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1993年11月号/第59号  [特集]    留萌市

母校愛、郷士愛、人間愛を編集の理念に 高校生の視点から喜びや痛みを報道しつづける
留萌高校新聞局 留萌市

  
 高校生が、高校生自身の立場と視点で主体的に発行する「高校生新聞」。その紙面には、生徒会や部活動など校内のさまざまな出来事の報道から、進路問題、恋愛や性のことなど心の問題、さらに地域や社会問題にいたるまでを若い純粋な目で見、考えた提言がはつらつと展開されています。道内高校生新聞のなかでもっとも古い歴史を持ち、しかも全道高校新聞コンクールで20年間連続総合賞に輝く留萌(るもい)高校の『留高(るこう)新聞』は、とくに意欲的な企画テーマにがっちり取り組み、充実した紙面を作りつづけ、全校の教職員、生徒に愛読され、地域や他校からも高い評価を得ています。

ことし創立70周年明るく、意欲あふれる校風

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北海道留萌高等学校(浅井武治校長・〒077-0011 留萌市東雲町1丁目84番地、電話0164-42-0730)は、1924年(大正13)に町立留萌中学校として創立。翌年、庁立に移管され、「流汗悟道」を校訓に留萌地方の中心校として多くの生徒を送りだしてきました。戦後の学制改革で道立留萌高等学校となり、2年後に道立留萌女子高等学校と併合して現在にいたっています。全日制は普通科と商業科があり、生徒数1125人、定時制課程には93人の生徒が78人の教職員のもとで学び、ことし10月に創立70周年を迎えました。

この高校は、一貫して管内の中心校としての使命と期待を担い、教職員、生徒の自覚も高く、進学や就職にと学習に力を注いでいます。一方、弓道や陸上競技などは毎年のように選手を全国大会に送り、野球部も着実に力をつけつつあるなど、スポーツ部の活躍がめだちます。また、生徒会放送局、美術部をはじめとした文化部の活動もめざましく「この学校の文化祭は質が高い」というのが父母やまちの人たちの評価。現在の校訓「心も高く、身も健やかに」がそのまま体現されているような明るい高校です。

雑然としたなかの編集作業も若いエネルギーがいっぱい

イメージ(新聞局の編集会議はいつも明るい)
新聞局の編集会議はいつも明るい

この学校の職員通用口から廊下をまっすぐ進むと、右手中程にあるのが「新聞局室」。放課後、早くも新聞局の生徒たちが編集作業をしています。部屋の中央に机10脚ほどをテーブル状に寄せ合わせて並べ、その上には原稿用紙やレイアウトの台紙、資料や辞書、新聞のバックナンバー、そして飲みかけのコーラーの缶やコーヒーカップが氾濫しています。壁には連絡用の貼紙、取材予定表、新聞の切り抜きコピーなどが張りだされ、新聞局独得の雑然とした雰囲気をかもしだしています。

それでも“若者の城”らしく、棚のCDプレーヤーからは人気歌手のニューミュージックが程よい音量でリズムを刻み、新聞局の生徒たちが記事の推敲で議論をする声や、突然だれかの飛ばすジョークにドッとわきおこる笑い声など、室内は騒然としたなかにも明るさが満ち、取材後の報告や感想を語り合っている生徒、原稿を書いている生徒それぞれの目はいきいきしています。

「いつも自由にワイワイやっています。しかし、何かのきっかけをつかむと、パッと編集の話に移行して会議を進めていきます。そのへんの切り替えは、とてもうまい。そして、また騒ぎだすんですね」と話すのは、この学校で9年間、新聞局の顧問として生徒に新聞づくりを指導してきた菅野昭浩教諭です。「それぞれに問題意識を持っている生徒たちですから、話をしていてほんとうに楽しいんです」と目を細めます。

窓際の机の上に中古のパソコンが1台。卒業生の会から資金の一部を寄付されて購入したものです。『留高新聞』の場合、生徒が入力した記事をフロッピーのまま印刷所に渡し、それを写植変換して印刷しています。近年、道内の多くの高校ではワープロやパソコンで編集したものをファックス刷りして配布している高校生新聞がふえてきました。ことし9月に開かれた全道高校新聞コンクールでも、印刷所に発注して本格的な写植印刷による新聞をA部門、ワープロなどを使って速報性を重視したミニコミ的な新聞をB部門に分けて審査がおこなわれていました。

