一非三無。この言葉を聞いたのは、私が司法試験に合格して司法研修所に入った時であるから、今からもう20年前のことである。
司法修習は毎年4月から始まるが、修習生は皆、自信に満ちた顔をしている。2%といわれる合格率をくぐり抜けてきた者たちであるので、その意気込みたるや大変なものがあった。ところが、「刑事裁判」の講義の第1講目に、教官が「一非三無」と黒板に書き出したのである。そして、「これが君たちのすがたである」と喝破した。
司法修習生は、非常識であり、無学であり、無教養であり、無礼である、と言うのであった。自信満々に研修所入りした者たちは、いきなり冷水をあびせた感じのあるこの言葉に愕然とした。
しかし、翻って、当時の修習生を見ると、法律学の基礎的な勉強は、一応合格点に達していることは認められるものの、社会人として当然弁えておかなければならない常識を著しく欠いていたり、また、自然科学的な視点を持たなかったり、あるいは、文学的な素養が全く無かったり、さらには、語学の語の字も出来ない者が居たり、そして最後の極めつけは、当然、社会人として不可欠な礼儀作法がなっていなかったりする。言われてみれば、当然のことである。
ところが、浅はかにも、修習生の分際で、周囲から「先生、先生」と言われると、何か偉くなったように錯覚する。そして、弁護士になるや、「先生」と呼ばれることに違和感が無くなってくる。慢心とは、恐ろしいものである。
弁護士が、仕事を通じて社会から評価されることは、確かに有り難いことである。しかし、その弁護士が、無礼であったり、無教養であったり、そして非常識であることが許されるはずもない。謙虚な常識人であらねばならない。
現在、札幌には、250人余りの弁護士が開業している。皆、素晴らしい個性の持ち主だと思うが、時には不遜とか傲慢という言葉が背広を着ているような方がいないわけではない。「一非三無」を、以て自戒すべきである。
また、数ある先生の中で、最も謙虚であってほしいのは、議員「先生」であることは言をまたない。