小樽市から日本海沿岸を西へ約20キロ、積丹半島東側の基部に位置する余市町は人口2万5千人、青い海とリンゴやブドウ畑が広がる、のどかなまちです。そのまちの沿岸をはしる国道5号からわずか内陸側に入ると、塔の屋根に十字架を輝かせた北星学園余市高校(046-0003 余市郡余市町黒川町96、電話0135-22-6211)の校舎があります。この高校は、プロテスタント・キリスト教主義による人間愛に満ちた教育をめざす学校法人・北星学園の高校として、1965年(昭和40)、地元の強い誘致要請にこたえて開校しました。
しかし、開校まもなくから地域の生徒数は漸減傾向をみせはじめ、札幌の公立高校、私立高校に入れなかった生徒が流れてくるようになりました。それでも、600人の収容力がありながら500人を超える年はほとんどなく、1987年(昭和62)には300人台に落ち込むというどん底の状態になったのです。この状態では経営が成り立ちません。そのため、本部理事会は「これ以上は累積赤字を生み、学園全体がだめになってしまう」ということで「北星余市高は閉校を決定した」との内示が教師陣に伝えられたのです。
教師たちのあいだに、存続を望む強い動きが起こりました。かつて、東京に転任した教師からの「東京をはじめ、全国には11万人ともいわれる高校中退生がいる。そのなかには、偏差値の高い学校からはじき出されたが、まだまだやり直しできる子がたくさんいる。そんな子を預ってくれないか」という頼みにこたえて、何人かを受け入れた経験があることを思いだしたのです。早速、当時の馬場校長が東京の高校50校ほどに「おたくの学校で留年していたり、登校がつづけられないでいる生徒がいたら、北海道で学校生活をつづけさせるようにしてはいかが。ご相談ください」と手紙を送ったのです。
そんな矢先、こうした状況を知った朝日新聞が『中退者、問題児引き受けます』という見出しで、北星余市高の教育の様子を全国版で報道しました。この記事がたいへんなセンセイションを巻き起こし、数日のうちに100本を超える間い合わせの電話が鳴りつづけたのです。それは、廃校寸前の学校を救う起死回生のできごとでした。
年が明けた88年1月、定例の校内教師研修会に校長から用務員まで全員が集まって白熱した論議が交わされました。しかし、全員の意思は固まっていました。
「開校いらい23年間、“底辺校”の教育といわれながらも、それを捨てずに子どもたちのために努力してきました。いまの高校教育に適応できずにいる子を教育するノウハウは蓄積しているし、経験も積んできた教師集団があります。どこの学校でもやれていないことを、うちの学校はできるという自負心がありました。だから、そうした子を受け入れることに迷いはありませんでした」と深谷哲也現校長は決断したときの心境を語ります。理事会も、そうした教師たちの熱意にこたえて、閉校の決定を取り下げました。
こうして、全国で初めて中途退学生や不登校をつづけていた生徒の転・編入受け入れを決定。2月半ばには全国の高校、中学校に募集案内を送り、3月に試験をおこないました。学科は国語、数学、英語の3科目で、内申書のボーダーラインはきわめてゆるやか。むしろ面接を重視し、行動面に学校生活を阻害するほどの暴力性がないか、過去の欠席率は問わないが、本校に来てからは登校拒否をしないかの意思を確認する程度です。
この年の受験者数はじつ457人におよび、そのなかから199人の入学者を受け入れました。そこには、東京や神奈川などを中心に、道外から45人の生徒が北の大地の高校に新天地を求めて入学してきたのです。89年、91年は220人を超えました。昨92年度も191人が入学、現在では本州からの生徒が全校の50%を超えるまでになっています。
受験してくる生徒と面接し、中途退学の理由などを聞き出すと、その大半はそれぞれに現在の教育のひずみを背負っていると、深谷校長はいいます。