混乱期のなかに希望をめざし新制女子高校と合同で創刊

このコンクールに参加したのは78校でした。そのなかで、創刊45年というもっとも古い歴史を誇っているのが『留高新聞』です。

最初の題号は『留萌高校新聞』。創刊号は1948年5月15日付、タブロイド判2ページの活版刷りでした。この年4月にわが国は学制改革がおこなわれ、新制高校が誕生したばかりのときでした。教育の場にも平和と自由・平等の新しい思潮が盛り込まれ、男女共学が実行されるようになりました。生徒たちは新時代の到来に希望をふくらませ、進取の意気に燃えていました。

改革当初、新制留萌高校は旧制中学から移行されたままでしたが、いち早く高校生新聞発刊の機運を高め、新学期から1ヵ月半後に創刊号を発行するという快挙をなし遂げたのです。まだ男女共学は実施されていませんでした。しかし、当時の生徒たちは留萌女子高校の有志生徒と協力して、合同で創刊号を作りあげたのです。興味深いのは、発行所が「留萌高校新聞社」となっており、編集人に辻中栄子さん、印刷発行人に坂井克巳くんの名が並んでいます。

イメージ(留萌高校はことし創立70周年を迎えた)
留萌高校はことし創立70周年を迎えた

創刊号の論説欄には「高校新聞の発刊たる意義は、一に学生自体の明朗化にある」とし、次いで「私達は学生生活にあって、正しく社会を見つめて行きたい」「学生の持ち得る吸収力の下に、新しい世界を知り」たいと述べています。そして3つめに「この高校新聞を通じて、高校生を一般の人々に知って頂きたいと言う事である」とし、「私達は、私達の手によって新しき道を拓く能力を有する。この能力を有効に正しく使おう。この小さな高校新聞が僅少であっても、そのよすがにでもなるならば、私達は誠に喜びに耐えない」と結んでいます。

発刊に寄せた他の生徒の記事にも「自己の知識を確実なものにするため広く読書し、論議を争わし、時には一文を作り、自己の思想をまとめて自己向上に貸すべき」とか「大きな正しい理想をもって自己の道を開いていこう」といった純真な主張が展開され、その情熱が彷佛としてきます。

当時の編集長だった辻中さん(現姓・坂牛)は、通刊100号のときに手紙を寄せてきました。文面には「私たちは、新制高校への期待と混乱する時代への不安をエネルギーとして出発しました。当時は敗戦後2年8ヵ月で、衣食住はもちろん、筆一本なく、新婚の顧問先生のお宅で、おかゆをすすっての編集でした。高校生新聞に理解もなく、すべてに原点の時代のなかで小さな流れとして始まった」と。その流れは途切れることなく、後輩たちによって大河に成長しており、その喜びを感慨深く述べています。

沈滞、模索の時代を経て社会問題へも果敢に取り組む

紙齢158号を重ねて、つねにすぐれた新聞を発行しつづけている『留高新聞』も、創刊いらい45年のあいだにはいくつかの波を経験しています。菅野先生はそれを大きく3期に分けます。

イメージ(留萌高校では毎年クラスごとの壁新聞コンクールがおこなわれ、新聞局員は講習に招かれる)
留萌高校では毎年クラスごとの壁新聞コンクールがおこなわれ、新聞局員は講習に招かれる

第1期は草創期。少ない予算の中で小型のタブロイド判から大型のブランケット判に拡大しましたが、局員生徒の数も少なく、どうしたら全校生徒に読まれる新聞を作ることができるか、その産みの苦しみの時代だったといいます。創刊時の、混乱から激動期の社会や教育環境のなかで情熱を燃やした局員たちは、3年ごとに卒業していきます。そのあとをどう引き継ぐか、局員たちの模索がつづきました。局員の意識の高まらない時期もあり、校内の行事や話題が中心の紙面でした。しかし、1960年代半ばから新聞を発行する高校が急増し、全道高校新聞研究大会への参加も160校を超えるまでになりました。そのなかで『留高新聞』は、コンクールで入賞を果たすまでに成長していきました。創刊時の先輩が示した新聞づくりの姿勢と情熱をよみがえらせ、力強く沈滞から脱出したのです。

