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1993年03月号/第55号  [特集]    札幌市

身近なところで無視され隠されてきた 民衆の歴史に光をあて平和と人権の尊さを今に問う
札幌郷土を掘る会 札幌市

  
 私たちの郷土には、歴史のなかで埋もれ、あるいは隠されてきた多くの出来事があります。とくに、戦争へと突入していった昭和前期の国策のなかで人権を無視され、生命さえも奪われていった民衆の悲しい歴史の多くがいまも埋もれたままになっています。それを丹念に掘り起こしている団体の一つが『札幌郷土を掘る会』(〒007-0807 札幌市東区東苗穂7条3丁目、小松豊事務局長 電話011-785-2622)です。重く口を閉ざした体験者から真実の証言を聞き取る会員たちの活動は、平和と人権の尊さを守ることの大切さを強く呼びかけています。

“タコ部屋労働”の真実を描いて感動を呼んだ民衆劇

昨年11月28日、札幌市内の「かでる2・7ホール」で『今も聞こえる藻岩の叫び』という民衆劇が上演され、観客に大きな感動を与えました。

この演劇は、高校受験と非行問題に悩む、ある中学校の教師が、父親の葬式の夜、母から父親が生きてきた悲惨な過去を語り告げられるところから始まります。それは、札幌市民に貴重な水と電気をいまも送りつづけている北海水力電気(株)(北海道電力(株)の前身)藻岩発電所の建設工事現場で、50年前、実際に起こった“タコ部屋労働”と呼ばれる非人間的な労働でした。この演劇を企画した「札幌郷土を掘る会」の代表である石田国夫さんは、次のように話します。

イメージ(真剣な討議がおこなわれる月例会)
真剣な討議がおこなわれる月例会

「この演劇の上演をぜひ成功させたいと、札幌市民に“300人市民実行委員会”への参加を呼びかけたのです。100人はまたたくまに集まりました。まもなく200人を超え、最終的には260人に達しました。私たち会員は演劇にはずぶの素人なので、市内の劇団に協力してもらい、スタッフ、キャストを合わせて150人の大市民劇になりました」。

脚本を担当したのは千葉くに子さん、演出は市内のベテラン演出家である鈴木喜三夫さん、制作は北海道合唱団の木内宏治さんです。キャストは、2回のオーディションで選ばれたプロ、セミプロ、そして会員をはじめとした大勢のアマチュアでした。

実行委員のみんなは、1年間、郷土を掘る会が発掘したタコ部屋労働の実態についてのレクチュアを重ね、現場に何回も足をはこんで構想を練りあげました。そして、公演の3ヵ月前からいよいよ稽古入り。おもな稽古場は札幌市の職員会館や小学校の体育館。稽古日は毎晩で、時間のとれた人が集まって稽古を重ねました。大所帯のため、全員がそろって稽古する場所がないのです。出演者全員が顔をそろえたのは公演の前日でした。

「当日、わたしも端役で出演しましたが、開幕が迫るにつれて素人役者たちの緊張感は高まり、トイレがずいぶん混みあいましたね。芝居が始まると、みんな真剣そのもの。“棒頭”と呼ばれる労働者の監督役にふんした小学校の先生が、借金でしばったタコ部屋労働者を丸太で打ちのめす場面では、かなり力が入っていたようで、殴られ役の人を閉口させたようです」。

イメージ(体験者の聞き取り調査は真剣そのもの)
体験者の聞き取り調査は真剣そのもの

タコ部屋労働者の中には朝鮮人労働者も含まれていました。その人たちに対する人権を無視した過酷な長時間労働と虐待の真実を伝えるために、当時の新聞記事をスライドで映しだし、労働者が残した恨み歌がその悲惨さを訴えるように会場に流れました。そして現代。専門学校の女子学生が熱演した差別に苦しむ在日韓国人3世の少年と、それにやさしい心づかいを示す日本人少年との交流、おばあさんとのあたたかいふれあいなどで芝居は進行していきました。

