小樽ヴェネツィア美術館(小樽市堺町5番27号 北一硝子経営、取締役社長=浅原健蔵氏〈46〉電話0134-33-1717)は、札樽自動車道を下りて運河に向かう道道小樽臨港線沿いに位置しています。一帯は北一硝子三号館をはじめ、さまざまな業種によって再利用されている石造建築物が建ち並び、かつて海産物、米雑穀、海運、倉庫業などの根拠地として繁栄を極めた歴史をほうふつとさせてくれます。そこに、大理石を外壁に張った18世紀ネオ・クラシック様式の宮殿「パラッツォ・グラッシイ」をモデルにしたこの美術館が、あたりの街並みにマッチしながらも、ひときわ目をひいています。
地下1階、地上一部5階建て、延べ面積2700平方メートルの1階は、繊細優美なヴェネツィアンガラスのアクセサリー、各種オーナメント(置物)、グラス、シャンデリアなどを陳列したガラスショップ。2階・3階はヴェネツィアの宮殿内部を10の展示室に再現しています。ヴェネツィアンガラスや家具は、歴史的な作品の国外流出が禁じられているため、往時の技法によって再現された作品を展示しています。
浅 原 この美術館は、1988年(昭和63)に完成させましたが、建設にあたって、私は「この美術館は、小樽にしっかりと根を生やせるような建物にしなければならない」と考えました。ガラス工芸の世界的集積地であるイタリア・ヴェネツィアの文化を紹介するのにふさわしい建物は、やはりヴェネツィア・スタイルの建築です。そこで、ヴェネツィアの18世紀の「パラッツォ・グラッシイ」を模して建てようと考えたわけです。
日本建築の場合も、法隆寺や桂離宮はコンクリートを使って建てることはできませんが、江戸中期以降の城や寺院は現代の技術で復原しているものもあります。同じように、ヴェネツィアの建物も16世紀、17世紀のものは今の技術で建てることはできませんが、18世紀の様式なら建てることは可能なので、このスタイルにしたのです。
ところが、完成した建物を見て、地元の人からも「これは昔、どんな建物だったっけ」という質問をよく受けました。最初は気づかなかったことですが、完成してみると、この建物がそれほど小樽の街によくマッチしていたのですね。
考えてみれば、小樽の街には18世紀のイタリア様式の建物がいくつも点在しています。日本銀行小樽支店、旧三井銀行小樽支店、旧日本郵船小樽支店などは、4人しかいなかった工部大学校(現東大工学部)第1期生のうちの3人が、それぞれに設計した建物です。彼らは、18世紀イタリア建築のネオ・ルネサンス様式を懸命に勉強し、その成果を20世紀初頭の小樽で発揮したのです。そして、その後に建てられた歴史的洋風建築のほとんどは、ネオ・ルネサンス様式を踏まえているのです。ですから、小樽を訪れたイタリア人が、一様にイタリアの街に似ていることに驚き、親しみをもってくれます。
イタリア東北部に位置するヴェネツィアは、「アドリア海の女王」「イタリアの真珠」「水の都」などの形容で呼ばれる世界有数の観光都市です。117の島が150の運河と400を超える橋でつながれ、島全体の地盤沈下によって蜃気楼のように水中に浮かぶ美しいゴシック様式の建物のあいだを、黒塗りのゴンドラがのどかに行き交っています。
ヴェネツィアは5世紀半ばごろ、アドリア海北東沿岸のヴェネト族が東方フン族の侵攻を恐れてこの島に逃れたのに始まり、9世紀には海軍と銀行によって強大な力を発揮。13世紀にはガレー船によってコンスタンチノープルから東方の産物をヨーロッパに運び、地中海の制海権をも確保して、巨万の富を築いた共和国でした。13世紀から15世紀に黄金時代を迎えますが、その後トルコ勢力の拡大、喜望峰を回るインド航路の発見によって衰退の一途をたどり、18世紀末にはオーストリアと、19世紀半ばにはイタリア王国と併合されてしまいます。ただ、この歴史の流れのなかで、繁栄を極めた商人の時代が衰えたときに、素早く芸術・文化を擁護する時代に変身したことは注目されます。