第2期は黄金時代。70年安保、高校紛争などを見つめた局員たちは、果敢に地域社会の問題、反戦・平和の問題に向かって徹底取材と鋭い視点を注ぎ、特集記事を次々に掲載しつづけました。高校生新聞の芥川賞といわれる「酒井賞」を受賞し、全国最優秀の文部大臣賞を初めて受賞し「北海道に『留高新聞』あり」といわれるほどの成果を示したのです。

厚生省を動かした“引き揚げ3船撃沈”の特集記事

1976年7月20日付「樺太引き揚げ三船遭難―留萌の戦後は終わらない」の特集記事が、全国に大きな衝撃を与えました。

イメージ(推敲が終わった記事はパソコンに入力)
推敲が終わった記事はパソコンに入力

「昭和20年8月22日、早暁の留萌沖は血の海と化した」という書きだしで特集は始まります。「樺太から小樽に向かう小笠原丸、第二新興丸、泰東丸の乗員1708人は一瞬のうちに次々と国籍不明の潜水艦の魚雷攻撃の餌食となり、海底深く消えて逝った。まったく無防備の老人、女、子どもたちが……、いまだに不明のまま沈む泰東丸。ともに船内に眠る667人の御柱」「平和な夏の海に風化する戦争の傷跡」と、留萌高校の新聞局員が遭難から31年後に初めて歴史の惨状を掘り起こし、「留萌に住むすべての人びとがこの現実を回避する限り、留萌の戦後は終わらない。恐るべきは戦争体験の意図的な空洞化であり、真実の隠蔽であろう」と、憤りをこめて訴えました。

この特集は道庁を経て厚生省を動かし、翌年、泰東丸の遺骨収集作業が開始されました。関連記事はその後なんども取り上げていますが、ことし7月23日付の企画特集でも、撃沈された3船の中に「青いチマ・チョゴリを着た朝鮮人がいた」という証言を聞き込んで、真実を探がす取材をしています。

考え、行動する新聞にと 記事は“6W2H”を原則に

菅野先生が顧問に就任したのは1985年。このときから『留高新聞』は、またひとつ新たな前進をめざしました。

「新聞局の生徒たちが創刊から一貴して持ちつづけている目標は、母校愛、郷土愛、ヒューマニズムの3本柱です。その目標はいまも変わっていませんが、質的な変化を遂げつつある」といいます。

「私たちは『留高新聞』を読んで考え、行動してもらう新聞をめざしています。ひとつの記事にもできるだけ多くのコメントを集め、紙面にたくさんの生徒に登場してもらう。そして、生徒の声、先生や地域の人、関連ある人の意見を聞いて記事の幅を広げ、内容を掘り下げて取材し、肝心なところは読者である生徒に考えてもらい、行動してもらうようにとなればと思っています」と現局長の益子恵美さんは話します。そのためには、考え、行動に向かうために役立つ情報をできるだけ多く提供しなければならず、記事の書き方にもじゅうぶん配慮しなければなりません。

ふつう、報道記事は“5W1H”(だれが、いつ、どこで、なにを、なぜ、どのように)の基本を踏まえて取材し、記事を書きますが、菅野先生は、それにHow much(価値) so what(どう発展していくか)を加えて“6W2H”を基本に記事を書くようにと提言しました。しかし、生徒にはあまりやかましく言わないとのこと。昨年から顧問に加わった秋田隆之先生とともに「事実の確認はしっかりするように」と指導するだけだといいます。

新聞局は学校側からも生徒会からも独立し、発行権が尊重されています。局員生徒もそのことをじゅうぶん自覚し、原稿は局長、編集長がチェックし、さらに全員で確認しあいます。「最終的に顧問の私たちが目を通しますが、内容の変更を求めることほとんどない」とか。

