剣淵町は北海道北都の名寄盆地と上川盆地の境界近くにひらけたまちです。中央部には天塩川の支流剣淵川が流れ、平坦な流域に田と畑がひらかれ、東西両側のなだらかな丘の山林とがほぼ3分の1ずつを占めています。観光資源といえば、貯水池のある桜岡景勝公園と、びばがらすスキー場がある程度。開発も少なく、米、小麦、ジャガイモ、豆類、野菜、酪農などを営む農家は安定した経営をつづけています。
この比較的恵まれた農村にも過疎化は迫り、1万人近くいた人口は1970年代から急激に減りはじめ、現在は約4700人にまで落ち込んでいます。この危機感が商工会の青年たちのあいだに広がり、活性化への模索がはじまったのです。
町内で電器店を経営し『けんぶち絵本の里を創ろう会』の事務局長でもある肥田久宣さん(44)は、当時、商工会青年部の部長として、まちの活性化対策に心をくだいていたひとりです。経営コンサルタントを招いて、経営診断や経済フォーラムなどを開いて勉強会をしていましたが、回を重ねるうちに、どこか自分たちのめざしているものと違うことに気づきはじめました。「札幌の盛り場ススキノに仲間と酒を飲みに行って剣淵から来たと言っても“剣菱”という酒の名なら知っているが、そんなまちの名は知らないと言われるんですよ。これじゃ、活性化など覚束ない。もっと、ひとに知られるまちになりたい」肥田さんたちは、そんな思いをつのらせていたのです。
ある年、全国を公演して歩く劇団員の若い女性が青年部に訪ねて来ました。このまちで演劇公演したいから主催してほしい、という申し入れです。聞けば2000円券を750枚売らなければならないという。肥田さんらは驚きました。「このまちは、けっして文化的関心の高いまちではない。内容のいいのはわかるが、1000円のビールパーティー券でさえ300枚も売れたら精いっぱい。とても演劇の券を750枚も売るのは無理だ」と、みんなで断ったのです。すると、その女性は「あなたたちは、なんとか自分のまちをよくしたいとは思いませんか」と、きつい言葉を返してきました。
20歳前の若い女性にそんな言われ方をした青年たちは、カチンときました。「それなら、やってやろうじゃないか」と奮起した青年たちは、呼びかけあって『あすの剣淵を豊かにする実行委員会』を発足させ、早速、入場券売りに奔走しました。どうせ1回きりのことだから、とエネルギーを集中させ、800枚を売りさばいて、公演は大成功の幕となりました。
しばらくすると、こんどは「まち自慢、歌自慢」という近隣支庁管内対抗のテレビ番組出演の依頼です。はじめはだれも気乗りしない状態でしたが、自分たちで台本を書き、練習を重ねて1分間のパフォーマンスを終え、審査を待っていると、意外にも金賞を獲得したのです。「やれば、できる。このふたつの結集と挑戦がぼくらにとっては大きな自信となり、やがて自分たちとは無縁だと思っていた絵本の運動にのめり込む大きな下地になったのです」と、肥田さんはふり返ります。
経済フォーラムやまちおこし講演会から得るものを見い出せなくなっていた青年部は、商売以外のところにヒントがあるかもしれないと考えるようになりました。隣町の士別市にパリから10数年ぶりに帰国した版画家・小池暢子(のぶこ)さんが住んでいると聞き、その人の講演を聴くことにしました。1988年(昭和63)2月のことです。
小池さんは、長い外国生活の体験を踏まえて「世界から見た日本人」という演題で、外国人の日本人観を話すのでした。日本人は団体で観光旅行に来ても買い物だけすませて通り過ぎて行き、フランスの文化や芸術を理解しようとしない。せっかく経済的に豊かになっても、にわか成金のようで、人間的、文化的にはまだまだ発展途上国と思われている、という手厳しいものでした。それが肥田さんにインパクトを与えました。
講演の送り迎えの車の中で、小池さんから「東京の出版社で絵本の編集をしている人が北海道に移り住みたいと家を探している」という話を聞きました。「それ、剣淵ならだめなの」肥田さんは即座に尋ね、その人に会わせてほしいと依頼したのです。
当時、福武書店の児童図書編集長だった松居友(とも)さんがやって来たのは、それから1ヵ月半後のことでした。剣淵のあちこちを案内すると、地元の人にとっては何の変哲もない田舎の風景なのに、松居さんは「南フランスの田園風景に似た美しいまちですね」と、風景に見入っています。肥田さんらは、小池さんを案内したときも同じような場所で同じような言葉を聞いたことを思いだし、東京や外国で生活した人の感覚から見る自然観の違いに気づかされたのです。
