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1992年05月号/第50号  [特集]    十勝

十勝に根ざし 北海道の問題を 世界の人びとと語りあう雑誌づくりに夢を求めて
英文雑誌『ノーザン・ライツ』 帯広

  
 年刊誌『Northern Lights』(ノーザン・ライツ)は、北海道で初めての、しかも帯広という地方都市で13年間も発行をつづけている英文雑誌です。「北に生きる人間、そして風土と文化」を世界の人と語り合おうと、エッセーを中心にした雑誌づくりをつづける発行責任者の浦島久さんに、困難を乗り越えて英文雑誌づくりにこめる夢と熱意のほどをたずねました。

13年前、北海道で初めて創刊した英文雑誌

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一面にポピーの花が咲き誇る写真の上段に、『Northern Lights』の題号が浮きたつB5判の表紙をひらくと、牛と十勝平野の牧歌的な風景が展開されるカラーぺージ。そのあとには、ぎっしりと欧文活字でつづられた英文のエッセーが88ぺージを埋めつくす。そのなかの特集には「北海道の農業」がとりあげられ、日本人、外国人の農業青年らの寄稿エッセーがつづく―。これが北海道で初めて、民間で13年前に創刊された英文雑誌『ノーザン・ライツ』の1991年版第12号です。

発行母体は、(株)ジョイ・インターナショナル(〒080-0027 帯広市西17条南5丁目11-69 電話0155-33-0198 浦島久代表取締役、社員32人)。ここには、子どもを中心に英語教育をするイングリッシュハウス・ジョイ(生徒数・4歳児から高校生まで約950人)と、社会人を対象に英語教育をするジョイ・アカデミー(生徒数・社会人450人)があって、ほかに翻訳と通訳、それにこの『ノーザン・ライツ』と、東京の大手出版社から受注する英会話の本の企画編集などの事業をおこなっています。

海外勤務の夢を捨てた脱サラ、Uターン青年

イメージ(発行責任者の浦島 久さん)
発行責任者の浦島 久さん

『ノーザン・ライツ』の発行責任者、浦島久さん(39)は、小樽商科大学に在学中から英字新聞を編集するなど、英語大好き青年でした。卒業後の就職も、好きな英語力を生かして大手企業で海外勤務を―と夢をえがき、1977年に大手電器メーカーに入社しました。ところが、胸躍るはずの入社式の会場で、ふと自分のいまの居場所に疑問がわいたのでした。

浦島さんの入社番号は4番。最前列に並んでいて、うしろをふり返ると、約400人の新入社員がぎっしりと会場を埋めつくしています。

「新入社員で400人。当時この電器メーカーの全社員数は約6万人でしたから、自分は6万分の1か。これでは大企業の歯車どころか、小さなネジの1本くらいにしか相当しないな、と感じましてね」と、ほとんどその場で北海道に帰りたいという気持ちをつのらせたということです。

北海道の気候風土が懐かしく北海道で自分らしい生活を

それでも、大阪でのサラリーマン生活がはじまり、大都会の中をせっせと通勤する毎日がつづきました。

しかし、北海道の人の多くは、大阪の夏の暑さにまいってしまいます。
「大阪のあの暑さと、緑の少なさ。こんな気候・風土のなかには、とても住めないと思いました」。

浦島さんは十勝地方の東端、豊頃町で生まれ育ちました。緑の大地に、さわやかな夏風が心地よい、大自然に恵まれた町です。「だから、自然は身近にあって当然のこと。じつは、自然は大嫌いで、むしろコンクリートのビルが建ち並ぶ大都会にあこがれていたのです。しかし、いざ大阪に住んでみると、自分が幸せに暮らせる場所はここではない。やはり、自分は北海道人なんだ、と初めて知ったのです」。

新入社員の研修期間も過ぎて、浦島さんは宇都宮の営業所に配属されました。しかし、ここでの生活も大阪とさして変わらず、「北海道に戻ろう。それには何ができるか」を考える生活をつづけていました。

