ウェブマガジン カムイミンタラ

1992年07月号/第51号  [ずいそう]    

別れ
冨士田 茂 (ふじたしげる ・ 横浜市民)

北海道の義弟の実家へ4~5泊の予定で遊びに行ったのはいつの頃だったろうか。7月の暑い最中であったことは記憶している。

釧路駅から歩いて10分ほどの松浦町には、彼の両親と親戚の人たちが集まっていた。横浜からはるばるやって来るというので、みんなで出迎えようと待っていてくれた。父親が「遠い所を……お疲れでしたでしょう。なんもできませんが、ゆっくり楽しんでください」。

義弟は6人兄弟の末っ子。長兄だけが東京に住んでいる。4人は夫婦共々、子供たちまで連れて歓迎にやって来た。次兄夫婦は札幌から車で来たと聞き、(なんて律儀なんだろう。弟思いとはいえ、ひと味もふた味も違った人たちだなぁ)言葉の端々にもそんな思いやりがみえる。

翌日から長姉夫婦の案内で、釧路湿原に行く。特別な計らいでもあったのか、小舟での見物。大自然の空気を思う存分に吸い込んで、青空の下で“大の字”になる様は、今でも胸がつまるほど懐かしい。

2日目は、弟子屈を通って摩周湖へ。カムイヌプリ岳の麓で密かに息衝く神秘的な湖が、見る者を惹き付けてはなさない。さらに足をのばして屈斜路湖へ車をとばす。途中、アーサヌプリ山近くの硫黄はすさまじいものであった。湖の砂を掘ると湯が出るのも珍しい体験である。松浦町に着いたのが真夜中。

寝る間も惜しむかのように3日目は朝市見物。都会では見られない新鮮な魚貝類が所狭しと並んでいた。

別れは、いつも辛いもの。

北海道特有の長い長い道を、姿の見えなくなるまで見送ってくれた三男夫婦。両親と親戚の家族は釧路港まで一緒であった。

“蛍の光”を合図に岸壁を離れていく定期船。切れてしまった紙テープは波間にさまよいながら沈んでいく。豆つぶほどに小さくなったみんなは、まだ、港に釘付けのまま手を振っていた。

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