ウェブマガジン カムイミンタラ

1992年03月号/第49号  [特集]    下川

幻想的なアイスキャンドルの灯火の中に 過疎の逆境をはね返す活力が燃えてくる
まちづくりアイディア研究会 コロンブスの卵 下川

  
 凍てつく銀世界の夜に、幻想的にゆらめくアイスキャンドルの灯火―この全国的に知られるヒットアイデアを生んだのが、上川支庁管内下川町のまちづくりアイデア研究会「コロンブスの卵」です。かつて全国有数の過疎のまちにランクされた危機感から行政がふるさと運動を全国に呼びかけたとき、「自分たちもまちおこしの知恵を出し合おう」と立ち上がったのが、このグループ。気付けば「なぁんだ」という身近な、そして遊びごごろから生まれたアイデアを形にして、まちおこしにつなげていく。そこには、逆境から活力を生み出す情熱がみなぎっています。

氷点下20℃を超す厳寒の夜 夢の灯りがまちを彩る

(02)

上川支庁管内最北の都市・名寄市から東へ18キロ、オホーツク沿岸には50キロの山間のまち下川町は、氷点下30度を超す日が年間数日はあるという、道内有数の酷寒の地。その凍てつく夜に、ファンタジックな灯りのアートを演出して楽しむアイスキャンドル・フェスティバルは、真冬の北海道の新しい風物詩になっています。

アイスキャンドルとは、氷で作ったランプシェードの中でローソクの灯りをともすものです。氷のランプシェードは、ポリバケツに水をはり、気温が氷点下16度以下に下がった夜に外へ出しておくと、バケツの水は縁側から凍っていきます。朝、適当な厚さに凍ったのを見計らってバケツの外側からお湯などをかけ、逆さにして抜き取ると、ガラスのように透き通った天然のランプシェードができあがります。それに思い思いのローソクをともす。ほのかな灯りが氷のシェードに守られて雪面をあたたかく照らし出します。

「家のベランダなどでともすと、純白の雪の上に氷の中にできた気泡がローソクの火にチラチラと影を落として、それは幻想的なものですよ」と、アイスキャンドルを普及してきた『コロンブスの卵』(事務局 電話01655-4-2578)の発起人である橋紀昭さん(51)が語ります。

そのアイスキャンドルが、毎年開催される下川町の冬まつりに4年前から登場。いまでは、冬まつりの名称も『アイスキャンドル・フェスティバル』と呼ばれて、まちの大イベントの主役をつとめるまでになっています。

過疎の危機感から行政が呼びかけた「ふるさと運動」

イメージ(女優の木内みどりさんも子牛の名付け親に)
女優の木内みどりさんも子牛の名付け親に

下川町は、行政がいち早くまちおこしの『ふるさと運動』に立ち上がったまちです。「全国の下川さん、集まって」と、町役場の開発振興室がマスコミで呼びかけて『ふるさと会員制度』を発足させたのは1981年(昭和56)のこと。翌年は「ホルスタインの雌の子牛の名付け親になって、子の成長と酪農家との交流を楽しんで」と呼びかけた『子牛の親制度』。さらに同じ年「カラマツの森を育てて、山持ちの気分を楽しんで」と『ふるさと2000年の森』の会員を募集するなど、全国の都市に住む人たちに熱いラブコールを送ったのでした。これら3つの会員は下川町の特別町民に認定され、その数は現在4400人。人口5012人の下川町にとって、心強い支援者になっています。

イメージ(まちにやってきた全国の人たちが石に名前を刻んで積み上げる「万里の長城」)
まちにやってきた全国の人たちが石に名前を刻んで積み上げる「万里の長城」

ふるさと運動のもうひとつの呼びものは『万里の長城築城計画』です。町内桜ヶ丘公園に延長2キロ、幅・高さとも3メートルの石積みの遊歩道を一つずつ人手で積み上げ、開基百年を迎える西暦2000年までに完成させようと、1986年(昭和61)当時の町建設部長の発案で始まったものです。積み上げる石には自分の名前やメッセージを刻み込むことができるとあって、町内外の若者や高齢者にも人気があり、すでに延べ23000人が参加して、昨年までに600メートルが完成しています。

過疎化全国ワースト4位で危機感強め、立ち上がる

こうしたユニークなふるさと企画が次々に打ち出されたのは、このまちを襲った激しい過疎化への苦しい対応が背景になっています。最初の波は、1964年(昭和39)から3年連続の冷害・凶作が農家を直撃して多くの離農者が出たこと。第2の波は、銅や硫化鉄などを産出していた下川鉱山が1981年(昭和56)に銅市況の不振から休山したことでした。従業員家族約2千5百人が住み、本町をしのぐほどの繁栄を見せていた社宅街はまたたく間にさびれていきました。さらに、営林署の統廃合も人口流出に拍車をかけたのです。