そのなかでもっとも多いのは、不本意入学です。いまの高校生は偏差値によって選別され、行きたくない学校に入れられる。そのため学校に不満があっていきいきと学校生活が送れず、わずかなことでトラブルを起こして教師や友達ともうまくいかない。本来はかなりの学力があるのに、無気力なため単位がとれない。「こんな学校、はじめから来たくなかった」と中途退学してしまいます。
学校不適応の子の場合は、せっかく入学した学校にうまく溶け込めないのです。進学校では、進学に向かない子は「この学校に来る意味がない」といって疎外される。有名スポーツ校では、選手以外の生徒は添えもの的なあつかいをうけている。生活指導面で管理主義の強い学校では、細かい校則で生徒の自由を締め付けている場合が多く、校則を守らない生徒に対する教師の体罰がきびしすぎる―そんな例がときおり問題になっています。
生徒同士に暴力やいじめがあって、耐えられずに退学、不登校になる。教師に相談しても「おまえに原因がある」と顧みられない。とくに進学校では周囲が冷たいと訴える子が多いのです。暴力行為はさまざまで、暴走族、なかには暴力団とのつながりをもっている子もいます。喫煙、飲酒、シンナー遊びなどで生活を乱している子は多いのです。
面接のとき、親子関係を聞くと泣きだす子がいます。親の離婚、不和、親自身の生活の乱れ、働きすぎて家庭を顧みない。とくに離婚は、まじめな子でもショックで退学につながるケースが少なくありません。そして、学校生活や友人関係に適応できずに自律神経失調に陥り、ストレスから頭痛や胃痛を訴えて不登校になってしまいます。
現在の日本の教育現場には受験戦争をはじめとしたさまざまな問題があって、ともすれば単純に行為だけを見て不適格者と判定してしまいがちです。そんななかで、問題の多くは子ども自身よりも学校、社会、家庭などおとなの世界にあって、子どもはその犠牲になりアウトサイダーのレッテルが張られてしまいます。なぜそうなったかの追跡をしてみると、子どもをとりまく環境のなかに問題があって、その子の成育歴からその芽が育っている場合が多いのです。
そうした生徒が入学してくると、ほとんどが学校不信、教師不信、おとな不信に陥っていて、たえず斜にかまえて反発し、生徒と教師とのあいだに激しい対立があります。
入学して2、3ヵ月間はクラスのなかでもたえず仲間けんかなどのトラブルがひん発しますし、欠席、遅刻、中抜け、無気力授業は日常的でさえあります。
「たいへんなのは担任の教師です。ある生徒がひどい荒れ方をする、あるいはその被害にあって、このままでは逃げて帰ってしまうかもしれないと思うと、夜なかでも寮を訪問して話を聞いてやります。1クラス約40人の生徒をわが子のように抱えているので、1人の教師では手に負えない場合は他の教師の力を借りねばなりません。ですから、うちの学校では学年の生徒一人ひとりを5人の学級担任全員でみていこうという考え方で対応しています。学級担任の団結が、すごく重視されています」とのこと。
32人の教師全員が全精力を注ぐのは「学校は生徒たちが安心して生活できる場でなければならない」ということです。
「暴力とかいじめが起きていても、それが教師に見えない場合もあります。しかし、それを見逃すことはぜったいに許されません。人間は、暴力で支配したり支配されたりする関係をぜったいに認めてはならないと言い聞かせ、生徒のあいだに暴力やいじめが起こったら教師は生徒のなかに入り、文字どおり体当たりで解決していきます」と校長。
子どもの暴力は、最初は掃除当番を代行させる。パシリ(使い走り)といって、金を渡さずにパンや缶ジュースの買い物を強要する。そんな小さなところから始まり、だんだんエスカレートして何万円という金を巻き上げられるケースはたくさんあるのです。そして、服従しなければ暴力をふるう。こうした子は、成育歴のなかでも暴力が野放しにされ、それは低学齢の傾向さえ強めています。
