3歳8ヵ月、可愛い盛りの男の子が、ある日突然、頭が痛いと訴えだしました。風邪かと思って頭痛薬を飲ませてみましたが、いっこうに効き目がありません。そのうちに意識障害がみえはじめ、母親の顔さえも認識できないほどに悪化していきました。小児科の医師に診察してもらっても首を傾けるばかり。いろいろ検査をしてもらったのですが、病因は発見できません。
子どもは、からだの具合が悪いこともあって泣き出すと、途端に発作が起きるのです。すると、目はトロンとうるみ、よだれを垂らし、夜中に暴れだすありさまです。精神障害ではないかと思って精神科の医師に診せても、結果はおなじでした。
「成長すれば、おさまるでしょう」、そんな医師の言葉は慰めにもならず、一時は、この子といっしょに死のうかと思い詰めるほど苦しい日々を送るのでした。
心あたりの病院を渡り歩いて1年、わらをもつかむ思いでお母さんは書店に飛び込み、医学書のページをめくっていると、わが子の症状にぴったりな病名をみつけました。『もやもや病』、奇妙な名前の病気ですが、確信に似た思いを抱いて脳外科病院の門をくぐりました。
『もやもや病』は、ウィリス動脈輪閉塞症といいます。大脳動脈がつまったために脳の底部に異常血管がひろがり、X線撮影をすると、その異常血管がもやもやと写るために名付けられたのです。
病名がわかった-それだけで、母親はホッとするのでした。
「この病気は厚生省が指定している特定疾患(難病)ですが、手術をすると病状の進行を食い止め、重度の障害を避けることができます。その医療も公費負担を受けられますよ」と診断してくれました。それにしても、病名を知るまでになんと遠回りをしたことか。
もやもや病は、百万人に一人の発生率といわれます。事実、北海道でも年間5人ほどの発生があり、1990年現在、167人がこの病気の医療受給者証の交付を受けています。しかし、少ない病気なので、専門医に到達するまでに時間がかかる場合が多く、適切な治療が遅れると脳卒中後遺症に似た神経障害を起こしたり、知的能力の低下にもつながるといわれます。それだけに、この病気に対する認識を深め、早期発見、早期治療の道をひらくことが急務となっているのです。
この難病の子を持つ札幌市の後藤篤子さんは、大阪に本部のある『もやもや病の患者と家族の会』に入会し、同じ苦しみを持つ人が北海道にもいることを知りました。
患者・家族の会の北海道ブロックをつくろう――昨年7月、8人の母親たちで会を結成。現在は29家族に増えて、たがいに情報を交換し、励ましあっています。この家族の共通の不安は、患者がいかに社会に適応した生活を送ることができるかということです。
「私の息子は、脳の血管の吻合(ふんごう)手術でいまは安定期にあり、小学校の普通学級に入学して健常児と同じ生活をしています。しかし、進行性の病気なのでいつ発作が起きるかわかりません。とくに泣くとマヒが起るので、泣かせないように育てようとすると、どうしても過保護になりがちです。それを克服しながらどのように育てていくかが、学齢期の患者を持つ家族の共通の課題になっています」と、後藤さんは話します。
この病気に、大脳動脈の吻合という有効な手術が施されるようになったのは20年ほど前からです。しかし、30歳代に第2の発病期があるともいわれ、学齢期を過ぎたあと、就職、結婚は可能かどうかなど、病気そのものに未知の部分が多いだけに、家族の不安は尽きないのです。
「世間に知られていない病気なので、社会の偏見や無理解によって、患者や家族の心を傷つける言動に遭うことも少なくありません。患者・家族の会をつくるとき、自分が表面に立つことにかなりの抵抗はありましたが、隠れてばかりいたのでは、だめなんですよね。私たちのほかにも、さまざまな難病に苦しんでいる人が大勢いらっしゃる。そのだれもが、適切な治療法の確立を待ち望み、難病に対する理解を深めて、障害があっても人問的に充実した一生が送れる社会の実現を願っているはずです。そんな人たちの体験を知り、みんなで力を合わせようと、ことし4月に北海道難病連にも加盟しました。結成にあたって、ほんとうに親身になってお世話くださり、活動のための資金も配分されます。そして、なによりも連帯することの心強さを知ることができました」。