最盛期の1960年(昭和35)に15,550人だった人口は、3分の1の5千人台にまで減少し、先行きに不安を感じた商工業者は荒んだ気持ちを抱くようになっていたといいます。「なんとかその気持ちを和らげ、やる気を動機づけよう。それには、まず全国の人に下川町の存在を広くPRし、まちづくりのアイデアを求めて地域経済の活性化につなげよう」と立ち上がったのでした。

コロンブスの故事にちなんだまちおこしグループが発足

(09)

ところが、この企画のほとんどが町外向けの発想でした。「まちに住むものはスもしなくていいのだろうか。われわれも手をこまぬいてはいられない。みんでアイデアを出し合って、このまちを全国に売り込もう」1982年(昭和57)6月、町立病院に勤務する橋紀昭さんが呼びかけると、役場の職員や企業に勤務する人など5人が集まりました。当時、20歳代から30歳代の血気あふれる青年たちでした。「はじめまして―、それが最初のあいさつでした」と橋さん。しかし、まちの現状を思う心は同じでした。

「道内でも旭川以南で下川町を知っている人が少ないのは、さびしい。まず、まちのイメージを高めよう。それにほ、物に付加価値をつけるのではなく、まちそのものに付加価値をつけるために知恵を出し合おう」それが5人の心を固く結びつけました。

早速、グループのネーミングをどうするかが話し合われました。

アイデアはどんなに奇想天外な着想でも、いざタネを明かし、実行してみれば「なんだ、それだけのことか」といわれることが多いものです。しかし、発想は単純でも、機知に富み、ユーモアにあふれたアイデアは人の心をうつものです。肩ひじ張らずに、みんなが「なあんだ、そんなことか」と言うようなアイデアを日常生活の中から見つけ出して形にしていこう―。そこで、コロンブスの卵の故事にちなんで、『まちづくり研究会・コロンブスの卵』というユニークな名前に決まりました。

「まず自分たちが楽しむため、遊びごころを存分に発揮して、息長くやろう。ただし、政治と宗教にはかかわらないことにしよう」それだけの申し合せで、会則もないアイデア研究グループのスタートとなったのです。

発足から、早くも10年がたちました。この間、転出者があったり「おもしろそうなグループだ」と新規加入者もあって、現在の会員は8人。薬剤師、製箸工場経営者、建設業、旅館経営者、自営業、森林組合職員、町役場職員、福祉施設の職員とまちまち。それだけに、着想の幅も広がるというものです。年齢は50歳代2人、30歳代1人のほかは40歳代ですが、みんな“中年ヤング”を自認しています。

二つ折り名刺を手始めにアイデアを拾い集める

(06)

最初のアイデアは『二つ折り名刺』の制作です。「ひとに会って名刺を出してあいさつするとき、ついでに下川も紹介しちゃおうという発想です。ところが、名刺は裏に何かを書いても、あまり読んでもらえませんね。そこで二つ折りの名刺を作って、片方にまちのPRメッセージを書き込むことにしたんです。これなら必ず読んでもらえます」と橋さん。その名刺には北海道地図にまちの所在地を示し、「大好きな下川で何かできないかと、じれったく足をバタバタさせている子供みたいな仲間の集まりです」とグループの活動を紹介し、下川町の自慢をぎっしり書き連ねています。

「グループの名刺は、一人として同じものはありません。みんな自己主張の強い連中ですから、思い思いのものを作っているんですよ」

一方、自分の住むまちを楽しくするためのアイデアを持っていながら、どのようにして形にしたらよいかわからないでいる人はほかにもいるはず。そんな人のためにと『アイデア募集ポスト』を駅や学校、病院など町内8ヵ所に設置して、多くの人からのアイデアを募っています。それは、まちづくりをみんなで共有しようとすることのほかに、アイデアは幅広く拾い集めるものだという考えがあるからです。

イメージ(らくがき南瓜)
らくがき南瓜

目や耳をそばだたせ、心のアンテナを広げていたなかから拾ったアイデアのひとつに『らくがき南瓜』があります。近隣のある町長が運輸大臣に文字を浮き出させたカボチャを贈ったという話を聞いた橋さんは、自分でも本州の知人に送ってとても喜ばれました。これを全国に広げようと農家の協力を得て、発足3年目から始めたのです。これは、成長期のカボチャの表面に傷を入れて文字を書き込むものです。「カボチャにメッセージを書き入れる時と、そのカボチャを収穫する時の2回、下川に来てください」と呼びかけ、いまでは毎年2千個程度の注文があります。親戚や知人へのプレゼント、企業がお得意先への贈答品につかって好評なのです。