暴力をふるう側の子は、世の中は暴力でしか解決できないといった思想さえもっています。いじめられつづけてきた子の場合は、暴力的な子の前に出ると委縮してなにも行動できない。人格さえも歪められている子が大勢いるのです。
「ツッパリ生徒が徒党を組んで向かってくると教師も怖いですよ。しかし、これを見過ごしたら600人もいる他のほとんどの生徒がどんなことになるかを考え、勇気を奮って指導していかねばなりません。一人、二人の教師では対応できかねる場合、学校全体が団結して解決にあたります。一つひとつのできごとが大きな問題につながっていくのだという認識をもって指導していく。一人ひとりの教師の毎日の指導が重要なので、あの時の指導は正しかったかを教師同士で相互批判します。考え方の対立があった場合は、夜中までもとことん話し合って一致点を見いだすまで議論を重ねます」といいます。
そして、生徒には「人間はみんな平等なのだ。社会は、みんなが対等に話し合い、協力オあってつくりあげていくものだ。おまえの行為でこんなに苦しみ、悩んでいる人がいるのに、それでもまだ迷惑をかけるつもりか」と、説教ではなく、本心から「なるほど」とわからせるようにする。そのことには、教師自身が全人格を賭して、真剣に、そして誠実にぶつかっていくのです。
それでも、教師の目の届かないところで暴力行為がおこなわれていることがあります。ある生徒は、入学して1ヵ月が過ぎたころから目つきが鋭くなり、顔つき、歩き方などがツッパリ型に変化しました。喫煙や飲酒、マージャンを覚え、荒れた生活を始めるようになったのです。あげくにツッパリ生徒の一派から暴行を受けて、片方の目を失明する大けがを負いました。母は「学校をやめよう」とすすめるのですが、その生徒は「いまやめたら負け犬になる。なんのためにこの学校に来たのか――その意味が無くなる」と言い張って聞き入れません。1年生を終えるころからは生活も落ち着き、ボランティアサークルに入って活動するようになり、この3月、社会福祉の勉強ができる大学進学をめざして卒業していきました。
「一人ひとりをしっかり見ていくと、必ず良いところをたくさん持っています。それを発見し、伸ばしてやり、生徒自身がその良さを武器に生きていこうと思うようになるまで支援してやるのが教育だと思っています」と校長は強調します。そのために、自分の価値を発見するような出番を、できるだけ多くつくってやることに心をくだきます。
教科指導では、数学、英語、理科などで「授業書方式」の授業をおこなっています。授業書とは教科担任の教師が独自に作った教材のことで、よくわかって楽しい教材を活用することで生徒も教師も、いきいきと授業がすすめられるようにくふうを凝らしています。中途退学を経験した生徒が多いために、英語などでは学力差がきわだち、一斉授業が成立しない状態がうまれています。そこで、最初の15分程度は基礎事項などを説明する一斉授業をおこない、そのあとは2人の教師が机のあいだを巡回して「アルファベットからの級別式学習法」という個別学習をおこなっています。この方式によって学力の遅れている生徒も劣等感を持たずに学ぶことができ、「英語がわかるようになった」と、やる気を出す生徒が増えています。
もうひとつ、この学校の特色ある授業に「総合講座」があります。地元で保存されている北海ソーラン太鼓や八丈島に伝わる八丈太鼓、三味線、クラシックギターなどの演奏を習ったり、和風、陶芸、木彫の制作をしたり、ビデオ制作と編集、余市の歴史と文化・自然、アイヌ文化を学んだりできる10数講座が設けられ、それぞれにその道の専門家が講師になっています。
