一本の樹と向かい合って、ゆっくりと時間をかけながら、立つ位置を変えて眺めてゆくと、その風景の向こうから、さまざまなことが見えてくる。
もう、ずいぶん昔、クナシリの島から引き揚げてきて、帰る日を待ちながら戦後の時間を生きてきたひとりの老人を主人公にしたドラマを創ろうとして、そんな老人のような樹を探しまわったことがあった。
イメージとしては、風雪に耐えたガッシリとした老樹が欲しかった。
根室のノサップ岬から、野付半島、羅臼までロケハンで訪ね歩いた。
ノサップ岬のオホーツク寄り、海上にクナシリの島影が遥かに望める高台にその樹はあった。
異様な姿であった。
そのカシワの古木は、早春の草原にしがみつくように根を張って突っ立っていた。2メートルほどの骨張った幹の先の枝は、驚いたことに、海と反対の方向に、幹と直角にまがり、地面と平行に片流れでよじれるように伸びているのだった。その樹の形を凝視めていると、深い沈黙のなかから、その樹が生まれてから今に至るまでの長い時間が、北の風土と対峙して生き抜いてきたひとつの命の物語となって聞こえてくるようであった。
風と雪にさらされた冬、伸びようとした春と、霧のなかで途方に暮れた夏、そして充分に実ることなく葉が枯れ、再び長い冬。光りに向かっていた枝は、絶え間なく吹きつける寒風に引き裂かれようとして、次第に地をはうように曲がってゆく。
幹と枝の細部が、そんな年ごとの厳しさを語ってくれて飽きることがなかった。
ドラマは、夏のその一本の樹の姿に、老人が語る昔話がだぶるところから始まり、冬の寒風に耐えて立つ異様な姿に春を予感させる音を加えて終わった。
一本の樹の姿には、その樹の上を流れていったゆったりとした自然の時間が刻まれているに違いない。
その時間を読み取り、時間のなかで繰り延べられてきた物語を聞き出すこと、それが物言わぬ樹に対する人間の礼儀というものではないか。
そんなことを、無造作に切り倒されてゆく森林の映像をテレビで眺めながら考える昨今である。