寒さと白へのこだわりから生み出されたアイデア

アイデア捻出のもうひとつのコンセプトに、下川の寒さと雪の白さへのこだわりがあります。

イメージ(しばれ缶詰「寒気団」)
しばれ缶詰「寒気団」

寒さを売りものにしたアイデアのひとつは、『しばれ缶詰・寒気団』です。直径7.5センチ、高さ11センチの缶の窓には氷点下30度を指した寒暖計が付き、ラベルには西高東低の寒気団が下川に張り出した天気図と「成分は天然しばれ100%。凍傷になる恐れがありますので開封しないでください」と印刷した、自分たち手作りのパロディーグッズです。

また『寒地体験認定書』の発行もしています。これは冬に来町した人に、その日の気温を記入して贈呈するもので、本州からの旅行者にはなかなかの評判です。

“ホワイトカントリーしもかわ”の実現を考えているなかから、白い花を咲かせるハーブの『カモミール』を見つけたのは5年前です。「花言葉が“逆境の中の活力”というので、すっかり気に入ってしまったんです」というのは、現会長の遠藤逸夫さん(43)です。このハーブは一年生草ですが、毎年種を落として咲きます。花言葉どおり荒れ地や霜にも負けない強い花なので、栽培は容易とのこと。カモミールティーとして飲むと青リンゴの香りがして精神安定効果があるといわれ、浴用芳香剤にも利用できるのではと試験栽培中です。たとえ商品化は無理でも、まちの家の庭先に植えて楽しみあうことができればと、普及をめざしています。

大ヒットアイデアとなったアイスキャンドル

イメージ(大アイスキャンドルに点灯)
大アイスキャンドルに点灯

アイスキャンドルの誕生も、雪と寒さで閉じこもりがちな冬の暮らしを楽しいものにするアイデアはないかとの考えが発端です。1985年(昭和60)、橋さんが家族で小樽・北一硝子の展示場でガラス工芸品を見学に行ったとき、ふと目に止まったのが1冊の本でした。なにげなしに伊藤隆一著『北の暮らし歳時記』のぺージをめくっていると、その中の「ロウソクの光のある風景」の一節に「…氷の塊の中に炎が揺らぎ、天然のキャンドルに早変わり。淡く透き通った自然のガラスに入った炎が、白い庭に幻想的に灯って…」と、北欧フィンランドの子どもたちが作るキャンドルの様子が紹介されていたのです。「あとで伊藤教授にこのときの話をしたら『ガラス工芸品を見に行って、片隅に置いてある本に目を止めるとは、造形に対する関心が薄い証拠だ。しかし、その本を読んで自分たちも作ってみようと言い出したのは君たちが初めてだ』と叱られたり、励まされたりしましたよ」と橋さんは笑っていました。

小樽から帰って、早速グループにその本を見せたところ、読んだ仲間たちは顔を見合わせました。「これだっ」と、みんなの脳裏にひらめきが走ったのです。「バケツでとは書いてあるが、一斗缶のほうが四角くて大きいから」と試作をしてみると、薄いブリキの缶は凍ると膨らんでしまい、その凹凸のために氷のシェードを取り出すのがたいへん。そこで伊藤教授に手紙を出すと、くわしく制作方法を知らせる返事が届きました。「ポリバケツを使えば難なく作れるのですよ。この時ほどコロンブスの卵の故事を実感させられたことはありません」と、遠藤さん。

翌年の冬に『今年の冬まつりの夜、まちじゅうアイスキャンドルでいっぱいにしませんか』と、作り方を説明したチラシを全世帯に配布しました。1人で20個も作った小学生がいました。遊びに来る孫のためにと作ったお年寄りもいました。商店街では宣伝コピーを入れ、形もくふうしたアイスキャンドルが飾られました。銀世界のまちをロマンチックなローソクの光で照らそうというグループの願いが実現したのです。

翌年の大晦日、NHKテレビの『ゆく年くる年』で、町内の名願寺境内に並べた500個のアイスキャンドルが全国に放映されました。ローソクの灯と氷が織りなすファンタジックな参道を進み、下川産の炭火で温められた鐘を力いっぱいに突くまちの人たちの姿は、全国に感動を呼びました。

そのまた翌年、14年間つづいた冬まつりの名称が『アイスキャンドル・フェスティバル』に改められることが決まりました。札幌の人から手づくりローソクの作り方を習って、公民館活動の一環として教室も開いています。

その後、アイスキャンドルが欲しいという注文が殺到。それに対応するためアイスキャンドル友の会という別グループが生まれました。毎年1万個前後のアイスキャンドルが発砲スチロールのケースにくるまれ、『ゆうパック』にのせて全国に発送されています。いまでは道内各地で作られるようになっています。