ライフワークは英語とともにと心を決めた2つの出会い

「北海道へ帰って、自分らしい生活をつくりあげたい」という思いをつのらせるなかで、ふと思い出されたのは、2つの偶然の出会いでした。

小樽商大での学生生活も終わりに近づいたころ、浦島さんは、いまでいう卒業旅行に金沢を訪れました。市内のお寺に民宿していると、何人かの旅行者のなかに金沢と姉妹都市を結んでいるベルギーのゲントという町からやって来た2人連れのベルギー人がいました。ところが、その通訳の女性が、疲れて倒れてしまったのです。そこで、浦島さんが外国人と英語で話をしているのを見ていた民宿のおかみさんから「学生さん、あの人たちに1日付き合ってくれませんか」と頼まれ、快く引き受けて、金沢のまちを案内しました。

「その日の午後、彼らは他のグループのベルギー人と一緒に京都へ行くというので多くの人が駅へ見送りに行ったのですが、出発が近づくと、たがいに抱きあい、泣きあって、別れを惜しむんですよ。言葉を通して心をかよいあわせた、国際交流の感動のシーンがそこで展開されたのです」。そのことが、ずっと心に残っていて、時折、思いだされるのでした。

イメージ(4歳児から社会人までが英会話を学習しています)
4歳児から社会人までが英会話を学習しています

もうひとつは、宇都宮でさらに英会話を勉強しようと英語学校に通うことにしたのですが、なにせ職場は残業つづきで、退社時間は毎日夜の9時、10時になり、とても通学などできません。結局、英会話の学校は1日で辞めてしまったのですが、その学校で校長や講師のアメリカ人など、職員がじつにニコニコ仕事をしている。自分のいまの生活にくらべて、それはまぶしいほどに感じました。

「自分も、こういう顔で仕事がしたい。北海道に帰って、国際交流とか、外国語を教える仕事がしたい」。浦島さんの将来への進路は、はっきりと定まっていきました。それからは、勤務をつづけながらも、北海道での英語学校開設の準備を着々とすすめる毎日となったのです。

青い海に浮かぶ純白の北海道を機上から見下ろしたときは涙が

1年半のサラリーマン生活にピリオドをうち、1978年12月1日に北海道へ帰ることにしました。

あと数日で冬のボーナスがもらえる、という時期に退職する―。浦島さんは、自分の誕生日にこだわったのです。仲のよい友人からは「ボーナス間際に退職するなんて、ばかだよ。まして自分で新しく仕事をするとなれば、ボーナスでもらうお金がどれほど助けになるかしれないのだぞ」と忠告するのです。しかし浦島さんには、入社当日からUターンを考え、じゅうぶんに情熱を持たない勤務ぶりで、会社に迷惑をかけたという思いもありました。しかし、それよりも24歳を迎える12月4日の誕生日を新しい出発の日にしたいという、固く、熱い決意があったのです。

宇都宮を発ち、羽田から空路千歳に向かった日は、上天気でした。「こんなことがあるのかと思ったのですが、飛行機の窓から青空の下に富士山が見え、日本海が見えました。やがて北海道に近づくと、こんどは真っ青な海の上に雪をかぶった純白の北海道が見えたのです。次の仕事に対する不安と、新たな気持ちでやるぞという思いが交錯していたときだけに、その光景を見たときは感動の涙を抑えきれませんでした」。

情熱以外はないないづくしで英会話教室を開設して

帯広に帰ってからの約4ヵ月間に、独力であれこれと準備を重ね、まず英会話教室の開設に着手しました。金沢で知りあったベルギー人がデザインしてくれた校舎も完成しました。しかし、浦島さんには、教職の資格がない、教師の経験もない。そして、資金も足りない。あるのは、英語に対する情熱だけだったのです。

イメージ(「言葉と世界」をテーマにしたジョイ・フォーラムは50回も続いています)
「言葉と世界」をテーマにしたジョイ・フォーラムは50回も続いています

生徒募集の宣伝をして1週間、集まった生徒はたった2人でした。父母たちにしてみれば、教職の経験がないばかりか社会的経験も乏しい独身の青年に、だいじな子どもを託すことに不安を感じたこともあったでしょう。また、なによりも英会話に対する理解が、まだこの地では不足していました。英語は、話せることよりも、教科の成績が上がればよい、と考えている父母たちがまだまだ多い状況だったのです。ふと、浦島さんの脳裏に、自分の理想と現実との距離、脱サラをしたことへの後悔がよぎりはじめていました。