「大部分を舞台のそでで見ていましたが、わたしの知るかぎり、幼児の泣く声がいちど聞こえただけ。あと聞こえたのは、すすり泣きの声だけでした」と石田さん。

全体に重苦しいストーリーのはこびに華を添えたのは、朝鮮半島の南北の壁を超えた在日大韓民国居留民団と在日朝鮮人総聯の有志による民族舞踊でした。それに、ろうあ者の劇団「舞夢」のみなさんも参加していました。

イメージ(現地を踏査する札幌郷土を掘る会の会員)
現地を踏査する札幌郷土を掘る会の会員

「幕がはねたあと、みんなで祝杯をあげるために歓楽街にくりだし、朝まで飲み明かし、午前4時に家に帰って睡眠をとろうとしたのですが、早朝から感動とアンコールの電話が鳴りどおし。電話はその後もつづき、1週間ほどのあいだに60本はきましたね。また翌日には、韓国・中央日報の記者が反響を聞いてやって来ました。そして、韓国でも上演できないかという話でしたが、職業も年齢も違う150人もの出演者では、そう簡単に再演はできません。彼は、公演の模様を収録したビデオテープを故国に持って帰りました」ということです。

11年前、4人で発足、現在の総会員は180人に

北海道の民衆史掘り起こし運動は戦後まもなくから始まり、とくに1970年代には炭鉱地帯や北見地方など各地で活発な活動をみせました。現在は、道内に40ちかい研究グループがそれぞれ独自のテーマを掲げて取り組んでいます。

かつて小学校の教員だった石田さんェ、民衆史の掘り起こしに手を染めはじめたのは約20年前のこと。網走管内の小学校に勤務していたころ、北海道民衆史の育ての親ともいわれ、同じ管内の高校教諭だった小池喜孝さんが主宰していた「オホーツク民衆史講座」に参加したときからです。4年後、石田さんは札幌の学校に転勤しましたが、そのころの札幌には民衆史の研究グループはなかったのです。

発足の契機となったのは、札幌市南区の地域住民の手で刊行された郷土誌『すみかわ』の中に定山渓鉄道工事にからむタコ部屋労働者の体験談を目にしたためでした。そこで民衆史に関心のある仲間4人で「札幌郷土を掘る会」を結成したのは1982年(昭和57)のことでした。しかし、歴史の掘り起こしは手間、暇のかかる活動です。「2年間は開店休業の状態でした」と、石田さんは当時をふり返ります。

炭鉱地帯や道東で囚人労働やタコ部屋労働がおこなわれていたことは北海道の正史でも知られていますが、存在しないと思っていた札幌でもこうした非人道的な労働がおこなわれたいたことに驚き、こつこつと調べていくうちに、次々とタコ部屋労働、朝鮮人労働が実際におこなわれていた現場が浮び上がってきたのです。

「歴史の表舞台からは隠され、無視された真実の民衆史を埋もれたままにはできない」という石田さんたちの呼びかけでしだいに仲間が集まり、現在は正会員50人、通信会員を含めると総勢180人という大きな団体になりました。

イメージ(毎年、民衆講座で調査結果が公表される)
毎年、民衆講座で調査結果が公表される

この会は、11年間、タコ部屋労働や朝鮮人の強制労働、戦前・戦中の不当弾圧、戦争体験などをとり上げ、人間の尊厳、生命の尊さにかかわるテーマを一貫して追求しています。会員は、一党一派に偏しない活動を信条にして、郷土史の真実を掘り起こしつづけているのです。

戦後も真駒内米軍基地工事でおこなわれたタコ部屋労働

タコ部屋労働とは、甘い言葉で誘い、前借金を背負わせて工事現場などの飯場に監禁状態で長時間重労働を強制する制度のことです。本州に古くからあった“納屋制度”と同じような制度ですが、とくに明治以降、北海道や樺太でおこなわれ、労働者を全人格的に支配、隷属させて囚人にも劣る残虐な労働を課すと恐れられていました。タコ部屋と呼んだのは、タコつぼに入ったタコのように、いちどこの飯場に入ったらふたたび抜け出すことができないという意味もひとつです。