イメージ(フェスティバル会場に持ち込まれたアイスキャンドル)
フェスティバル会場に持ち込まれたアイスキャンドル

「アイスキャンドルはひとり歩きをしはじめて、下川の独自性が失われたような気もしますが、まちの人たちが『昨夜はずいぶんしばれたね。いいアイスキャンドルができたでしょう』というあいさつが交わされるようになった。われわれの思いが成功した証拠だと思っています」と遠藤さんは胸を張って言います。また、橋さんは「まちのある人が九州旅行をしたとき『北海道には、いろいろおもしろいことをやっている下川というまちがありますね』といわれて、ほんとうにうれしかったと言っています」と、まちの知名度が増したことを喜んでいます。

大勢のまちの人の応援でグループの拠点ができた

観光農園『らくがき南瓜』に協力してくれている農家が空き家になっていた家を無償で貸してくれました。これに『コロンブスの卵の家』と名付けて、グループの本拠にしました。冷蔵庫、流し台、食器、食器棚、座布団などの備品もまちの人たちから寄せられたものです。

早速、この家で札幌市豊平区「リンゴ太鼓」の子どもたちの合宿がおこなわれました。これは、その後につづく『ジャリパック3日間の旅』の第1陣です。

また、近隣市町のまちおこしグループが集まって『心産業交流塾』が開かれるようになり、ふるさと運動のネットワークは町外へも広がりをみせています。

「人もうけ、知恵もうけ、心もうけ」が活動の成果

(07)

「われわれは、しょせん自分づくりしかできません。自分たちが楽しいことをやろうというのが、グループの基本的な精神です。“中年ヤング”とからかわれながらも、遊ぶことに本気になって汗を流すと、そこからだれにでも楽しんでもらえるようなアイデアも生まれてきます」と遠藤さんは言います。橋さんも「自分が楽しいことをやっているだけです。その中で私にとってなによりも楽しいのは、いろんな出会いがあることです。知らない土地にたくさんの友達ができ、そこからいろんな情報も寄せられるのです。10年間活動をつづけてきた成果はと聞かれたら、自信をもって“人もうけ、知恵もうけ、心もうけ”をしたと言い切れます」と語ります。

各地にまちおこし運動がおこってから、かなりの年月が経過しました。しかし、ともすれば行政主導で進められることが多く、そうした町村の活動は近年色あせた傾向もみられます。そんななかで、自分のまちを愛する情熱によって触覚を研ぎすまし、遊びごころをベースにして自分の身の丈に合わせた『コロンブスの卵』の活動は、まちに暮らす人を主役にしたまちづくりの原点といえるものです。

(08)

会の運営費は、現在8人のグループの会費と、依頼が多くなった講演や原稿を寄せたときの謝礼だけだといいます。数々のヒットアイデアはまちの特産品として商品化され、利益を生み出しているものも少なくありません。しかし、その事業化はほかの企業や団体に任せ、あくまでもゲリラ戦法のアイデア集団に徹しています。

「下川はおもしろいまちだ、住みたいまちだ」と全国の人に言われることが、われわれの目標であり、喜びです」という、その無欲さがよいアイデアを生みだし、多くの人の支援を勝ち得ているのです。

素朴な情熱と誇りを持った若者のいるまちは伸びる

イメージ(伊藤 隆一さん)
伊藤 隆一さん

北海道教育大学教授 伊藤 隆一さん

下川町のアイスキャンドルは、私の著書が契機になったと、『コロンブスの卵』のグループは話していますが、私がたまたま小樽の北一硝子の店頭の片隅にその著書を置いてもらったのも偶然。グループの橋さんが退屈まぎれにその著書に目を通したのも偶然のことだったと思います。その偶然にインスピレーションを得て自分たちのものにし、ヒットさせたのは、自分たちの住むまちを愛し、寒さのきびしい冬を楽しいものにするためにはどうしたらよいかを常日ごろから心にかけていたからでしよう。それが、行政主導型や成果を先に期侍するようなまちおこしグループの活動とは根本的に違うところです。

まちおこし運動は各地に見られ、それぞれに悪戦苦闘していますが、大きなイベントやセレモニーをねらうのではなく、素朴に自分のまちをなんとかしようとする元気な若者が5人もいれば、必ずその活動は伸びると思っています。下川のグループの活動が、それを証明しました。今後も、すばらしいアイデアを生みだし、実践していくことを期待しています。

◎この特集を読んで心に感じたら、右のボタンをおしてください    ←前に戻る  ←トップへ戻る  上へ▲
リンクメッセージヘルプ

(C) 2005-2010 Rinyu Kanko All rights reserved.   http://kamuimintara.net