以前「まちの中が汚れている」という提案があったとき、汚いというだけでは実感がわかない。実際にどれくらいのゴミが捨てられているだろうかと、学校近くを流れる留萌川畔のゴミを拾い集めて記事を書いた生徒がいたといいます。また、盲導犬の育成は個人の寄付によって支えられていることを知って、盲導犬第1号の名にちなんで「ミーナの箱」と名づけられた募金箱を校内にも置き、集まったお金を毎年送金しています。

朝鮮学校や准看制度、障害者など、差別と福祉をテーマに

イメージ(校内の話題もきめ細かく取材する)
校内の話題もきめ細かく取材する

この7月20日付157号に、3年生の前局長・鴨川勝之くんを中心とした全局員のエネルギーが爆発しました。昨年の秋まで、新聞局には現在の3年生6人しかおらず、昨年11月に小林美奈子さんが2年生でただ1人入局してきましたが、ブランケット判8ページ建ての新聞を年8回発行すると、大きなテーマに取り組む余裕はありませんでした。そんななかで、ことしの2月、鴨川くんたちは「先生、新学期になって1年生がたくさん入ってきたら12ページの新聞を作っでいいですか」と申し入れてきました。顧問の先生たちは予算のこともあるので答えは保留していましたが、新学期と同時に1年生が9人も入局してきました。態勢は一気に充実しました。「よし、GOだ!」。

構想は固まっていました。「すべての面のテーマは“差別”でした」と鴨川くん。「きっかけは、同じ高校生の朝鮮高級学校の生徒が高体連や高文連に参加できないでいることを知ったからでした」と前編集長の畑中裕美子さん。5月付の発行は1年生に任せ、上級生たちは7月の特集号に全力を投入しました。

企画特集は、朝鮮人差別の問題でした。札幌市豊平区にある北海道朝鮮初中高級学校に取材を申し入れました。

3人で同校を訪問すると「自分たちの学校とほとんど変わらないという印象でしたが、ちょうど校内放送でハングル語が流れたんです。それにチマ・チョゴリを着た女生徒の姿も見かけました。でも、生徒と話してみると、育ったのは日本の国ですし、同じ言葉を話しています。スポーツ活動で汗を流している姿も、わたしたちと同じ高校生。それが、なぜ差別を受けるのか疑問に思いました」。

何人かの生徒に会って差別に耐えている気持ちや、高体連でみんなといっしょに力を試してみたいという、彼らの願いに心を打たれました。そこで、留萌市内に住む社会人にも取材し、実生活上での権利差別の実態を聞き、戦争責任の重さを実感してきました。こうした差別を生む原因は、自分たちと異なるものを排除しようとする体制が存在しているためであり、そんな社会のなかで甘やかされて成長する子どもたちの心にも異種排除の差別意識がひそみ、“いじめ”の要因につながっているのではないかと問題を投げかけました。

イメージ(体験取材をしたこの夏、市内で車椅子の体験取材をした)
体験取材をしたこの夏、市内で車椅子の体験取材をした

企画特集につづいて、4つの特集記事を組んでいます。特集1は「福祉推進都市の現状」。ケガをした生徒が松葉杖で通学途中、鋪道のタイルに杖が引っかかって転倒したという話を耳にしたのが動機でした。そこで、障害者用の公営住宅や公衆トイレ、歩道の段差などの公共物がほんとうに障害者の役に立っているかを、取材を通して検証したのです。とくに局員生徒の飛島麻美さんが、実際に車いすに乗って街頭を通行した体験記をまとめました。

6人の局員が担当して取材した結果の感想は「わたしたちには何でもない個所が障害者には壁になっていることがいくつもあり、まだまだ障害者にとっては住みやすいまちとはいえないと思います。でも、障害者用の公営住宅に、3年間要望していたお風呂が昨年やっと取りtけられました。どんな小さなことでも、あきらめないで要望していけば実現されると喜んでいるのを知りました」とか「障害者は暗いイメージがあるのではないかと思っていましたが、部屋に招かれて話してみると、趣味も広い人で、ひとり暮らしでも、とても明るく生きていらっしゃるんです。そのことを話しましたら、多くの市民から障害者という特別の物差しで見られていることが残念と、悲しい目をしていたのが印象的でした」と生徒たちは話すのでした。