そんなとき、地元の新聞が『家庭的な雰囲気の英会話教室がオープンします』という小さな記事を載せてくれました。その記事のおかげで、たちまち15人の生徒が集まりました。力を得た浦島さんは、この英会話教室をなんとか成功させたいという一心から、毎日のように小学校の前に立ち、登下校の児童にチラシを手渡しました。そのかいあって、1年目は84人の生徒が集まったのです。「人間、必死になってやれば、何かができるな」。浦島さんの胸に、大きな確信と希望が広がるのでした。

「風雪に耐え、大地に根ざした大樹となれ」がバックボーンに

浦島さんが北海道に戻る決意をしたもうひとつのバックボーンに、小樽商大を卒業する彼の心を強く動かした次のことばがあります。それは、『風雪に耐えて、大地に根ざした大樹となれ。けっして箱庭や鉢植えの枝ぶりのいい盆栽となるなかれ』という、当時の実方学長が語った卒業式のスピーチでした。「北海道に戻ったからには、私もこの地に根ざした仕事がしたいと思いました。ですから、教室は小さかったけれども、そこを軸にして講演会やシンポジウムなど、いろいろな活動をはじめました」。

イメージ(英語教師を対象にした英語教授法セミナー)
英語教師を対象にした英語教授法セミナー

その活動のなかで、とくに大きな広がりをみせたのは『オール・イングリッシュ・デー』でした。これは、1日、日本語をまったく使わない人工の英語圏をつくろうという催しです。最初は、帯広を中心に30人ほどが集まりました。現在は全道から150人が参加するまでに成長しています。「その第2回は『地方の時代を考える』というテーマでしたが、札幌などからパネラーを招いた英語のシンポジウムが盛会でしてね。このままで終わるのはもったいない。なんとか記録に残し、より多くの人に知らせることができないかと考えました。それが『ノーザン・ライツ』を発行する動機になったのです。ですから、『オール・イングリッシュ・デー』と『ノーザン・ライツ』は兄弟だと思っています」。

編集方針などなく、「英語で書いた文を集めて本を作ろう」

浦島さんは、学生時代に英字新聞を作った経験があり、活字媒体には興味を持っていました。このとき、新聞はスペースに限界があるので、雑誌なら記事が多ければページを増やせばいいといった程度に、単純に考えていました。
「もちろん、編集方針などなく、ただ英文で書いたものを集めて1冊の本を作ってやろう、そんな安易な考えではじめたのです」

ところが、英語で文を書ける人がいない。資金も予想以上にかかるなどで3回ほど挫折し、やっと4回目のチャレンジ。徹夜で編集をし、1980年7月に創刊号を完成させました。

「創刊号は、まるで学生の作った文集でした。レイアウトもまったくの素人ですし、写真は金がかかるので極力減らしています。広告は市内の建設会社と喫茶店の何軒かが付き合ってくれただけでした」。

それでも、刷り上がったばかりの創刊号を50冊ほどカバンに入れて、札幌へ売りに出かけました。そして、まず英語教師などの友人を喫茶店に呼び集めました。
「すごいものができたぞ」と、一人ひとりに手渡しながら評価を期待している浦島さんに対し、友人たちの反応は意外に冷淡だったようです。

「感心はするけど、これ、どうするの」
「北海道で売ろうと思っている」
「へえー、売る気なの」
「こんなの、売れるわけないだろうな」

そんな会話のはてに、やっと5冊ほどを買ってもらうありさまでした。書店や英会話学校を回っても、反応はほぼ同じでした。「北海道で初めての英文雑誌ができたのだから、売れないはずはないと思っていたのです。ところが“売る気なの”といわれたときには、夢と現実のギャップを痛烈に感じましたね。ひどく落胆して、帯広に帰ってきたのを覚えています」。