その夜一席もうけ、肥田さんたちは、日ごろ思い迷っていた胸のうちを語りはじめ「なにか、まちづくりのよい方法はないものか」と尋ねてみました。すると「じつは、あるんですよ」という松居さんの返事です。そして「あなたたちは絵本を知っていますか」と尋ねられました。40歳前後の肥田さんらにとって、絵本はとうに縁の切れた存在です。
返答に困っていると、「ヨーロッパでは、絵本の原画は芸術品として高く評価され、あちこちのまちに絵本原画の美術館があります。しかし日本ではいわさきちひろのような個人の美術館がわずかにあるだけです。絵画と違って、絵本の原画はページ数分がそろってひとつの作品です。だから、それを見たいと思っても、散逸をおそれてなかなか見せてもらえず、出版社の倉庫や画家のアトリエに眠ったままになっています。そんないろいろな作家の原画を集めて、だれもが見たいときに見ることができる美術館が日本にも欲しいと思っているのです」と話すのでした。肥田さんらは、早速その話に飛びつきました。「先生、その話もらっていいですか」。
驚いたのは松居さんのほうです。全国を講演して歩き、あちこちで絵本原画美術館の話をしてきましたが、どこも反応がない。しかし、絵本とはおよそ無縁そうな青年たちがいち早く反応したことに、強い印象を受けて帰ったのです。
肥田さんらは、翌日、町長に面会を求めて「絵本美術館をつくって、まちおこしをしたい」と、熱っぽく話しました。唐突な話に戸惑いぎみの町長からは「まちおこしは、まず住民のコンセンサスを得ることが先決」と説得されただけで帰ってきました。
こんどは、町内の精神薄弱者更生施設「剣淵西原学園」の横井寿之園長に相談しました。絵本に造詣のある横井園長は「絵本でまちおこしとは…」と笑いながらも、賛同してくれました。しかし「きのうまで絵本を知らないものが急に言い出しても理解してもらえないだろう」と、たしなめられるのでした。
それはもっともでした。肥田さんが熱くなって語るのは、みんな請け売りの話ばかりで説得力がない。松居さんを招いて、直接話を聴こうということになりました。
その年の5月2日、第1部を「すばらしい絵本の世界」第2部を「絵本を使ったまちおこし」と題した松居友さんの講演会が開催されました。町は公民館活動のひとつとして積極的に協力してくれましたが、社会教育課の職員からは「20人も集まったら大成功だよ」と念を押されました。しかし、80人が集まりました。そのなかに、肥田さんから「必ず出席するように」と誘われた現会長の高橋毅(たけし)さん(45)の顔もありました。
高橋さんは、戦後まもなく町内奥地の沢を開墾した農家に生まれました。いまは市街の近くで天の川農園を経営しています。「たしかにまちは過疎化しているけれど、農業者にとっては離農地を買い取って拡大することができるチャンスにもなります。自分さえ一生懸命やっていれば、とそれほど危機感はありません。でも、農業者以外の地域の人たちと積極的にかかわりを持つことは大切」と思い、大きな期待もなく出席したのでした。
講演会の合間に、絵本の読み聞かせがありました。それを聴いていた高橋さんの耳に、すでに亡くなったおばあさんの声が聞こえてきたのです。そのおばあさんは郷里の東北の民話をたくさん知っていて、孫たちを集めてはよく昔話を話してくれたのです。そして昔話の最後には、きまって「えんつこもんつこ さけた」と結び、子どもたちはその言葉を聞き終わると囲炉裏のそばを離れで寝床に向かうのでした。
読み聞かせの絵本は、手島圭三郎作『ひぐまのあき』。そのなかに絵だけを見せるページがあります。そのページにさしかかったとき、少しの静寂が会場に流れました。すると高橋さんの耳に、あの「えんつこもんつこ さけた」が、おばあさんの声で聞こえたのです。高橋さんは不思議な感覚にとらわれるのでした。
「死んだと思っていたばっちゃんが、じつは自分の心の中に生きているのかもしれない。すると、自分も子どもや孫の中に生きつづけられる可能性があるのではないか」そう思うと、なにか不思議な、充実感のようなものに満たされました。その前の講話で「絵本は過去と現在と未来を結ぶ世界だ」と言った松居さんの言葉も、ごくしぜんに理解できました。