北海道では空知管内の炭鉱地帯や、明治・大正期に急速に開拓が進み、大規模な道路工事などがおこなわれた北見地方に多く存在しましたが、北海道の大都市であり、比較的大きな工事現場が少なかった札幌に存在することはほとんど知られていませんでした。しかし「札幌郷土を掘る会」が調べていくと、推定も含めて70ヵ所ちかい大小の工事現場に存在していたのです。

タコ部屋制度は敗戦の翌年には解放されたものと多くの人が思っていたのに、驚くことにその後も、しかも日本の民主化をすすめるGHQの発注である真駒内米軍用の貯蔵穴掘りや南区北ノ沢の藻岩浄水場工事で1947年(昭和22)秋まで実際におこなわれていたことが体験者の証言で明らかになったのです。この工事で死亡したタコ部屋労働者は少なくとも3人はいたといわれ、事故のほか、劣悪な食事のために栄養失調になったうえに過酷な労働を強いられたり、棒頭と呼ばれる幹部監督などの残虐なリンチによって半死状態のままで生き埋めにされた人を目撃した人もいます。

イメージ(人権を無視したタコ部屋生活の場面)
人権を無視したタコ部屋生活の場面

石田さんたちは、この工事でのタコ部屋労働体験者ふたりから証言を得ることができました。そのうちのひとりは、タコ部屋に連れ込まれてまもなく、逃亡を防ぐため腕に入れ墨を彫り込まれました。無理やり幹部たちに押え込まれ、割り箸の先に何本か取り付けた針でなかば面白半分に彫り付けられたのです。それは残虐な過去の屈辱の烙印でした。その後タコ部屋を逃げ出して警察に訴えた人がいたのですが取り合ってもらえず、やむなくGHQに訴えたため、GHQによってこのタコ部屋は解放されたのでした。しかし、紋別方面の鉱山では1952年(昭和27)まで存在していたことが、すでに検証されています。

この調査結果と証言の内容は、会が以後毎年発行する札幌民衆史シリーズの第1巻として『“体験者が語る”戦後も続いたタコ部屋労働』が、1987年(昭和62)1冊の本にまとめられました。これは、印刷した1500冊がまたたくまに売り切れてしまうほど、たいへんな反響を呼びました。

「それは、人間としての生きざまや死にさまが問われる、重い証言が詰まっていたからでしょう」と石田さんは言います。

朝鮮人労働を含めて2年間で90人ちかい死傷者

市民演劇の脚本のもとになった民衆史シリーズII『今も聞こえる藻岩の叫び』は、1934年(昭和9)から36年の藻岩発電所建設工事現場でのできごとです。当時の電力会社から工事を請け負った元請け業者は2社、中請け業者が6社、さらに下請け業者が約40社もあり、少ない飯場で30人、最高は200人という飯場もありました。工事は、近くの農業者などが雇われス“通い”、前借もなく逃亡の恐れのない労働者の“信用部屋”、そして、監禁状態で重労働をしいるタコ部屋労働者が工事作業に従事するのです。

なぜこんな制度が生まれたかといえば、中間搾取が激しく、下請け業者が実際に手にするのは工事予定費用の35%程度しかなかったため、高い周旋料で抱えた労働者に費用をかけないで働かせるためでした。頑健そうな若者を見ると、駅や路上など場所もかまわず「いい仕事がある」と言葉たくみに声をかけ、半強制的にトラックに乗せて飯場に連れ込むのです。その日は遊廓などに連れて行き、酒と売春婦を与えて歓待するふうを見せ、一夜明ければ、その費用を前借として背負わせ、タコ部屋労働者として全生活を拘束されるのです。

下飯台(しもはんだい)といわれる最下等の食事台で、ご飯と薄い味噌汁1杯の劣悪な食事を立ったままで食べさせられ、重労働へと追いたてられるのです。2年間の工期中に犠牲になった死傷者は、朝鮮人労働者も含めて約90人に及んだといいます。