まもなく、北海道新聞が「珍しい英文のタウン誌が創刊された」と、紙面で取り上げてくれました。すると、現金書留が続々と届くようになったのです。
「うれしかったですね。一通一通に心からどうもありがとう』と返事を添えて、発送しました」。

1500部印刷した創刊号は、いま手もとに数冊を残すだけ。あとは全部売り切りました。浦島さんにとって、創刊号は文字どおり記念の1冊になりました。

イメージ(「ノーザン・ライツ」のバックナンバー)
「ノーザン・ライツ」のバックナンバー

創刊号で気をよくして、翌年の第2号は増刷をしました。出来上がりも創刊号よりは充実していたのですが、いまだに大量の残部を抱えています。2号目になると、もう珍しくないのでどこも取り上げてくれません。浦島さんは、ふたたび現実に戻って、『ノーザン・ライツ』の行く末を問わねばならない壁にぶつかりました。

「帯広をベースにして継続していくには、どんなくふうが必要かを考えました。しかし、帯広、十勝だけを対象にしたのでは販売部数に限界があります。したがって、北海道全体のトピックスを取り上げて部数を伸ばしていかなければならない。しかし、北海道全体に記者を派遣して記事を書いてもらうなど、とても経済的に無理だと悩みはじめたのです」。

そんなある日、浦島さんは郷土出版のベテランである札幌・みやま書房の古田敬三さんにその悩みを聞いてもらいました。すると、古田さんは、
「どんなに地味な郷土出版物でも、時がたつといつのまにか手もとから無くなっているものですよ」と語ったといいます。それが『ノーザン・ライツ』の方向を決める大きなヒントになりました。

「そうだ、雑誌ではあるが、単行本のような感覚で作ればいい」。浦島さんにとって、それは目からウロコが落ちるような開眼でした。月刊誌ならその月に売ってしまわなければ、あとになっては売れない。観光やビジネス情報も古くなったら売れない。そういうものとは違った雑誌を作ろうと決意したのです。ところが、ほとんどの商業雑誌は販売促進のために観光とビジネス情報を記事のメインにしているのです。それを否定することを編集の柱にするのですから、経営の前途は多難を覚悟しなければなりませんでした。しかし、1年間じっくり時間をかけて考えた記事を寄せてもらう。そうすれば、おのずと内容の質を高めた雑誌を作ることができる。そう方針が決まると、ふたたび情熱が燃えあがってきたのです。

『ノーザン・ライツ』とは北極圏のオーロラをいう

題号の『ノーザン・ライツ』は、当時、帯広畜産大学の非常勤講師をしていたアメリカ人のメアリー・ミラーさんが名付け親で、北極圏にあらわれるオーロラのことをいいます。浦島さんは、そのことを聞いて一発で決定しました。
「オーロラは見ようとしてもなかなか見ることはできませんが、まったく見ることができないというものではありませんね。夢も容易に達成できるものではないが、まったく実現不可能ということはない。そんな意味あいが、とても気にいったのです」。

イメージ(オール・イングリッシュ・デーもユニークなイベント)
オール・イングリッシュ・デーもユニークなイベント

浦島さん個人にとっても、ノーザン・ライツはキーワードになっています。カナダ・オンタリオ州にノーザンライツ湖があり、アンカレッジにノーザンライツ通りがあります。そのほか、ノーザンライツという名の大学、劇場、レストラン、バスケットボールチームもあり、浦島さんはそのどれにも足を運んで、交流をしています。

第10号の発行を迎えたとき、記念に待望のオーロラを見ようとスウェーデンのキルナという北極圏の町に1週間滞在しました。「結局、見れませんでした。でも、見れなくてよかったと思っています。もし見ていたら、雑誌は終刊させていたかもしれません」と、浦島さんはいうのです。

北海道に国際交流を広げる“pathfinder”

「じつは、第10号を発行したとき、ひとつの到達点かな、と思ったのです。初めは素人の雑誌だったのに、いつのまにか内外の著名人の書く記事が多くなって、プロの雑誌のようになったことに限界を感じはじめていました」と浦島さんはいいます。