講師との質疑応答のときになって、高橋さんは「人類の歴史の中で、過去に栄えた文明がことごとく衰退した理由は何か」と質問しました。松居さんはしばらく考えたあと「人間も地上に生活する動物だけど、文明が進むほど自然界から離れてしまう。きつい労働は奴隷にやらせ、自分は土地から離れて自然界の摂理やバランスを崩してしまったことが原因ではないでしょうか」。その答えは、農業者の高橋さんにとって納得のいくものでした。
1988年6月8日、肥田さんらは仲間を14人に増やして『けんぶち絵本の里を創ろう会』が発足しました。しかし、絵本の里づくりだ、原画展を開く、原画美術館を造るといっても雲をつかむような話です。青年たちは小池さんなどに助言を受けながら、ともかくいちど絵本の原画を見てみようということになりました。そして、9月に小池さんとポーランドの絵本版画家クリスティーナ・ヒエロフスカさんの「国際交流版画二人展」、さらに11月には「手島圭三郎絵本原画美術展」を開催しました。これがたいへんな反響を呼びました
年が明けると、絵本コーディネーターの青木久子さんから300冊余りの絵本が寄贈され、「梟の単文庫」が誕生しました。2月には、小池、手島両氏をはじめ、海月清則、大井戸百合子、木村昭平各氏の作品150点が一堂に会する「冬の絵本原画展」が盛大に開催されました。また、8月には絵本原画120点と27ヵ国の絵本画家60人余りによる作品展と絵本、ポスターを集めて「国際絵本原画展」を開き、期間中には無着成恭、吉田遠志、松居直(ただし)、3氏の講演もおこなわれ、3500人以上の参加者に沸きました。
原画展は92年8月の秋野亥左牟(いさむ)全国巡回展までに5回を数え、回を重ねるごとに田島征三氏をはじめとした国内作家、さらにイギリス、ドイツ、アメリカ作家の作品参加によって内容を充実させています。
田島征三氏が一昨年に剣淵町で制作した『ジャックと豆のつる』などの原画による作品展が93年1月15日から開催されます。
町も、この運動の支援に立ち上がりました。1989年、ふるさと創生事業の対象として旧役場庁舎を改修し、まず原画収蔵庫を完成させました。つづいて絵本図書室、原画展示室、大ホールをもった『絵本の館』は91年8月にオープンしました。絵本図書も13000冊を購入しました。しかし、本来の目的は絵本原画美術館の設置です。釧路の画家海月清則作『こうしがうまれた』の油絵原画22点、小池暢子作『いちばんはじめのクリスマス』の銅版画13点をはじめ10数人の作家の作品原画300点以上をすでに購入や保管しています。
『絵本の館』のオープンとともに、「けんぶち絵本の里大賞」を設立しました。絵本を身近に親しむための原点は、自分の大好きな1冊を持つことです。専門家の評価にとらわれるのではなく、自分にとっていちばん好きな絵本を来館者全員で投票しあい、もっとも得票の多かった絵本に大賞を贈ろうと企画したものです。91年の第1回は142点の応募があり、3300人の投票の結果、『おばあさんのす一ぷ』(絵・水野二郎、文・林原玉枝)、第2回の92年は『ぼくはきみがすき』(絵と文・いもとようこ)が大賞に選ばれました。
『絵本の館』のオープンによって、剣淵が名実ともに絵本の里として大きくはばたくことになって、まちの人びとの結束がいっそう広がりました。町内の読み聞かせの会『つくしんぼ』は毎月例会を開いているほか、さまざまな人の協力で毎週土曜日にも「おはなし会」が開かれています。
なかでも大きな広がりとなったのは『剣淵・生命を育てる大地の会』(池田伊三男会長)が生まれたことです。この会は『絵本の里を創ろう会』に入会している農業者28人が「絵本の里にふさわしく、人びとのからだにやさしい農産物を作ろう」と集まった会です。それぞれの農園には、赤トンボ、てんとう虫、天の川、竹とんぼなど夢あふれた名前をつけ、ジャガイモ、カボチャ、ニンジン、大豆などを無農薬・低農薬で作っています。
この会に大きく協力しているのが西原学園です。大地の会は独自の販売ルートを持っていないため、学園がこれまで築いてきた福祉関係の流通ルートを積極的に提供。箱詰めから出荷までを一手に引き受けて全国に発送しているのです。「発足して3年ですが、生命を大切にする絵本の里のイメージあふれる安全な農産物を全国の家庭に送り届け、来シースンは1億円産業をめざします」と池田会長は力強く話しています。
5年間の活動を振り返りながら、高橋さんは語ります。