自分の個性を存分に発揮できるのはクラブ活動や体育大会、校内弁論大会、学園祭などの各種行事です。これらの行事は生徒主体ですすめられるため、ホームルームの団結を固めるうえに大きな成果をあげています。クラス代表に選ばれてしぶしぶ校内弁論大会に参加したのが、ついには全国大会にまで進んで2位入賞を遂げた生徒がいました。
ヨット部は、町の愛好者の熱心な指導もあって道高体連で優勝し、国体北海道代表になったこともあるほどの実力です。
圧巻は、毎年6月におこなわれる開校いらいの伝統行事「強歩遠足」です。全校生徒が体力にあわせて30キロ、50キロ、70キロを歩き通すのです。70キロ組は午前零時に小樽駅を出発して余市を通り過ぎ、仁木町銀山まで行って、ふたたび余市の学校まで引き返します。全員がゴールするのは午後4時を過ぎます。この強歩には父母も大勢参加します。はじめは和気あいあいにおしゃべりしながら歩いていますが、だんだん声が消えていきます。初夏の日本海が静かにうねっているのを見下ろす道、風が心地よいリンゴやブドウ畑の道をひたすら歩きつづける。それは自分の可能性への挑戦であり、生き抜く自信をつけるための闘いでもあるのです。
息子と肩を並べて歩き、ついに脱落する父親がいます。しかし、最大の難所といわれる冷水(ひやみず)峠で、自分よりも大きく成長した息子がへばり始めているのに手をかし、力強く励ましながら歩きつづけている父親もいます。
「50歳にも手の届くその父親は、これまでの人生を家族のために働きづくめ、いちども子どもの手を引いてやる機会がなかったかもしれない。それがいま、遅ればせながらでも息子の手をとり肩を並べて、力いっぱい励ましているんです。その父親の胸に去来するのは、ふれあいが少なかったことへの後悔、あるいは息子に詫びる思いであったかもしれませんね」と、PTA会長の丸岡晴樹さんは感動をもって思いやっています。
ゴールでは母親たちが、手づくりのうどんを盛って迎えます。熱いうどんをパクつくわが子の姿に「これで、この子は立ち直れる。こんどこそ楽しい学校生活が送れるにちがいない」と目をうるませるのです。
それぞれになんらかの悩みや問題を抱えていたわが子を、遠くに手放す父母の心はひとかたではありません。
「高校では親の出る幕はほとんどないのが通常ですが、この学校では親と教師の結びつきがとても強い。本州の親などは北海道に来るだけでもたいへんなのに、年になんども来て教師と話をしています。問題を抱えていた子の親は地元では自分の悩みを打ち明けにくいのですが、この学校に来れば気どる必要も隠す必要もなく、気楽に話ができます。だから、初対面の人とも気軽につきあえるのです。その一人ひとりの思いが、PTA活動を他には珍しいほど活発にしています」と丸岡会長はいいます。
授業参観、生徒会行事、PTAの研修、親睦行事があるたびに200人を超す父母が、本州からはツアーを組んで余市にやって来ます。現在、北海道、東日本、西日本に支部が組織され、新潟や高知など地方都市にも父母の集いがうまれています。そこでは年になんども懇親会を開き、父母の文集『きずな』を随時発行して、父母の熱い思いを生徒や学校に伝えています。
丸岡会長は、そんな成果を踏まえながら「この学校も、まもなく創立30年を迎えます。そろそろ転・編入生を受け入れる学校といわれるだけでなく、ほんとうに自由で、生徒一人ひとりの長所を引きだし、伸ばしていく学校として評価されるようになりたいものです」と話しています。
この学校の生徒の全員が、問題を抱えて入学してきたわけではありません。近隣のまちの中学校から、将来は充実した社会福祉学科のある北星学園大学に進学したいという希望で、かつてその兄弟校である北星余市高を選択した河崎亜子さんは「ツッパリ生徒の多いと思っていた北星余市高が大嫌いで、受験するのにずいぶん迷った」といいます。