イメージ(ろうあ劇団や在日朝鮮人の有志ともいっしょのフィナーレ)
ろうあ劇団や在日朝鮮人の有志ともいっしょのフィナーレ

この飯場には朝鮮人の労働者もいました。このころは、まだ自由渡航で日本に来た人たちでしたが、明治期に締結された日韓併合条約によって植民地化されていたために「半島」と呼ばれ、さらに「タコ」と二重の侮蔑をうけていたのです。逃亡に失敗したある朝鮮人労働者が、厳寒のなかで細いひもをかけられ、ざらざらに凍りついた馬車道を全身血まみれで引きづられて行くのを目撃したと証言する人もいました。

札幌にも9千人が連行された朝鮮人の強制労働者

日中戦争が泥沼化していった1939年(昭和14)、旧日本政府は「国家総動員法」によって朝鮮人を日本に大量連行して強制労働へと駆り立てました。ある韓国人の体験者は「親せきの家に行くため農道を歩いている途中“人狩り”同然にトラックに乗せられ、そのまま海を渡って函館港に連行され、道南の鉱山に配給された」と証言しました。

札幌の朝鮮人強制労働者は、豊羽鉱山に約2千人、宮の森神社山の旧日本軍の地下壕工事約3千人のほか、丘珠飛行場など大小の工事現場に配属され、その数は約9千人といわれています。そうした人たちは母国語で家族の名を呼び、悲しみ、悔しさを叫びつづけていたのです。

こうした人たちの傷跡は、いまも癒えずに存在しています。ある在日韓国人3世が「日本を許すことはできない。しかし、日本を私なりに愛している」と語った言葉は重い意味を持っています。そこには、日本では差別に苦しめられ、しかし母国に帰りたくても母国語が話せないという苦悩と悲しみの複雑な思いが、痛烈に込められているのです。札幌における朝鮮人強制連行と労働についての「郷土を掘る会」の調査と体験者の証言は、1989年に刊行された札幌民衆史シリーズIII『海峡の波高く』にまとめられました。

弾圧の被害者、加害者 約40人の証言を掘り起こす

民衆史掘り起こしの大きなテーマのひとつは、弾圧の歴史です。

1925年(大正14)に制定された「治安維持法」は、国体(天皇制)を変革したり私有財産制度を否定することを目的とする結社をつくったり運動をすること禁じたもので、最高は死刑、さらにその協力者も処罰するという、いまでは考えられない悪法でした。この法律のもとで、日本が敗戦にいたるまでの20年間にわたって、ヒステリックなまでの思想弾圧がつづきました。「御国(大日本帝国)のため、天皇陛下のため」を錦のみ旗にして、憲兵、特高といわれた特別高等警察や一般警察の手で逮捕、拷問といった人権無視の弾圧を繰り返したのです。

「郷土を掘る会」は、そうした弾圧被害者はもとより、弾圧の加害者としての体験を持つ人を掘り起こして、札幌だけで40人の証言を聞き取ったのです。また、埋もれ、隠された関係資料を丹念に発掘した結果、札幌関係の被害者は、じつに1100人を超える多数にのぼっていることが明らかにされました。そのなかには、共産党などに対する思想犯とされたものはもとより、朝鮮人による独立運動の嫌疑、さらには生活綴り方、生活図画運動までもが対象にされたのです。

イメージ(朝鮮人の少年とお年寄りのホッとする交流も)
朝鮮人の少年とお年寄りのホッとする交流も

これらの証言をもとにまとめた札幌民衆史シリーズIVは『かたむいた天秤』という表題が付けられました。これは、治安維持法の制定と同じ年に建てられた札幌控訴院の正面軒上のレリーフ“法の女神テミス”の天秤が、本来公正公平であるべきなのに、弾圧に対する裁判は初めから国家権力の側に傾いていた事実を象徴したものです。この本もまた大きな反響を呼び、読者からさらに手紙や体験者の証言が続々と寄せられました。そのため、91年刊行のシリーズVが弾圧証言の続編として『戦争に反対した人たちがいた』にまとめられたのです。とくにこの本では、平和を願い、より良い暮らしを求め、良心を守ろうとして戦争反対を考えたり、言葉にすることで「国賊」「非国民」のレッテルを張られてしまった人たちの、血と涙の青春群像がとりあげられています。

