。おりから、第一次大戦後の世界的な経済恐慌と、わが国が「15年戦争」への道を突き進みはじめた時代でした。そんななかで、幸助師亡きあとの不安を小作農家から取り除くためもあって、1千町歩の土地は430町歩の校有地を残して、すべて小作人に解放し、自作農を創設オました。この段階で、幸助師が理想とした付属小作制の農場経営と少年の教護活動を両立させようとした柱の1本はついえたのです。しかし、自作農を実現した農家の人たちがその功績を称え、この地を「留岡」と命名して、いまに残っています。

広大な森の中にゆったりと軒を連ねる校舎や生徒寮

社会福祉法人・北海道家庭学校(〒099-04 遠軽町字留岡34番地、電話01584-2-2546番)の校門を過ぎると、広大な雑木林の中に各種の施設が点々と見えてきます。野菜畑、木工教室の前を通って進むと、この地から出土した石器や土器、化石、アイヌ衣服などの資料、標本などを収蔵する博物館、図書館が連なり、本館に出ます。さらに奥へ進むと、鐘塔のそびえる礼拝堂。生徒や職員が居住する寮は、洗心寮、楽山寮、平和寮、桂林寮、柏葉寮、石上館(せきじょうかん)、掬泉寮(きくせんりょう)の7棟が林内に点在し、昼食をとる食堂棟も。ほかに牛舎、集乳所、味噌をつくる醸造所もあります。

生徒の収容定員は85人、その指導に28人の職員があたっています。

(04)

谷校長は、この学校に赴任して22年になります。終戦の年の1945年に東京帝国大学理学部地質学科を卒業しましたが、この年の暮れに福島県で堀川愛生園を創設して戦災孤児らと生活をしていました。20年後、同園を辞して東京の社会保障研究所で主任研究員として社会保障や福祉事業の研究をつづけていたとき、家庭学校の創祖幸助師の4男で第4代校長に就任していた留岡清男氏に強く誘われて第5代校長に就任することになったのです。清男氏自身が研究者でもあって、自分の後を託せるのは谷校長をおいていないとの思いがあったようです。しかも、着任を承知したあとに谷校長がクリスチャンであったことを知って「これが導きというものだろうか」と感激されたといいます。

理解できるところから学び みんなで額に汗して働く

この学校は公教育一般の学校ではなく、児童福祉施設のひとつで教護院と呼ばれるものです。各都道府県に公立の教護院は設置されていますが、私立なのは全国でこの学校だけです。

生徒は、児童相談所や家庭裁判所の依頼によって入学してきます。非行を繰り返し、しかも家庭に問題があって保護能力に欠けているという恵まれない環境にある少年たちです。かなり非行が進んでいても、親が引き取るという少年の場合は家庭に帰されます。学齢は小学4、5年生から中学生、ときにはすでに就職していた少年が入学して来ることもあります。この11月にも3人が入学するなど、時期を決めずに受け入れています。

入学して来たとき「自分は悪いことをしたとは思っていますが、みんなもやっているじゃないか。なのに、自分だけがなぜ来たのかと思う。その点では気の毒な気がしますよ」と谷校長。

「入学して来たときの態度はまちまちです。『こったらところに居られたもんでない』と精いっぱい虚勢を張って悪ぶる子、親がなくて乳児院に育ち、施設や人手を転々とわたってきた子もいます。妙な社交術を心得ていて、なんの抵抗もみせない子は何カ月たっても変わらない場合が多い。抵抗するほうが、ふつうかもしれませんね」。

職員は、少年たちの社会や大人に対して深い不信感を示す訴えに静かに耳を傾け、非行をせずにはいられなかった少年たちの心を開かせる努力をしながら、早くこの学校の生活になじむように導きます。

朝6時、礼拝堂のチャイムの響きを寮のベッドで聴いて目を覚まし、身じたく、朝の掃除をしたあとに朝食をすませて登校します。

午前中は学習。学級は学齢をいったん白紙に戻し、学力に応じた学習から始めています。「きみの場合はここから始めよう」といって中学3年生の子に小学6年生の教科書を与えると、最初はバカにしていますが、教室内のやり取りを聴いているうちに授業内容がわかり始めてきます。すると、「ああ、ここからやり直さなければならないのか」と思うようになるのでしょう、急に学習に意欲を示すようになります。

(08)

午後は生産活動の時間です。職員と生徒が希望によって、そ菜、園芸、木工、土木、板金、酪農、山林、醸造などの部に分かれて、作業に精をだします。生徒たちが教室で使っている机、イス、寮の食卓、ロッカーなどは木工部の生徒の作品です。食卓にのぼる牛乳は酪農部の生徒が集乳したもの、みそ汁の味噌は醸造部の生徒がつくったものです。水道は土木部の先輩が校有地の湧水をパイプで引いて敷設しました。朝日森林文化賞を受賞し、北海道自然100選に選ばれた森は山林部の生徒が植樹をし、枝を払い、間伐をして大切に育てています。