しかし「入学してみると、先生はクラスのみんなを主役にしようと一生懸命努力してくれました。非行や暴力が起きると、なぜそうなったのか、どうしたら解決できるのかをみんなで考えさせられました。そんな毎日をつづけているうちに、クラスメートも本音で体当たりしていくと答えが返ってくるようになり、友達も増えました。あの学校は、ほんとうに温かいんです。卒業してからも、みんな同志だという気持ちでつきあっています」と、いまもかつての担任教師と近況などを話しあうため、ときどき学校へ足を運んでいます。河崎さんは念願どおり、ことし北星学園大学の社会福祉学科を卒業し、地元の病院にカウンセラーとして就職しました。
「北星余市高は温かい」という感想は、1年生を終了した生徒たちのほとんどが口にしています。非行で2度もの謹慎処分を受けた女子生徒が、不登校に陥りかけている同じ下宿の仲間を毎朝起こしに行き、誘いあって通学したという手記があります。「小学校、中学校ではうわべだけのつきあいだったのに、このクラスは初めて仲間と認めてくれた。悲しい時、つらい時は励ましてくれ、楽しい時はいっしょに笑った。それがすごくうれしかった」と、クラス替えを寂しがる男子生徒がいます。そして、みんなが「1年間が短かった」と振り返っています。
ある卒業生は「受験体制の教育に負けたぼくに、人として生きるチャンスを与えてくれた。どの生徒にも温かい目が注がれているのが感じられる。自分を見失ってくじけそうなどん底に、光があった。仲間と人生について激論するようになった。自分を見つめ直すようになった。この学校での生活が糧になって、自分がひとまわり大きくなったように思う」と言い残しています。
この学校の教育には、地域の人たちの協力も積極的です。町内で400人もの生徒を親代わりになって世話をしている27軒の下宿や寮の人たちの率直で温かい人情に、生徒の寂しい心、両親の不安がどんなに慰められたことか。「余市は私たち親子の第2のふるさとです。どうか北海道の本家になってください」と懇願した一家がありました。
いちどは高校での学習を断念していた生徒も、近年は生徒の70%が大学や専門学校に進学を希望しています。その子たちの希望をかなえてやるため、学力の向上をはかるとともに、推薦入学を受け入れてくれる学校を拡大していかなければならない。それが深谷校長のこれからの行動目標です。
学校法人 北星学園 第3代理事長 有馬 純
北星学園余市高校は、地域の熱心な要請のもとで1964年12月に道の認可を受け、北星学園の兄弟校として翌年4月に開校しました。しかし、創立15年ころから後志(しりべし)地区の過疎化がすすみ、生徒がしだいに集まらなくなってきました。理事会もそのことを憂い、87年の暮れにはついに生徒募集を停止して2年後には廃校しようと決定を下すまでに追い込まれたのです。
ところが、余市高Zの教師陣が全国の高校中途退学者を受け入れようという熱意によって廃校決定を取り下げるばかりか、早速、新学期から積極的に転・編入生を受け入れて再起を期す決断をしました。これが余市高校の一大転機となり、私にとっても忘れられないできごとです。
これがたいへんな反響を呼び、入学希望者が殺到するほどになりました。そこで、理事会は校舎を全面的に建て替えることを決め、91年秋に新校舎を完成させました。本校に入学してくる生徒の多くは、さまざまな悩みや挫折の経験を持っています。そんな生徒たちを温かく迎え、授業指導、生活指導をしていく教師たちの苦労は並大抵ではありません。しかし、もういちど高校生活をやり直したいと決意した多くの生徒たち、その両親の真剣な思いにこたえて、なんとか生きる意欲を持たせたいと日夜努力している教師や関係者、その心を支えているのは、博愛の精神だと思います。
北星学園余市高校の実践は先駆的で、大きな教育的意義をもっており、世間からもたいへんな期待と注目が寄せられています。その方針は、今後も変えずに継続できるよう努力したいと思っています。そのためにも、教師が健康で使命遂行できるようにと、私も毎日祈っています。