その北海道難病連は、1973年(昭和48)に、北海道難病団体連絡協議会として発足しました。1960年代の後半、キノホルム剤の服用によって神経障害を起こすスモン病が大きな社会問題となり、全国スモンの会が結成され、あわせて進行性筋萎縮症、ベーチェット病など難病患者の救済、原因の解明などを国に要望する機運が高まっていました。それに対応して、厚生省は特定疾患対策室を設置し、研究費の補助金が予算化されて難病対策事業に着手したのが72年のことですから、そうした機運に呼応して、北海道の患者・家族がいち早く立ち上がったのです。
そのころの様子を、北海道難病連の専務理事・事務局長で、みずからも筋無力症患者の伊藤たておさんは次のように話します。
「72年に全国筋無力症友の会北海道支部が結成され、道庁に要望を持っていったとき、道内に4つほどの難病団体があるのでまとまったほうがよいとアドバイスを受けたのです。そこで、全国膠原病友の会北海道支部をはじめ、ベーチェット病、リュウマチ、筋ジストロフィーなどの団体で連絡協議会をつくったのです」。
その10年後の1982年(昭和57)に公益法人として知事の認可を受け、『財団法人・北海道難病連』に改称しました。現在は国の特定疾患だけに限定しない27の難病団体が加盟し、19の地域支部を組織して、さまざな活動を積極的に実施しています。
難病とは、
(1)原因が不明で治療法が未確立であり、後遺症を残すおそれのある疾病
(2)経過が慢性にわたり、単に経済的な問題だけでなく介護に著しく人手を要するために家族の負担が重く、精神的にも負担の大きい疾病
のことをいいます。現在特定されている病気は43。しかし、社会の変化によって新たな難病も出現しており、さらに30を超える病気が研究の対象になってます。なお、エイズなどは感染症のため別の対策が国ですすめられています。
会をつくったころは、患者は“難病奇病”と呼ばれて、悲惨な状態にありました。とくに地方では社会の偏見が強くて、難病は伝染するのではないかとか、兄弟姉妹の結婚の妨げになることを恐れて座敷牢のようなところに隔離したり、離婚されたりすることもありました。また、そのころはまだ医療費の公費負担が確立していないため経済的負担が大きく、医療を受けられない人が多かったのです。
「たいへんなのは、当時、農家の主婦が難病にかかったときでしたね。からだの具合が悪いのに無理をして働きがちです。とくに酪農家など、主婦が病気で倒れると牛も牧場も手放し、苦労して開拓した酪農を廃業しなければならない場合があったようです。それは嫁の責任ということになる。それがつらいから、信じられないほどからだがボロボロになるまで働いていたんですよ」
医療が確立していなかったために死亡率が高いばかりでなく、不治の病と悲観しての自殺や家族との心中も少なくなかったということです。
そんな患者家族にとって、難病連の結成は大きな希望の光でした。
発足当初は、伊藤さんの自宅が事務所でした。すると、朝食をとろうとする時間から電話が鳴りはじめます。箸を休めて応対しているうちに、こんどは直接訪ねて来る人がいます。次々に電話と訪問客の応対をしていて、朝食を食べ終わらないうちに昼になってしまうのです。午後も同じことの繰り返し。やっと電話や訪問客が途切れるのは夜の9時、10時という毎日でした。
「同じ病気の患者の様子を尋ねる人、適切な医療を受けるためのよい方法はないかなどを少しでも聞きだそうとするその顔は、みんな深刻で真剣なのです」。
1年後、札幌市立病院で難病患者の集団無料検診をおこないました。このとき、200人以上の難病患者が受診に訪れました。つづいて旭川市でも実施することになり、医師班が200枚のカルテを用意したのですが、なんと500人以上もの患者がやって来ました。足りない分のカルテをコピーしていると、病院のコピー機が焼き切れてしまったほどです。医師たちが昼食もとらず懸命に検診しても、午前中に来た患者を夜7時までかかっても診ることができない。市内在住の何十人かは検診できずに帰ってもらわねばなりませんでした。それほど、患者たちは行き場を求めていたのです。
患者・家族の会がはじめて集まったときは、みんなのさまざまな思いが一気に噴きだして、まさに涙、涙の会合でした。
「患者にとって、つもる感情の解放は大切です。しかし、泣いてばかりいては、だめなのです。もう少し強くなろう。もっと困っている人はたくさん「るのだから、強くなってその人たちにも手をさしのべよう」と、伊藤さんは呼びかけ、励ますのでした。