しかし、この作業実習は職業訓練のためのものではありません。職員と生徒が一体になって額に汗し、自分たちで自給できるものを生産しているのです。「流汗悟道」という創祖幸助師の言葉を受け継ぎ、仕事の大切さ、労働の喜び、きびしさを、生徒たちは学んでいます。

幸助師のもうひとつの考えのなかに「三能主義」があります。それは、よく働き、よく食べ、よく眠ること。つまり、健康な生活を送ることです。健康な生活は人間を変える―これが幸助師の信念でした。

寮運営は寮長夫妻と生徒の「理解」や「親」が協力して

生徒の課外生活は、寮に分かれて送ります。学校の作業実習から帰って、夕食までのひととき、当番の生徒は寮内やその周辺の清掃、風呂の焚きつけ、薪割りなどにもうひと働きします。調理当番になった生徒は、職員でもある「奥さん」の手伝いをします。

寮は、職員の寮長とその奥さんを中心に12~13人の生徒が同居しています。寮生全員の中から「理事」の生徒が互選され、寮長と協力して寮生活を運営します。新入生が寮に入って来ると、入学後半年ほどたった生徒の中から「親」が決められます。親の生徒は新入生とベッドを隣り合わせにし、寮生活のあれこれを教えます。

「親になった子は自分が認められたことを自覚し、成長のきっかけになりますね」と谷校長。そして「愉快なのは、親になって威張る子、親になって親切、丁寧に世話をやく子がいます。威張る親に仕込まれた子は、自分が親になるとやっぱり威張っている。親切な親に教えられた子は、自分も親切な親になるという宿命みたいなものがあります。職員が腹をたてるような新入生にも、自分の責任だと思って親切と寛容の心で指導している親の生徒がいますよ」といいます。

(07)

この学校はまったく開放されています。ある生徒の母親が訪問したとき「校門のところに警察官が立っていてきびしく監視しているとばかり思ったのに、こんなに開放的だなんて」と驚いていたといいます。春、秋には町民が山菜採りやキノコ狩りに自由に訪れます。それだけに、無断外出したり、ときには脱走する生徒がいたりもします。「どんなに開放的で、親身な指導をしていても、他人の中で生活することは少年にとってたいへんな経験なのです。さまぎまな反抗やわがままがあっても、むしろそれは当然なことかもしれません。そんなことを繰り返しては連れ戻されてくるうちに、やがてぴたっとわがままをしなくなる」ということです。

「先生、おれこのごろしっかりしてきた」

この学校でほ、作文の朗読会を重視しています。生徒が書いた作文をみんなの前で朗読し、教員や谷校長が感想を述べて、ものの見方、考え方を教えるのです。1年半ほど在学しているある生徒がこんな作文を朗読しました。

「はじめはずいぶん規則違反をしたり、学校をとび出したりして先生に迷惑かけたけど、このごろ、おれ、しっかりしてきた。寮の理事になったり、学級長に選ばれたりして、いままではひとに頼ってばかりいた自分が、ひとに頼られるようになった。おれ、このごろ変わってきた」というものです。谷校長はそこをとらえて「ひとに頼ってばかりいた自分が、頼られるようになった、そのことがきみを変えたのです。人間、ひとに頼っているうちは不平不満が起こります。頼っているときと、頼られているときでは、ものの見方、考え方がぜんぜん違ってきます。きみが『おれ、変わった』というのは、先生たちみんなが認めるところです。どうして変わったのか。ひとを頼って受け身だったきみが、積極的に能動する人間に変わったことを、しっかりと心にとめるように」とアドバイスするのです。

(09)

こんな例もあります。「おふくろが許せない、別れた親父が許せない」といっていた生徒が夏休みに帰省したとき、母親からしみじみと「おまえ、大人になったね」といわれたというのです。「男出入りの多いといわれている母親で、それが中学生の少年には許しがたいこととして、おそらくいつも険しい目で母親を見ていたのでしょう。半年間母親と離れてみて、母親も寂しいのだと思って許す気持ちになれたのか。男の子で、どうせたいした話もしないのだろうが、久しぶりに会ったわが子が、自分をやさしい目で見てくれた。それだけで母親は胸に迫って『あの子、大人になった』とうれしがっていた」と谷校長は話すのです。

「心のとびらの取っ手は内側についている」

「職員の寮長夫妻は24時間勤務ですよ」と、谷校長は真顔でいいます。「生徒が『先生!』などといって人が恋しくなるのは、夜だったり朝だったりします。ふつうの勤務時間だったら、生徒たちは勉強していたり、作業をしていたり、スポーツに熱中していたりして、親代わりの職員を必要としない時間です。だから、24時間、生徒たちがすぐに求められるところにいなければならないのです。だからといって、職員がきりきりしているのではなく、生徒のすぐ近くで、ふつうの生活をする、それが仕事なのです」。