一方、小樽は16世紀末に松前藩の知行地として開かれ、ニシン凾 cむ人たちが定着するようになりました。北海道開拓使本府が札幌に置かれるようなった明治前期は、札幌や道内各地へ運ぶ物資の陸揚げや開拓移民の受け入れ港となり、明治中期には海産物、米雑穀、倉庫業などを営む商人たちが増えて、特別輸出港に指定されました。ほどなく開港場にも指定されて国際貿易港となり、日本銀行をはじめ都市銀行が集中して進出、「北のウォール街」を形成しました。そして、第一次大戦のころ、小樽の雑穀相場はロンドンの相場を揺り動かすほどの勢いをみせました。いま小樽のシンボルとなっている幅40メートル、全長1300メートル余の運河が完成したのは1923年(大正12)のこと。黄金期には400隻ものハシケがひしめき、威勢のいい荷役がおこなわれていました。しかし、第二次大戦後は対岸貿易が閉ざされて、雑穀、海産物の卸商は衰退をたどり、都市銀行をはじめ多くの商人は本拠地を札幌へと移して、小樽は斜陽の色を濃くしていきました。
浅 原 小樽もヴェネツィアも、ともに運河と商人の街です。そして、スケールの違いこそあれ、ひじょうに似通った盛衰の歴史をたどっています。
ヴェネツィアの最盛期、多くの建築家や芸術家がそこに理想の都市を築こうとし、商人たちもその威勢と繁栄を誇示するために次々と宮殿を建てていったのです。それがいまなお残り、都市全体が美術館、博物館のように保存されています。小樽も繁栄の時代に建てた歴史的建造物がまだまだ残っています。ヴェネツィアの歴史的変遷をみると、そこに小樽の方向性に示唆を受けるものがあるのを感じます。とくに、私の家業はガラス屋ですから、ヴェネツィアがかつてガラスの一大生産地であり、いまなお世界に誇るガラスの集散地であることが、私に「小樽をガラスの街にしよう」という決意を与えてくれました。
浅 原 博多生まれの私の祖父が大阪でガラスの知識を学び、北海道でガラス産業を興そうと小樽に渡って来たのは1901年(明治34)のことです。ここで浅原硝子製作所として石油ランプ、つづいて漁業用ガラスの浮き玉の製造を始めました。当時のガラス製造は、ハイテク産業でした。私が社長に就任したのは1971年(昭和46)。社名を北一硝子と変更し、このころから、ガラスを実用本位から工芸品へと切り替えていきました。私は小樽をガラス工芸の街にするために大阪から若手ガラス工芸家を誘致するなどの手を尽くしました。そして1983年(昭和58)に、明治20年代に建築された石造倉庫を買収して、北一硝子三号館を開設したのです。
この古い建物の良さを生かすために、どうしたらよいかを考えました。修理のために使っていた新しい建材はすべて撤去し、建築当時の材料を想定して修復したところ、前の持ち主から「昔より、昔らしくなった」といわれました。このことが、小樽の石造倉庫再活用ブームのきっかけになったことは確かですね。開設のときは、小樽運河の存続に賛成の人も否定的だった人も、ともにいろいろな感慨をもって励ましてくれました。現在、私どもの店には推定で年間180万人の来店客があり、小樽の文化性をベースにしたこの事業戦略は成功したことになると思います。古いものの良さを大切に生かしながら、現代の社会ニーズに沿った新しい活用にトライアルしていくことは、この街に生きるものの義務です。古き良い文化にも新しい感覚で現代にふたたび息吹きを与え、そこからまた新しい文化を創造していくことが大切だと思います。次に目指したのが、私はガラス屋ですから、ガラス工芸品を中心にしたすばらしいヴェネツィアの文化を小樽に紹介することでした。
かつて東方貿易を独占していたヴェネツィアは、華麗なエナメル彩色やレリーフカットをほどこしたイスラムガラス器を独占していました。しかし、14世紀ごろにイスラム世界に大政変が起こり、ガラス産地が壊滅して輸入は完全に途絶えてしまいました。そこでガラス器を自国で生産するため、ガラス職人を沖合いのムラーノ島に強制移住させて生産を始めたのです。さまざまな恩典や保護政策を与えたため、ヴェネツィアンガラスはみるみる技術を高め、やがて世界最高水準の名品を生みだすようになりました。当時の王侯貴族たちは、ヴェネツィアンガラスのシャンデリアと鏡に飾られた部屋にテーブルグラスをそろえて置くのを誇りにしていたほどです。
その後、繊細で精緻な彫刻をほどこすグラヴィール技法をもったボヘミアンガラスにその座を追われ、ヴェネツィアは装飾性の強いガラス杯や鏡、オーナメントをつくって対抗していきました。