「流れ星が、いちばん文化の空気の薄いところに落ちたのでし蛯、ね。大勢の人が手助けしてくれる温かい風が吹き込み現象を起こした、それが絵本の里づくりだと思います。そして、絵本が自分にとって何なのか。自分自身の生き方を含めて、絵本が自分を客観的に見詰め直す手鏡になったと思います。絵本に触れる機会の少なかった青年たちが、絵本を通じて芸術的なもの、文化的なものを持つことの充実感を知りましたし、町内外のいろいろな人たちとの出会いによって、自分に内部変革が起きるのを感じました。そして、自分たちが動くことによって、まちが動いていくのを実感し、それが大きな喜びになりました。たかが絵本といわれるかもしれませんが、深めれば深めるほど“されど絵本”という思いを強く抱きます。その絵本から見い出した価値観によって、自己を完成させようと努力する―、その生き方こそ子どもたちに残してやれるものだと思います。
農村には、文化を受け入れる豊かな土壌が蓄えられていたのです。絵本の里はまだ幼木ですから、今後どのように成長させていくか。気の長い活動になると思いますが、そのなかで得たものを、矛盾をはらむ都市に向けて発信し、たがいに信頼感を持ちながらバランスのとれた社会を実現していく、そんな役割が少しでも果たせたらと思っています」。
高橋さんは北海道地域おこしアドバイザーに任命され、各市町村からの講演依頼に追われる日も多いとのことです。
教育長 斉藤 弘
かつて、私も『絵本の里を創ろう会』のみなさんとは企画の段階で一緒にかかわった経験がありますが、この運動はまちが過疎化していくなかで自分たちの気持ちだけでも活性化しなければという若い人たちの発想から生まれたものです。彼らの活動が絵本画家やさまざまな町外の人びとに受け止められ、自分たちのやっていることがすごいことなんだという意識を持つようになり、求めるものが見えてきたのです。そして、活動のなかにお年寄りから高校生、婦人会などが参加するようになり、大きなまちづくりを展開するまでになりました。
行政の立場からは、町長の考えもあって、住民の活動には財政支援はするが口出しはしないという姿勢をつらぬいております。
今後、この活動をどのようにすすめていくかは会としても企画を練りあげていくと思いますが、行政サイドとしては絵本の里にふさわしい、市街地の景観づくりに取り組んでいかねばならないと考えています。商工会も、いま商店街の活性化事業の検討組織をつくって計画立案に入っているようです。
また、教育委員会としては、小・中・高校でそれぞれに絵本を活用した教育が展開できないだろうかと考えています。そのへんのノウハウは、児童文学者などから教えてもらえる部分もあるでしょう。それが具体化できたら、必ず人間形成のうえですばらしい教育ができると思います。
取得した絵本の原画は、他のまちでも原画展などを開催したいという希望があれば、広く貸し出していく。それは私どもの使命でもあると考えています。
児童文学 加藤 多一
ことしから剣淵町民の仲間入りをしました。なぜ剣淵を選んだかとよく聞かれますが、私自身が絵はがきのような美しい風景の中に、絵はがきのように住むことを好まないのと、このまちがあまり開発も商業化もされずに純粋培養された村のようなまちなのが気に入ったと言えます。
風景は平凡な農村地帯だけれど、“人間の風景”はとてもいい。どんな人が住んでいるかはよく知らなかったが、ネズミや野鳥が直感で巣をかけるように、私もたぶんに直感で選んだということです。
子どものための文学をやっていると、自分の住むまちが子どもに説明したり自慢できるまちづくりをしていてほしい。その点、剣淵は『けんぶち絵本の里を創ろう会』と『生命を育てる大地の会』『西原学園』が三位一体でまちづくりをすすめている感じで、行政が活動を主導するかたちになっていないのが大きな特色です。これなら、子どもに説明できるし、子どもが作文に書いても自慢できます。
大都市には、競争の論理と市場経済の論理が大きくはたらいて、それにうまく乗りきれない人は苦しい思いをしています。しかし、農村地帯など小さなまちには、この二つの論理がやわらかくやって来て、自分の心の中で受け止めることができます。とくに、剣淵はいのちを大切にしようという人たちが多くいるまちですから、私自身が眠り込まずにいれば、そのうちに良い作品が書けるにちがいないと思っています。