特集2は「正看と准看」。札幌の専門病院で正看護婦として働いている卒業生から提起された問題でした。在校生に看護婦の仕事についての印象や認識を聞き取り、現場で働く看護婦からの取材を積み上げて、ほとんど同じような仕事をしていながら厳然と存在する待遇格差や“お礼奉公”の実態に目を向け、准看制度の廃止を望む声の多いことを浮き彫りにしました。

特集3は「奪われた声」。高校生のカラオケ禁止の是非について、いろいろな立場の人からの意見をまとめ、道内各高校の対応ぶりも取材しました。そして、特集4は「報道と人権」。三重県の中学生が県の教育委員会に高校合格者名簿のメディアヘの提供中止を訴え、新聞への掲載は受験番号だけになったことに注目し、身近な生徒や教師、報道関係者から広く見解を聞き出しています。

自分たちの知らない世界を知り視野を広げて成長していく

みんなが燃えて、盛りだくさんなボリュームの新聞を作り終えたことのまとめとして、鴨川くんは「取材をした皆さんは、真剣にいろいろと話してくれました。それぞれのテーマについて、ぼくたちは高校生の目からしか見えないのですが、おとなの目やいろいろな角度からのコメントの一つひとつがとても勉強になり、考えさせられるものが多かった」と話しています。

イメージ(原稿の執筆は真剣勝負)
原稿の執筆は真剣勝負

「新聞局の経験者でマスコミ関係に進んだ生徒もでましたが、報道人を育てようと思ってはいません。新聞局の活動を通じて身のまわりのこと、社会のことを正しく見つめ、考え、勇気をもって行動する人に育ってほしいと願っています。そのため、どんどん校外に出て一般の人から取材をすると、急に視野が広がってきます。自分の知らない世界がある、自分の知らないことを考えている人がいる。そのことを身をもって体験することで、生徒たちはどんどん成長していくのです。それを育ててくれるのは地域の人たちです。しかし、以前は生徒が取材に行っても、高校生だからと軽くあしらう人がおり、生徒が悔しいと言って泣いて帰ってきたことがあります。また、生徒たちが純粋な気持ちでまちおこしの提案を記事にしても、まだ反応が少ない」と菅野先生は残念がります。市民に、ぜひ『留高新聞』を読んで欲しい。そして、高校生の純粋な発言に耳をかたむけて欲しい。そんな望みも新聞局員たちにはあります。

鴨川くんたち3年生は、2年半の活動の集大成をなし遂げて新聞局を去っていきました。そのあとを引き継いだ2年生、1年生の局員が作り上げた158号には、創立70周年の特集のほか、夏のあいだの体育祭や高体連、高文連での活躍ぶりがいきいきと伝えられています。

生徒の言諭活動は教育の大きな目標


イメージ(武石 文人さん)
武石 文人さん

全国高校新聞教育研究会 顧問 武石 文人さん

留萌高校の『留高新聞』は1948年5月に創刊され、現在確認されているなかでは道内高校生新聞の嚆矢(こうし)です。

良い新聞といわれる高校生新聞は必ずひとつの編集方針、理念といった目標を持っていますが、『留高新聞』は学校愛、郷土愛、ヒューマニズムという3つの編集方針を45年間掲げつづけ、それを追求している新聞です。この新聞の特色は、紙面から生徒が飛びだして来るような感じがあり、校内のニュースには多くの生徒を紙面に登場させ、こまめに記事を拾い上げています。また、地域や社会問題にも積極的に取り組んでおり、しっかりした取材を積み上げ、高校生の立場から意見も書いています。

近年、全道、全国の高校生新聞コンクールなどでは高校生新聞のレベル低下が指摘されています。そこにはいろいろな要因があるでしょうが、高校生全体の文化状況がかなり低調といわざるを得ません。生徒自身の問題意識が希薄になっており、学校側も新聞発行に消極的な面があります。しかし、生徒に言論活動の自由と責任を体得させることは、教育の大きな目標のひとつです。そんななかで、留萌高校新聞局の活動は、高校生新聞のレベルを高めるリードオフマンとしての期待が寄せられています。

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