浅 原 小樽の海とヴェネツィアの海はつながっています。そして、ガラスによってもふたつの都市をつないでみたいと思いました。ヴェネツィア美術館は、ヴェネツィアの貴族の暮らしを再現しています。それは、日本人の暮らしが今後どのような方向に進んでいくかを検討したなかから選択したものです。欧米をはじめ世界20カ国以上の国と取引していますと、ガラスという物差しで生活文化の方向性がおおよそ読めるものなのです。
ガラスに限らず、陶磁器や家具など、すぐれた工芸品を生みだした国や都市の生活水準はひじょうに高いのです。かつてヴェネツィアが「アドリア海の女王」と呼ばれていたころ、日本は「黄金の国ジパング」といわれて、西欧諸国のあこがれの国だったほど高い生活文化を持ち、すぐれた芸術や工芸品を生みだしていました。しかし、いま日本は「生活大国」などといっていますが、ほんとうに生活文化の向上に対して真剣に取り組んでいるのだろうかという疑問を持たざるを得ないですね。しかし、底流には、ようやく日本人にもイタリア・ルネサンス期の生活文化を理解できる水準になってきていることを感じ、そのことがヴェネツィア文化を紹介する決断の背景でもあるのです。
芸術をはじめ、高い文化性は人間の豊かな暮らしを実現するうえに大きな役割を果たしてくれます。私たちは、これまで豊かな暮らしのバロメーターをハードの充足に求めていました。しかし、これからはソフト面の質の向上を望み、精神的な豊かさを目指す方向に移行していくのは確かだろうと思います。
日本人は、ともすれば芸術や文化を大切にする心が稀薄だったのではないかという気がします。ガラスに関連したことでいえば、19世紀末、ガラス工芸が重要な素材となってフランスにおこったアール・ヌーヴォーは、フランスの版画家のもとに送られた陶磁器の包装紙に使われていた浮世絵に触発されて起こった芸術運動です。さらに、パリ万国博覧会に出展した日本画や日本の竹細工のモチーフ、技法がガラス工芸の巨匠であるルソーやガレなどに直接影響を与え、花鳥を描いた繊細で詩情豊かな名品がうまれたのです。しかし、そのことを知っている日本人は案外少ないのです。
また、日本のガラス業界もこれまで大きな過ちをおかしてきました。生産のオートメ化によって、酒造メーカーのプレミアム商品にされるような粗雑なガラス器をつくりすぎていたのです。いま、付録のグラスをもらって喜ぶ人はほとんどいないばかりか、捨てるか、棚の奥にしまって、自分の気に入ったグラスに買い替えています。ガラス業界も、いかに質の高いものを追求していくかが問われる時代になっているのです。私どもは、ガラス工芸をべースに世界のすぐれた文化を日本に紹介し、過去のすばらしいものを参考にしながら新しい生活文化を提案していきたいと思います。洗練された感覚と高度な技術が凝縮されたヴェネツィア文化を学びとって、新しい生活文化をつくるうえに役立ててほしいと思います。
浅原 小樽に生まれ育った私には、小樽がポリシーのある発展を遂げるために役立ちたいという強い思いがあります。小樽市民は、かつて小樽運河の保存、存続で10数年間論議を重ねてきました。いろいろな意見、立場はありましたが、それぞれ市民としての熱い思いがあったと思います。10数年におよぶ“運河論争”で私もいろいろと考え、理想の都市づくりとは何かをみんなで議論しました。最近、「歴史的建造物の保全条例」の網が全市に張られて、小樽の良さが保存されるようになり、文化都市としての再生がはかられつつあります。私どもの事業も多くの人びとの支援を得ながら、その点のひとつとしてここまでやってきました。点を線につなぎ、面に発展させていく市民の努力が今後も必要です。そのときによほどしっかりとしたポリシーを持っていないと、小樽の良さを残すために苦労をしてきたこれまでの努力を無にしてしまうことにもなりかねません。
人口300万人といわれる札幌圏の一角にある小樽は、それを吸引するほどの力を備える必要があります。そのためには、魅力ある核を持った観光を推し進めなければなりません。ガラス工芸は小樽の魅力のひとつとして評価を受けつつあり、その一翼を担う私どもの責任は重いと思っています。現在、「北一硝子」のほか「ザ・グラス・スタジオ・イン・オタル」「小樽運河工藝館」などの活動によって、小樽とガラス工芸のイメージは切り離せないものになっています。