「健康な人や、違う病気の患者に自分の病気を理解してもらうのは容易なことではありません。同じ病気の人同士なら、何に困り、どこがつらかったかがわかり合えるのです。そして、自分の病気を正しく知ることができるようになれば、無用なことで悩んだり悲しまなくて済むようになります。そのうえで社会的にもバックアップする体制をつくることが大切なのです」。
そのためにも、伊藤さんは、難病連の活動がたがいに傷口をなめ合うような暗いイメージをなくすことに、もっとも心を砕いたのです。
「集まって楽しくなければ患者・家族会ではない」伊藤さんはそういって、毎年、合同レクリエーションや旅行会、クリスマスパーティーなどを開催しています。
「はじめは、患者がそんな旅行会をするなんてと外部の非難があり、患者自身も消極的でした。しかし、患者のなかには数年間も外出したことがなく、ろくに風呂に入ったことのない人がたくさんいたので、旅行会は患者たちにたいへん喜ばれました。これは、介護をするボランティア、医師や看護婦、保健婦など大勢の人の協力を得て万全の態勢を整え、莫大な経費もかけて実施します。温泉に入れるなど夢にも思わなかった患者たちの喜びを思えば、それだけの価値はじゅうぶんあります」。
クリスマスパーティーも、一般的な障害者の集いの枠を超えています。
「ふつうに企画されるパーティーは、お菓子とジュース、ミカンなどをテーブルに並べた、子どもじみた集いになりがちです。患者たちも健常者と同じようなクリスマスや忘年会を楽しもうと、盛り場のススキノでパーティーをすることにしたのです。そのころは車いすの患者などがススキノで酒を飲むなど、とんでもないという風潮があって、店に入れてくれない、タクシーも乗せてくれない。しかし、集団でやれば恐くないという思いでしたね。大勢を収容できる会場となればキャバレーかディスコホールです。支配人に交渉すると、よく趣旨を理解してくれました。酒を出し、ショーも入れて、それは盛大です。こうした催しに参加することが患者の自信につながるのです」。
それは、企画する側、参加する患者にとっても、まさに命がけのことです。現実に、途中で容体が悪化して救急車で病院に運ばれ、のちに死亡した患者もありました。しかし、家族からは「万全の態勢の中で起きたことなので、やむを得ません。行きたくても行けないところへ連れて行ってもらい、本人も満足だったと思います」。そんな感謝の言葉が返ってきたということです。
北海道難病連は、現在、患者または家族からなる12人の職員と、道からの相談員や委託業者からの派遣員などで日常業務にあたっています。常設相談室での電話や来所者の対応、福祉機器の販売や住宅改造の相談、地方へ出張しての集団無料検診や懇談会、医療講演会の開催、町内会を通じての家庭雑貨のあっせん、バザーの開催など、毎日が目の回るほどの忙しさです。また、加盟団体から持ち込まれるさまざまな要望を集約して、行政や議会への陳情、請願運動にも飛び回ります。
そして、ボランティアの育成と派遣、加盟団体の育成強化や新しい会の結成の手伝いもします。そのほか、難病患者・家族の生活の実態調査、『難病白書』、機関誌の発行もしています。
難病連には、支援団体として協力会とボランティアグループ『青い鳥』が組織されており、患者会、行政機関や議会、理解ある医療機関、企業などの総合力によって、北海道は難病に対する理解と認識がきわめて高いと全国的にも評価されています。
それを証明するのが、創立10周年のときに建設された『北海道難病センター』です。これは国際障害者年の重要施策として、道が全国で初めて実現したものです。鉄筋コンクリート3階建ての中には、和洋宿泊室、厨房、特殊入浴設備もあり、難病医療、福祉に関する図書や資料も整っており、その管理は難病連に依託されています。
(1)自分の病気とからだを正しく認識しよう
(2)病気をのりこえる勇気を培おう
(3)ほんとうの福祉社会をつくろう
―と患者に呼びかけ、患者と家族に生きる勇気と希望の灯をともしつづけてきた北海道難病連ですが、その道はいまなお険しいのです。
病因の究明、治療法の開発は依然として進まないなかで医療法、福祉八法の改定が実施されつつあり、それに対応するための活動をすすめなければなりませんし、組織や活動拡大に対応する財源活動も強化しなければなりません。そして、手狭になった難病センターを拡大するためケア住宅付きの別館建設もめざしています。