それを思いとどまらせたのは、宇宙飛行士の毛利衛さんからの手紙でした。そこには『ノーザン・ライツ』を北海道に国際性を育てる、“pathfinder”(先導者)と見ている―という言葉があったのです。

イメージ(ノーザンライツ大学に送った青い目の_ルマ)
ノーザンライツ大学に送った青い目の_ルマ

そこまでいわれては、やめるわけにはいきません。もういちど、壁を突き破るための奮起をとり戻したのです。
「だれにも、一つだけは書けるドラマがある。それを1年間かけて、素直に書いてもらおう。そうすれば、初めて英文を書くようなふつうの人からも、必ず読者に感動を与える記事が求められることに気がついたのです」。

『ノーザン・ライツ』を片手に「この記事を書いた人を紹介してほしい」と訪ねてきたアメリカ人がいました。日本の女流版画家のカナダ個展をひらくきっかけとなったり、高校の英語の教科書に記事が採用されたりと、『ノーザン・ライツ』は大きな広がりをみせています。その果たした役割が評価されて、北海道国際文化交流奨励賞、北海道青少年科学文化国際交流振興賞などを受賞しています。ことに浦島さんをうれしがらせたのは、骨を埋めるつもりでいる地元帯広市から贈られた文化奨励賞でした。

世界を知り、地域を考えて“Better than yesterday”

ソニー会長の盛田昭夫さんの『世界的な視野で考え、地域に根ざした行動をせよ』という言葉を、浦島さんは『世界を知り、地域を考える』という言葉に置き換えて編集のバックボーンにしています。

農業や環境の問題、ライフスタイルのことなどは、帯広や北海道の問題であると同時に世界的な規模のテーマでもあります。すると、その記事はアメリカのどこかの町でも興味を持って読んでもらうことができる。人口17万人の小都市からそうしたテーマを拾いあげ“Better than yesterday”(きょうよりは1歩、あすに向かって前進する)の精神で雑誌づくりをつづけているのです。

イメージ(編集長のキャンベルさん)
編集長のキャンベルさん

浦島さんは、第11号から編集長のイスをディビット・キャンベルさん(34)に託しました。キャンベルさんはアラスカ州から帯広に来て7年、『ノーザン・ライツ』の編集もベテランです。
「日本の英文雑誌のほとんどは外国人のためのものですが、これは日本人と外国人がともに北海道のことを知り、考える雑誌です。もっともっと北海道のことを紹介したいですね。ただ、北海道の暮らしのことを取り上げるとき、1年に1回、夏の初めに発行するのでは冬の生活のことが取り上げにくいです。だから、将来は年に4回くらい出したいですね」と、意欲的です。

彼はいま、4人のスタッフとともに7月発行をめざして、第13号の編集にとりかかっています。今回のテーマは創刊号と同じ『Uターン新時代』。その号が発行される日は、もう間近です。

『ノーザン・ライツ』の名付け親

メアリー・ミラーさん (前北星学園大学助教授)
 

イメージ(メアリー・ミラーさん)
メアリー・ミラーさん

ノーザン・ライツ(オーロラ)は北海道で見ることができないから、だめかと思いましたが、浦島さんはとても気に入ってくれたようです。彼の勘がよかったのですね。その小さなオーロラを大きく広げて、この雑誌を成功させたことは感激です。
 これからは、環境の問題や幌延の問題など、政治的なトピックも積極的にとりあげ、世界平和のために役立つ雑誌にしてほしいと思います。

小樽商大英語部の後輩

武内仁さん (EC英会話・指導事業部長)

イメージ(竹内 仁さん)
竹内 仁さん

 学生時代の浦島さんは、バンドをやっていたり、英字新聞を作っていたりと多彩に活躍していました。やはり、創造性のある仕事が好きだったようです。また、彼は多くの人脈をもっていて、それが雑誌に生かされています。
 読者対象をどう広げていくかはむずかしいことも多いでしょうが、帯広発・北海道のトピックをどんどん提供して、海外との交流の橋渡しになってくれることを期待しています。

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