ガラスの魅力はその透明感であり、色を反射し、光を屈折する美しさ、華やかさがある一方、脆く、冷たく、はかなく、幻想的な世界に引き込まれる魅力があって、ヨーロッパでは「ガラスは神が人間に与えた最大の贈り物」とまでいわれたといいます。ガラスは5千年も前に発見され、以来、その時代の科学と文化の成熟度を凝縮した知的、芸術的作業の中から多くの名品を生んできました。その知的工芸品を身近にすることは、心にうるおいのある真の豊かさをみずからの暮らしのなかに実現することにつながります。
【2F】
パラッツォ ピサーニ(応接間) 貴族の宮殿や邸宅では玄関の役目をもち、部屋全体はバロック様式でまとめられています。椅子は演出と装飾のためのもので、訪問客が座ることはありません。
パラッツォ マニン モザイクガラス技法のミッレ・フィオーリ(千の花)の展示室。
パラッツォ レッヅォニコ(居間と食堂) 客はこの部屋に案内されて歓談します。18世紀のさまざまな様式の家具が展示され、壁面に絵画が飾られています。
パラッツォ コルネール(鏡の間) 18世紀から現代までの装飾の美しい鏡が展示されています。
パラッツォ ダリオ(寝室) 日々の食事、親しい人との歓談の場も兼ねています。天蓋付きのベッド、キャビネットなどはバロック様式。アンティークなシャンデリアも目をひきます。
ゴンドラ 1階には一般的なゴンドラ、2階には豪華ゴンドラが展示され、全長11メートル、重さ600キロ。以前、ゴンドラは華美な色彩もありましたが、疫病の蔓延が繁栄に酔いすぎた警告と受け止め、現在は黒塗りとすることが法で決められています。
【3F】
パラッツォ フォスカーリ(ヴェネツィアンガラスの間) 伝統に守られた14世紀から20世紀にかけての特徴ある作品を展示しています。
パラッツォ ロレダン(書斎) プライベートな文化的、知的居室です。
カ・ドロ(貴族の食堂) 家族や友人と酒を飲み、食事をして優雅に過ごす部屋。豪奢な居住性が要求されます。
パラッツォ ペサーロ(内陸中流家庭の食堂) 比較的簡素で、教会から払い下げられた調度品を再利用することも頻繁におこなわれていました。
パラッツォ コンタリーニ(ヴェネツィアンガラスの間) 繊細で豪奢な装飾をもつワイングラスなど、すぐれた技術と高度な美意識によって生みだされた名品が鑑賞できます。
小樽商工会議所副会頭 中澤 信行さん
小樽は、当面、観光を柱に活性化をはかろうという合意のもとに進めている経済活動がかなりの成果をみせはじめ、明るいイメージを取り戻してきています。昨年度の観光客の入り込み数は500万人を突破し、ようやく波及効果も現れてきました。とくに、運河と歴史的建造物がつらなる街並みの中で、世界のガラス器を鑑賞し、すぐれたガラス工芸家の製作工程をじかに見学したり、郷愁を呼び覚ますオルゴールの音色に耳を傾けたりと、小樽は街全体がテーマパークの様相を呈しているのが大きな魅力になっています。
一方、急激に観光客が増えたこともあって、インフラの整備の立ち遅れが目立ちます。今後は、これらの環境整備とともに、知的欲求にこたえる施設の充実をはかる運動を進めたいと思っています。
前小樽まちづくり市民懇話会委員 早川 陽子さん
私は建築士の立場から、1年間、懇話会のアーバンデザイン分科会の活動を通じて小樽のまちづくりについて勉強させていただきました。そのなかで、歩車道の区別もない堺町通りを晴れの日も雨の日も地図を頼りに北一硝子三号館を目指して大勢の人が歩いて行く魅力は何かと興味を持ちました。古い石造倉庫の中の「闇」の空間と、そこにともるランプの明かりの魅力であることに気がつきました。じつに、うまい演出だなと感心しました。
私にとっての小樽の魅力は、ロマンティシズムと開放性を感じさせる港があることです。そして、坂が多いなど複雑な地形のため、断面でさまざまな見方が楽しめることです。小樽は、港を生かした水辺の楽しい街、歴史的な建物ばかりではなく、精神的な景観を残す街であってほしいと思います。