ときには落ち着かない少年が入学して来て、その影響でほかの生徒たちが乱れることがあります。そんなときの職員には、憎さが半分、いとおしさが半分の気持ちが交錯します。しかし、自分たちがこの子の最後の依り処なのだ。もしここで投げ出したら、この子は鉄柵のついたとびらと高い壁のある施設に行かなければならないかもしれないのだと思って、その生徒の心を開かせる努力をするのです。

そんな生徒も、ある日「先生、おれなんか居ないほうがいんだろう。先生の顔に書いてある」などと言ってきたりします。そんな態度はおくびにも出していないはずなのに、生徒は敏感に感じ取り、こちらがギクリとするような鋭い言葉を投げかけてきます。

「ああ、居ないほうがいいよ」と言い返すと、さすがにドキッとした顔を見せます。「だけど、なぜ先生がそのように考えるか、そのわけはきみが知っているよ」と、その生徒をじっとにらみ返してやるのです。

「きみが居ないほうがいいと考える先生は落第だけれども、きみはわざとみんなに意地悪ばかりしている。先生にそんなことを考えさせないために、きみにできることがあるよ」と言って聞かせると「やってみます」と答えたということです。

(10)

「対話は生きものですから、こんな言い方が最善とは限りません。ほんとうは『きみのことをいちぱん気にしているんだよ』と答えるべきかもしれない。しかし、そう答えても、その生徒は『先生は建て前だけを言って、本心ではない』と思うかもしれません。心のとびらの取っ手は内側についているものです。外側から開けようとしても開かない。生徒自身が内側から自発的に開けてくれないと、心のとびらは開かないのです。われわれは、外側からノックをするだけです」と谷校長はいいます。

教護活動は、少年たちが主役です。その生徒たちの心のとびらをみずから開かせて、いかにして問題解決の土俵にのぼらせ、きびしさに耐える力を身につけさせるか。職員たちは日夜自己反省を繰り返しながら、生徒たちと接していくのです。

生徒のいちばんの楽しみは親からの電話や手紙、小包

正月休みに家庭に帰ってきたのに、寮に戻るなり「モチを食わして欲しい」という生徒がいます。久しぶりに帰った家で、モチさえ買えない正月を過ごしてきたのかと思うと心が痛みます。

ある教育者は、ファミリーケースワークの必要性を論じます。しかし、谷校長はそれを否定します。「たしかに間違った家庭は多いが、それをわれわれが変えようと思うのはうぬぼれです。それよりも、子どもが変われば親も変わります。遠回りではあっても、われわれは生徒の心を変えることに専念しなければならないのです」。

校内で出会う一人ひとりの生徒が、あいさつをしてくれます。そのはっきりとした言葉と屈託のない声を聞くと、生徒たちはこの学校で明るく、強く生きようと努力していることが感じられます。

そんな生徒たちのいちぱんの楽しみはと聞げば、かつてはさんざん嫌い、養育を放棄された親からの電話と、手紙や小包が届くことだと、ある寮長が話していました。

在校期間は、生徒によって半年から2年くらいとまちまちです。義務教育年齢の生徒ほ、在籍する学校から復学を認めてもらって卒業するのが原則ですが、職員の努力にもかかわらず復学には困難が多いのが現実です。いきおい、義務教育が修了する期間まで在学する生徒が多く、その進路は就職したり職業訓練校に入学していき、高校進学はほとんどないといいます。

家庭学校が開校して77年。北辺のきびしくも深い大自然の懐に抱かれて学習と生産活動を体験しながら、人生のきびしさに耐えて生きる力を教えようとした留岡父子の理想を継承してきた谷校長と職員は、生徒との対話をもっとも重視した教育を進めています。この学校に入学して来る少年はそれぞれに社会に対する不信感を持ち、悲しみと悔恨の思いを深く持った孤独な少年たちです。職員は生徒と寝食をともにしながら、彼らの内側の心に愛をもって静かに耳を傾け、家庭的な愛情をもって教育実践していくのです。

(11)

この学校の卒業生は、約2千人にのぼります。学校では「予後10年」といって、卒業後10年間は再び誤った道に進むことのないようにと社会での生活ぶりを気遣っていきます。25、6歳という年齢はおおかたの少年を一人前の人間にしますが、彼らもこの年齢になるともう安心。りっぱに社会を支える一員として自立していきます。

◎この特集を読んで心に感じたら、右のボタンをおしてください    ←前に戻る  ←トップへ戻る  上へ▲
リンクメッセージヘルプ

(C) 2005-2010 Rinyu Kanko All rights reserved.   http://kamuimintara.net