民衆の生きざま、死にざまを見てこそ、ほんとうの歴史ェ

「私たちの活動は、大部分が証言者を探しだして、その体験を聞き取ることです。それは歴史の証明になるものですから、必ず複数の証言を得なければなりません。体験者のだれもが、2度と思い出したくない苦しく悲惨な過去なので証言したがりません。しかも、その体験は過去だけのものではなく、現在もなお周囲の差別や警戒心などによって暮らしの中に尾を引いているのです。その重い口を開いてもらうには、体験者とわたしたちのあいだに信頼感を確立しなければなりません」と、石田さんは聞き取り調査の困難さを話します。古い新聞記事を丹念に読むことも、当時どんな事件があったかがわかり、その関係者の手がかりを見つけ出すことができます。そして、ひとりを探しあてると、「あの人も体験者だよ」と知らされることが多く、一歩ずつ輪が広がっていくのです。

いま、シリーズVIでまとめようとしているのは、戦争体験者の証言です。“大東亜共栄圏・五族協和”の美名でアジア諸国に侵攻した日中15年戦争下では、日本兵もまた加害者であり、犠牲者でもあったのです。北支での捕虜斬殺や略奪、放火を証言した元関東軍兵士、細菌兵器、毒ガス兵器製造に参加した人たちがいたのです。

そして、従軍慰安婦とかかわった人や見聞した日本人の証言が2年間の調査で収録されています。そのほとんどの証言は日本軍が深く関与していた事実を語り、憲兵、将校、下士官の順で凌辱され、性病を感染させられた非道な行為への怒りです。

イメージ(モッコかつぎの稽古に苦戦する劇団員たち)
モッコかつぎの稽古に苦戦する劇団員たち

「平和で安穏な生活が打ち砕かれ、人権を踏みにじられ、そして尊い生命を無惨に奪われた歴史を2度と繰り返さないためにも、民衆史の掘り起こし運動は大切なことだと思っています。ドイツのワイツゼッカー大統領は『過去の歴史に目をつぶることは、現在の歴史に目をつぶることだ』と言っていますが、まさに、わたしたちが過去を掘っているのは現在を掘っていくことなのです。底辺に埋もれている民衆の生きざま、死にざまをとらえないかぎり、ほんとうの歴史はわからないと思います」と、石田さん。

ふだんは録音テープを持っての聞き取りが多いのですが、ある時はスコップを持つ気構えで自分の手足で調べ、自分の耳で聞くという基本的なフィールドワークをつづけなければ運動はすすみません。「知ったよ、理解したよだけでは、歴史を正しく塗り変えることはできません」と、石田さんは強調します。

平和と生命を守るためにと証言者の勇気と願いに感動

イメージ(過酷な労働の場面はシルエットで)
過酷な労働の場面はシルエットで

「これまで、ひじょうにたくさんの体験者や目撃者からの証言を聞き取りました。その人たちが苦しい体験を勇気をもって語ってくれるのは、平和を守ってほしいという切なる願いからなのだということを強く感じます。この人たちはけっして強調はしませんが、その願いにこたえるためにも、証言の一つひとつをきちっとまとめ、責任をもって多くの人に伝えていかなければなりません」と、事務局長の小松豊さんは、身を引き締める思いでこれまでの感想を語ります。

いま、わが国の国際貢献のあり方がいろいろ言われています。小松さんは“貢献”という言葉に疑問を持っていますが、それはこうしたかつての体験の反省を踏まえて考えなければならない時ではないでしょうか。

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