「難病患者や障害者に対する医療・福祉が充実した社会、難病患者や障害者もその人間性を最大限に尊重される社会の実現に向けて、粘り強い活動をつづけなければなりません」と伊藤さんは決意を語ります。
一方、患者側の意識もじゅうぶんに高まっていると言い切れない面が残っています。難病連の加盟会員数は、現在約9800家族です。難病医療受給者証が約35000人に交付されているのに比べれば、加入数はけっして多いといえないのです。
「これまで無我夢中で取り組んで、多くのことを蓄積してきたとは思いますが、これからは患者自身の人間としての生き方も問われる時期に来ているのではないでしょうか」という課題もあります。
「私たちは多くの人に支えられながら、勇気を持って知恵を出し合い、明るく活動してきました。それでもなお医療と福祉の谷間にある苦しみから解放されたとはいえません。先ごろの医療法と診療報酬の改定は、長期慢性患者とりわけ医療機関が札幌や一部の都市に偏在する北海道に住む私たちの療養生活を後退させ、圧迫してくるのではないかと心配です」と話す代表理事の三森礼子さんは、さらにつづけて、「私たち患者や介護する家族の高齢化が進んでいますが、高齢化はだれもが迎える問題であり、そのときは病気も併発するに違いないのです。私たちは、そうしたときの経験をいくらかは積み、知恵も蓄えているつもりです。つまり、私たちは日本がこれから歩んで行こうとする道程をすでに歩んできた先達であり、時代の案内人にもなり得るのです。自分たちを弱者というのに抵抗はありますけれども、現実に肉体的にも経済的にも弱い立場にある私たちから発信するアイデアによって住みやすい家、住みやすい街をつくり、すべての人が生まれてきてよかったと思える社会をつくる活動をつづけていきたいと思っています」と語ります。
そんな決意のもと、北海道難病連では、来年迎える20周年記念事業の準備がはじまっています。
個人参加難病患者の会・あすなろ会
再生不良性貧血患者と家族の会
全国筋無力症友の会北海道支部
全国膠原病友の会北海道支部
全国心臓病の子供を守る会北海道支部
全国二分脊椎症児(者)を守る会北海道支部
全国パーキンソン病友の会北海道支部
胆道閉鎖症の子供を守る会北海道支部
日本オストミー協会札幌支部
日本てんかん協会(波の会)北海道支部
日本リウマチ友の会北海道支部
北海道肝炎友の会
北海道潰瘍性大腸炎・クローン病友の会
筋ジストロフィー部会
北海道後縦靱帯骨化症友の会
北海道小鳩会
北海道腎臓病患者連絡協議会
北海道スモンの会
北海道脊髄小脳変性症友の会
北海道側弯症児を守る会
北海道低肺の会
北海道橋本病友の会
北海道バージャー病友の会
北海道ヘモフィリア(血友病)友の会
北海道ベーチェット病友の会
未熟児網膜症から子供を守る会北海道支部
もやもや病の患者と家族の会北海道ブロック
地域支部組織=札幌、旭川、函館、十勝、釧路、室蘭、北見、南桧山、根室、阿寒、厚岸・浜中、標茶・弟子届、中標津、早来、美瑛、白老、音更、岩見沢、戸井、美唄、白糠・音別
●国庫補助対象の特定疾患(単位:人)
べ一チェット病 1,248
多発性硬化症 359
重症筋無力症 466
全身性エリテマトーデス 1,612
スモン 167
再生不良性貧血 355
サルコイドーシス 730
筋萎縮性側索硬化症 127
強皮症・皮膚筋炎および多発性筋炎 634
特発性血小板減少性紫斑病 876
結節性動脈周囲炎 46
潰瘍性大腸炎 926
大動脈炎症症候群 305
ビュールガー病 1,047
天庖瘡 101
脊髄小脳変性症 652
クローン病 312
劇症肝炎 58
悪性関節リュウマチ 266
パーキンソン病 1,924
アミロイドーシス 15
後縦靱帯骨化症 579
ハンチントン舞踏病 13
ウィリス動脈輸閉塞症 167
ウェゲナー肉芽腫 14
特発性心筋症 479
シャイ・ドレーガー症候群 16
表皮水疱症 7
膿疱性乾癬 20
広範脊柱管狭窄症 7
原発性胆汁肝硬変 74
小計 13,602
●道単独事業対象の特定疾患
難治性肝炎 12,346
下垂体機能障害 707
橋本病 5,048
溶血性貧血 140
肺線維症 151
突発性難聴 904
ステロイドホルモン産生異常症 161
免疫不全症候群 39
シェーグレン病 1,024
突発性大腿骨頭壊死症 248
(特例)後縦靱帯骨化症 370
小計 21,138
合計 34,740